八月一日 百花譜
萩原井泉水 氏著 昭和七年刊
俳人読本 下巻 春秋社 版
當世の人の花過ぎ、古人の實すぎたる、いづれの時か、花實兼備の世あらん。
梅の風骨たる事、水陸草木の中に、似たる物はあらじ。十月一陽の氣に、燦々(さんさん)たる江南の玉妃、まづえめるより、生涯を物ずきにくるしみ、風流のほそみに終る。是を色にたとへていはゞ、吉野、高尾などいふべき遊君の、心おとなしく、名を恥ぢ、いき過ぎたる心より、相火(さうくわ)の高ぶり、かたち瘦(やせ)ぎすに涙もろく、きのふの我に飽(あ)きける心より、一たび著たる衣類調度など、ふたゝび目にもかけず、人に打ちくれ、金くれる男なれども、愚癡なるにはすりぬけ、請出さるゝ場所をはづして、はずんだる男の一言に、百年の富貴をかへたり。借錢の利に利を重ね、やうやう盛も過ぎたる頃、生前の本望を遂げて、幽(かすか)なる住居に、朝夕の烟をたてても、猶物ずき風流の細みに富めり。子さへなくて、夏冬の寢覺もやすし。待つ事もなくて、世を靜にいとなみ、同穴のかたらひを、なせる人には似たり。
紅梅といふ花は、一度(ひとたび)彼岸參の心を動かし、未開紅(みかいこう)の光をはなちぬれども、やがて莟(つぼみ)くだけ、花ひらけてより、日々におとろへ、雨風を帶び、夕日にしらけて、つぼめる色を失ふ。たとへば三十(みそぢ)過ぎたる野郎の、大躍(おほをどり)[四]につらなり、心ならず風流をつくりたる心地ぞする。
櫻は全盛の傾城なり。天晴(あっぱれ)當風[五]に打ちこみたる風俗、行末明日のたくはへの、一點もなき花なり。
海棠は、同じく時を得たる野郎の、大夫と仰がれ、勢ひもさかんに、世の中猛(まう)とのゝしれども、質素にしてうるほひ少(すくな)し。誠に香のなき一色の、缺けたる心地こそ本意なけれ。
梨花は、本妻の傍に侍る妾のごとし。よろず物おもひにうちしづみ、常に人の下にたてるがごとし。
椿は、たゞありの人の、本妻とむかへたるが、端手(はで)なる風俗をも似せず、ありがかりに家を治め、身を修めるをもととし侍れども、さすがに女色なれば、うす化粧に紅粉をたえさぬ身持のよき花なり。
桃は、元來いやしき木ぶりにして、梅櫻の物好(ものずき)、風流なる氣色(けしき)も見えず。たとへば下司(げす)の子の、俄に化粧(けはひ)し、一戚(いつせき)[六]を著飾(きかざ)りて出たるがごとし。爛漫(らんまん)と咲きみだれたる中にも、首筋小耳のあたりに、産毛(うぶげ)のふかき所ありていやし。
藤は、執心のふかき花なり。いかなるうらみをか下に持ちけん、いとおぼつかなし。
山吹のきよげなる、眉目容(みめかたち)すぐれ、鼻筋おしとほり、襟廻(えりまは)り綺麗(きれい)に生れつき、たゞ透融(すきとほ)るなんどいへる許(ばか)りにて、さして命をかけてと思はざる類(たぐひ)こそ、女の本意(ほい)とはいふまじけれ。
長春(ちやうしゆん)、薔薇(しやうび)のたぐひは、紅白うつくしく、粧ひたるには似たれど、元來いやしき花の、殊にさかり久しきこそうたてけれ。たとへば惣嫁しいへる辻君の、日のくるゝを待ち兼ね、世上に徘徊し、物心おぼえてより、其ながれをたてて、五十にちかき頃まで振袖を著(ちゃく)し、始もなく終もなきこそうるさけれ。
牡丹は、寵愛時を得たる妾(てかけ)の、天下にはゞかれる、心なげに打ちほこり、常は嫉妬(しっと)我執(がしゅう)のいかりふかくして、靑天にむかつて吐息(といき)をつきたる風情に似たり。
芍藥といふ花は、いまだ嫁せざる娘の、よはひも二八にあまりたるが、ねよげに見ゆる心地ぞする。
罌粟(けし)は、眉目容(みめかたち)すぐれ、髪ながく、常は西施が鏡を愛して、粧臺に眠り、後世なンどの事は、露ばかり心にかけぬ身の、一念のうらみによりて、ごそと剃りこぼして、尼になりたるこそ、肝つぶるゝわざなれ。
杜若は、のぶとき花也。うつくしき女の盗(ぬすみ)して、恥をしらぬに似たり。
あやめは、小づくりなる女の、目を病める心地ぞする。
百合花(ゆり)は數品おほし。笹ゆり、博多(はかた)ゆり、鬼百合、色は異なれども、元來一種にして、生得いやしき花なり。たとへば輿車(こしくるま)にのれる位なければ、かゝへ帶つよくからげあげ、上(かみ)づりに脛(はぎ)たかく、あゆみ出たる女に似たり。
姫百合は、十二三ばかりなる娘の、後(うしろ)に帶うつくしく結びたるがごとし。
合歡(ねむ)の花のねぶげなるは、深閨の中に縫物をかゝへ、晝眠る女に似たり。過ぎにし夜半の、いかなる事かありて、かくはねぶりけん、いとおぼつかなし。
其下に、晝顏の目を覺したるは、二十(はたち)にちかき頃まで、男心をしらぬ女の、はじめて宮づかへに出たる頃の、よろづつきなきありさまならんか。
紫陽花(あぢさゐ)の花は、色白に肥えふとりたるが、ちかくよりて見れば、白病瘡(しろいも)のあとのすき間もなくて、興さめてやみぬ。
蓮は、うつくしき所すくなし。たとへば上手の繪にかける天人の顏にひとし。どこやら佛めきて、心こそおかるれ。
卯の花は、第一名目よし。時鳥の來べき頃は、かならず咲くと覺えたるこそをかしけれ。うつ木(ぎ)の花といふ人は、無下の事なり。卯の花月夜の夕すゞみに、しろめなる衣裝に、黑き帶仕(し)なしたる女の、ふと打ちつれたるが、行違ふ程もなく立ちわかれて、顏のほどもおぼつかなく見かへせば、はや尻影ばかりを、見送りたる心地ぞする。何方へか通ふらんといとなつかし。
朝顏の盛すくなきは、よき女の常は病がちに打ちなやみ、土用八專のかはるがはる、隙なきに打臥し、一月の日數も、廿日はかしらからげ、引込みたるが、たまたま空晴れきり、朝日さし出たるに、心地よげに打粧ひ、衣裝などあらためて、ほのめき出たるに似たり。
鶏頭は、和のたき花なり。よからぬ女の、一筋に貞女をたてるがごとし。
蘭(らん)の花は、蝶の羽に筥物すと.先師の傷より授出し侍るこそ、其住人の面影もなつかしければ、これに先をこされて、口を閉ていはず。
鳳仙花といふ花は。是もけばけばしく、紅粉鉄醬(べにかね)を装ひ、人の眼を驚かすやうなれども、手に携えて見るべきものにもあらす、木ぶり葉つきのいやしき事は、彼出女の李(すもも)口もとには似たり。
女郎花は、いにしへより女にたとへ、我落にきと、法師の破戒によめるは、女郎の二字になづめるならんか。初秋の風によろめきたてるも、菊にさきをかけられたらむは、手柄やすくなからんと、むもへる物すきこそやさしけれ。此女郎花といへる物、花にしてはちと請取がたし、たとへば聲のうつくしきを撰みて、小哥を習はそ、髪をおろして是を比丘尼とはいふ也。大卒(おおむね)は女色にして、かざりなければ、大象をつなぐべき、執心のきづなもなし。さればとて、男色のかたづまりたる類にもあらで、男女の中にたてる風俗也。此花百花に類する姿なし。
古人蒸粟のごとしといへるは、草實のたぐひに比すべきか、莖も花も等しく黄にして下葉すくなによろめきたるは、枝比丘尼のたぐひとや見む。
桔梗は、其の色に目をとられり、野草の中に、おもひかけず咲出たるは、田家の草の戸に、よき娘見たる心地ぞする。
萩はやさしき花也。さして手にとりて愛すべき姿はすくなけれど、萩といへる名目にて、人の心を動かし侍る。たとへば地下の女の、よく哥よむときゝつたヘたる、なつかしさには似たり。
菊の隠巡なるは。和漢ともに名にたちたる花なれば、あらためてはいひがたし。
風読物好、目だちたる事を嫌へるは、よき女のおつとなどにおくれて、閑なる片はづれに立しのび、よはひもいまだ三十になるやならすの盛なれば、さすがに髪などおろすべくもあらす。たゞ一人あるおさなきものにひかれて、心ならず世の中に住侘たるを、はづかしとむもへる人には似たり。
(風俗文選)
【註】
八月一日
❖「野ざらし紀行」に 蘭の香や蝶の翅(はね)にたきものす 芭蕉
❖「古今集」に名にめでて折れるばかりぞ女郎花われ落にきと人に語るな 僧正遍照
❖蒸せる栗とは「文朝文悴」に、花色蒸栗俗呼為女郎 源 順
❖比丘尼といふは江戸深川邊に専らあつたといふ売女である。