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源氏とよぶは侮称 源平時代 奴隷商人金売り吉次 矢切止夫著

2024年07月26日 04時35分41秒 | 歴史さんぽ

源氏とよぶは侮称

源平時代 奴隷商人金売り吉次 矢切止夫著

 

 元禄十一年、江戸大火後の弾圧以降は、神仏が強制的に祭祀合併され、「白旗党」といって土豪というか匪賊扱いされた足利時代同様に原住民系が蔑まれる時代がやってきて、人買い、千三つ屋のことを「源氏屋」と呼んだが、お女郎の名も「源氏名」と侮称した。また胡乱くさい青線の女たちの溜りを「地獄長屋」とか「源氏名」と蔑すんだ。芝居小屋に原住系の頭、弾左衛門の管轄なので、舞台の上では、源氏店の名をさけて当て字となし、これを「玄冶店(げんやなだ)」に呼びかえられ、「しがねえ恋が、なさけの仇」と、切られの与三郎が入ってゆくのを、今で云う「オメカケアパート」か、二号さんのマンショソ程度に恰好をつけているが、江戸時代に俗に岡場所といわれた青線は、現在の水天宮を中心に、人形町、蠣殼町一帯が多く、それを知らぬから人形町の先には「玄治店の遺蹟」という標識がでている。かつてあった寄席の「人形町末広亭」の側である。

 螢だって、浮浪みたいに、ふらふら飛ぶのは「<源氏螢」とバカにされる程だから、まさか、ご当人が、文治のその時代に、

 「われこそは、源氏の何某なり」なんて、名乗りをあげなかったのは事実らしい。勿論、「われこそは、みなもとの・……といっていたのだろう。

 なにしろ彼らは(みなもとの民)つまり原住民意識は濃厚にもっていたのである。そして血液の純潔さを保つために、明治までは同族外の婚姻は死罪だった。昭和二十年までは「血統調べ」といって、双方の血脈を厳しく調べたものだが、これも血の中にレプラや悪性の病気があるというのではなく、原住系か外来系かの区別をするために、その調査をしたのである。

 

『古事記』

「忍坂の大室屋に、人多く来入り居り、入り折りとも、みつみつし、久米の子が、

くぶつかり、いしつらいもち、撃ちてしやまむ」

と、土雲八十建(たてる)を殺し、「日本紀』では「八十タケル」を国見岳にてうつ」というように討伐してあるき、「ヤマトタケル」という名を向うから貰って名のら牡るの示日本武尊の神詣だが、これでも判るように日本列島の・原住民示はヤのつくヤ印である。後年は非占領国民としてグレてしまって「ヤーさん」は「ヤア公」になってしまうが、占領系にしてみると、せっかくの舶来系を土着のヤ族と結びつくようなのは、もっての外というのであろう。そうした血脈か無視した結合を彼らの側からは「野合」というのである。何も野っばらで青かんしたという意味ではない。

 さて、原佳民といっても、インデオやインデアンみたいに日本の原住民は馬に跨って「アオ、 アオ」言ってる暇など彼らにはなかった。そして酒や性病で民族の衰亡を招くようなこともなかった。

 なにしろ女尊男卑の彼ら男どもは、山の神である女に、厳しく躾けられ、忍従と精励をたたきこまれていたからである。

 「源・平・藤・橘」と四姓に分けても、大陸からきた占領人種は僅かで、なにしろ日本人には土着の源氏が多いから、その末裔の女性は、今でも、その伝統精神によって、夫を「奴」として扱い、給料袋ごと巻き上げるのを、当然のように考えている女性もいるらしい。

 旧幕時代、新田義頁貞で名高い、今の群馬あたりの男どもは、あまりにも苛められて、逃亡奴隷として、旅烏になり、生きては戻る所もないから、喧嘩の特は死ぬ気で暴れ「上州長脇差」の評判を高からしめた。つまり国乱れて忠臣が現われ、家が貧しくして孝子現われ、女強くして男が苛められ、そこでやむなく敢死になるゆえんである。

 

 さて、なんといっても女というものは、いつの次元においても、谷ろことが好からしく、山繭を集めさせて、それを男どもに、機(はた)で織らせ、衣多(えた)たらん事を願って「八のはた神」つまり、<八幡」をもって、その氏神にした。

 そして氏子である頼朝は、旗上げに際して、

 (東方に光ありと唱える……東光薬師寺系)

 (東北の白山を懐しかむ……白山神社系)

 (えびす大黒、七福神 ……蘇民将来系)

 

 つまり国川内二千有余の別所の、多神教の原住民の末梢の一第団結を企てた。

 そして、この氏族解放の戦いが成功すると、みなもとの「大棟梁」として君臨したが、勿論、実権は、政子夫人の政所(まんどころ)が押えていた。

 いかに彼女の権勢が凄まじいものだったか、という例は、それまで女性の象徴を呼ぶのに、男どもは、別所に「お」の敬語をつけて尊称していたものだが、このあと、東国武士は、頼朝夫人の御名をもって当てたということである。

 ところが、この女性王国に対して、弓をつがえ男性革命を企てた不逞な輩が現われた。

 その男は、河越重頼の娘を妻に持ちながら、静御前という愛人か別にこしらえた。

 ……これぞ「九郎判官義経」そのひとなのである。

 これは「八」の部族にとっては破天荒のことだったらしい。明治期に入って南方族が江戸へ入ってきて、「△権妻(ごんさい)」とよぶ蓄妾制度を流行させ、東京になってからは、おおっぴらに、目かけ、手かけを作って、江戸人の度肝をぬいたが、「八」の男は清潔を旨として訓育され、浮気は、神明の「かげま」ぐらいで、妻以外の女性にふれることは、信仰上許されなかった。それなのに、その男は重婚をした。

 「男の分際にて、よろめくとは、なんたる不所存か」

 政子夫人は烈火のごとく怒った。こんな悪弊が広まったら、女王蜂の権威は失墜するから

である。そして男の浮気は「八」の女どもへの冒涜(ぼうとく)であり、これは部族への反逆罪である。頼朝や、他の家人も、庇(かば)ってやりたかったが、そうすれば、自分たちの「男の貞操」を疑われる。そうなると妻の君に苛められるのは、目にみえている。だから一緒に憤った。

 表向きの咎は、九月十八日に従五位下の官位を勝手に受けたことだが、現代なら、郵便局長を勤め上げた方でも、その上の「正五位」は貰っている。

 だから、話の当初は、ダブル結婚だったようである。これが原因で、義経は「稀代の好色漢」とされた。今日に到る「壇ノ浦合戦」などと言う艶本の主人公にされ、彼は文字通り冤罪を蒙っている。

 「至急、ひっとらえ、仕置きするよう」もう悪いことをせぬよう、その部分だけでも切断するぐらいのつもりで、十月九日に土佐房を鎌倉から、六条油小路の義経の許へやったところ、そこ(男性自身)を切られては男が立たぬと、あべこべに土佐房らを六条河原へ曝し、十八日には、頼朝追討の宣旨を、義経は受けてしまった。

 だが十年前に吉次が変か所へかどわかして行ったりしたから、何処へ今度も潜入したものか、杳(よう)として行方が判らない。そこで源頼朝は[総追捕使」という現今なら検察庁のようなものを設け、その総長になるや、各地に検俳局や警察署を設ける代りに、費用削減の意味もあって、全国二千有余の別所に対して逮捕権を委ねてしまった。三等郵便局というのがあるが、これも同じ形式の三等検事局や三等警察署だった。

 さて別所は何処もかしこも、実権は女である。そして女のひとは、一度手にしたものは、死んでも手離さない本能がある。

 だから、この十二世紀の文治元年(1185)十月に、各地の別所衆へ委任してしまった警察権は、その後、ずっと、七百年もそのままで、取り返したのは、和製ベトコンの永遠の敵である山方民族の薩長の明治新政府だった。だから、菅茶山の『福山志料』にも、

 「三吉村の北に、源氏とよぶ部落あり。ここの者は、すべて「三の八」とよぶ。これは領主水野侯が、備後福山へ入国のみぎり、三河より「八」の頭分を伴って来たから、「三河の八」が縮まって、「三八」になったので、領内の召し取り、牢獄、拷問か司っているものである」

 と誌されてあるし、『雲州鉢屋由来記』によると、

「当地方は、茶せん、長吏、番太、河原者などとも云うが、頭分は文明十八年(1486)正月、爪子伊子守経久を援けた蜂星掃部(かもんべ)の末にて、現在、賀麻(かも)、蒲生(かも)の二家に別かれ、各郡一ケ所の郡牢を設け、この司を「郡廻り鉢屋」とよび、下に「村受鉢屋」があって、数村を監督して、区域内の住民の非違を糺す」とあり、

 「文化四年(1807)の松平出羽家書上げ書」にも、

「鉢屋者は牢番、召捕りにあたるため、一定地に聚楽居住、当時、剣道、柔術、棒術を修練し、武芸巧者として、著名なるものも多く、別に竹細工をなす者は、「茶筅」とよび、茶湯指南などをなすも、他族とは通婚同火は一切固くこれをせず」

 と出ている。但し同火は、その文字通りで、拝火教徒の末の源氏族は、他族の火を忌み、これと一つにしなかった。だから今日でも博徒は煙草の火を、直には貨さないし、パチンコ屋や競馬場などでは、

 「つきが落ちる」といって、火の貨借りを忌み嫌うのも、このためなのである。

 

 さて公儀お膝許の御府内では、牢の方は、関屋隅田別所出の石出帯刀が、世襲で、その別所出の与力同心を使って収監に当たり、刑の方は、桜田別所、室町別所を明け渡して、山谷から川向うを囲い内にしていた弾左衛門が、彼の奴隷である、黒身分のから転落してきて非人となったのを使って、せっせと鈴ケ森や小塚原で首を斬っていた。そして、首斬り浅右衛門も山田姓だったが、弾家の四人の手代(用人職)もやはり「ヤ姓」で代々世襲であったし、弾左衛門も幕末の当主は矢野とヤ姓になる。尚、「弾左衛門」というのは個人名ではなく、司法警察の「弾正台」を司る官名の軟化したものだから、江戸だけでなく各地にも弾左衛門や弾正は居たのである。

 

 さて、なにしろ捕縛する権利と処罰する方か、彼らが握っていたのだから、警察は殆んどデッチアゲに終始していたらしく、捕えても、源氏の白旗の同族だと判ると、すぐさま、「……白だ」と直ちに放免してしまい、その身代りに、白でない部族、つまり墨染めの衣をまとう宗派の者を探してきて、「こいつは、黒だ」と、あっさり罪名を被せ、否応なしに、首を刎ねたので、それに抗議することを「黒白を争う」などといった。

 吉次のおかけで、この七百年間に、無実の罪で処刑された者は夥しい数であろう。そして現代では明治以降国家体制が反対になったので、黒の検察官が、白を苛めることもあるのだが、口癖になってしまったか「白か黒か」は同じように用いている。

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源平時代 奴隷商人金売り吉次 矢切止夫著 五月五日は石くらべ

2024年07月25日 18時13分57秒 | 歴史さんぽ

源平時代 奴隷商人金売り吉次 矢切止夫著

 

五月五日は石くらべ

 

京は五条の橋の上で、ピイピイ笛を次いでいた牛若丸を、遠く陸奥の国へ伴っていったのは、「金売り吉次」ということになっている。

 いまの感覚でゆくと、<金売り>ときけば「売るほど金をもっている男」つまり、金融資本の大財閥のように、勘違いしたくなる。

 だが、これは吉次の名の現われる出典が、当時の関西出版。京の六道の辻にたむろしていた当時の文筆業者によって、京を中心に視点を当てたから<金売り>であって、陸奥の国からみれば、吉次は金仕入れ業、金の奴売りである。

 なぜかというと吉次は、人問の多い京からそれをもってゆき、東北からは引換えに金を需要ありそうな京へもってきていたからである。

 それに、ことさら金の文字を使ったのも、現代の人には可笑しいだろうが、これは当時まだ装飾用などに僅かしか使われなかった金という鉱物のPRだったのである。

<六道>は京へ入る六つの街道のことで、六地蔵の党とも呼ばわれ、税関のかたわら諸国の珍しい話も耳に入ってきたから、『義経記』をはじめ、今日伝わっている謡曲の原本は、みな、これらの徒によって執筆された。

 だが、書いていたばかりではなく、一条関白兼良の『尺素(せきそ)往来』などには、

 「六地藏之党、例のごとく印地を企て、喧嘩を招き侯は、洛中鼓騒に及ぶべしと、侍所より、警固のため人数を派出す」と出ているように、印地打ちつまり投石をして、当時の機動隊を出勤させるぐらいデモってもいた。つまり、『義経記」などといった物は、関を守っている彼らがゲバ活動をしてない時には、退屈しのぎに、「これこれ何んぞ珍しい話はないかや」と旅人から地方の話を聞き出し、それを現代でいえばニュース源にして、筆でかきとめ、「何んぞ面白い話があったら教えて下され、これから諸国へ参りますのに、話の種を何んぞ仕入れて行かんことには、人集めするのに困りまする」

 と、この時代の歩き巫女、鉦たたきといった唱門師の者が、銭を貰いに旅興行にゆく時には、この関所へよって、若干の銭を払って話を聞いていったり、書きとめたものを買っていたのが、その原形であるらしい。

 もちろん『義経記』などは、のちに謡曲となってゆくが、そうした説話によって銭貰いしていた者たちは、「でろれん祭文」「ちょぼくれ」[辻講釈の売講子(師)」[軽口」といった形態で千年後には、浪花節、講談、落語といったタレントに昇華したし、ニュース専門にかき集めて報道していた方は、これまた今では、

 「時事解説者」といった風にも変ってきている。

 

 しかし、これは十世紀前の源平時代の話。

 とても竿一本の原稿料では介してゆけないから、関所番をしていた。つまり洛北白河に、院地があって、そこの者が六道衆で、筆もとったが、当時の飛び道具の投石である礫うちもした。

 「印地を企てる」とか「院地うち」というのは投石のことだが、「印形を結ぶ」とか「院形をつける」とは後年の、忍術の形式にもなる。

 だからこれは余談だが、今でも三何の岡崎城へ行くと、三層の壁に、幼い家康が背負われ安倍川原で、石合戦を観戦してる街場面が掲げてあり、

 「いつの頃より始まりしや、謂われは知らざれど、年中行事の石合戦を御覧あって、人数すくなき方を指さし(彼方こそ勝ため)と仰せあり、やがて、その通りになる。神君いまだ幼少なりと雖も、その深慮にみな感嘆す」

 と、とぼけた説明が貼ってあるが、家康こそ、この部族のエリートだし、風采で院地者は一目黙然だから、プロの方が、人数に関係なく、勝味のある事は誰でも判る筈である。

 さて、この院地打ちの発端は、義経にあるとされている。それは、『義経記』にも、土佐房が堀川を襲撃の時、

「白河のいんじ五十人を案内となし……」

 と出ているが、その後、彼の死が伝わると、判官贔屓の者が、口惜しがって肛をたて、

「おのれ、憎っくきはいんじの者共……」

という事になって白河口へ押しよせ、石を投げこんだから、それに応戦するため院地の者達も投げつけあって石合戦が始まったと謂うのである。

 そもそも、院地というのは

「やまとの国は、女ならでは夜もあけぬ国」

といわれるように、

「邪馬台国の卑弥呼女王陛下」

のごとく、或いは天照大神のごとく、女神を崇び、女帝を立てていた原住民族を、大陸からの男作女卑の人種が、次第に侵略してきた事がら始まる。

 八世紀の頃になると、紀ノコサミ将軍の五万の兵を、秋田のアクマロ夫人の指揮する和製ベトコンの女兵が、ゲリラ戦によって捕捉全滅させるごとく双方とも激化した。そしてその当時はまだ首を獲る風習がなかったから、人体に露出した部分を切断してこれに換えた・

 そこで箱根の山をこえ進撃してくる女軍に、戦慄した進駐政権の男どもは、山背の国の嶮、長岡京へ都を移し、海外に救援をもとめた。

 当時まだアメリカはなかった。そこで延暦十年(791 一月十八日。朝鮮の百済王俊哲が国連軍司令官として、唐やシャムロ(現在のベトナムから秦国)の聯合軍をひきい進駐したが、イソドネシアの女共産党員がしたみたいに、体の部分切断されるのを恐れ、彼らは、巡察に当っては露出を警戒し布で防護した。

 よって、この軍用布は「禅」と呼ばれ、和製漢字の第一号である。

 そして、この進駐軍はシャムロ人が多かったらしく、今でも北海道のアイヌ族は、内地人は「シャムロ」と呼んでいる。なお、この時、彼らが食用に持ちこんできた軍用鳥が、後年、闘鶏用に飼われている軍鶏(シャモ)である。当時の彼らの根拠地が、今の川内なので、同地では現在でも「シヤモのかけあい」つまり闘鶏が盛んである。尚、紙幣の藤原鎌足や聖徳太子がもっているのが「シャク」で、これに文字をかきこんだので「杓文字」といわれ、戦地では飯盛りに使ったからこれが今の[シャモジ」の語源という話もある。

 またその大小から後年の[爵位」は発祥する。

 

 さて、進駐軍の武力によって原住民の巾の尖鋭分子を柿兇、国内二千有余の山間僻地の捕虜収容所へ送りこんだものの、また反乱されて、陽物を切り取られては難儀するから、占領政権は、和製ベトコン人民に対して、初めは食料衣服を提供した。これは、「延喜式」の中に詳細に記録が残っている。後は、年貢課役免除をもって、懐柔策をとった。

 だから、比較的生活の楽な彼らは、蛋白質の補給に、隔港川外壕に鯉などを飼った。

 だから五月五日になると、嫉んでいる外来系の者は、長柄、薙刀、竹槍をもって襲撃したが、女たちに礫(つぶて)打ちで撃退された。そこで対抗上、外来系に考案されたのが、笹の葉や苧殻(おがら)をまきつけ、ぶんぶん振回して放りこむ擲(てき)弾である。これを「千巻き石」とよぶのである。

 さて、院地を襲って勝ったとなると、戦利品として、壕の鯉を捕えて、竹竿につきたて、自分の家の前に立て「鯉のぼり」といった。そして「勝負の祝い」に酒もりをした。

 応安二年(1369)の『後愚昧記(ぐくまいき)』にも、

「雑人ら晩頭(ゆうがた)に及び、一条大路に出て、合戦をなす。これを伊宇地(いえじ)と称す」

 と足利時代になると、北白川口の今出川か一条あたりで市街戦までやったらしい。

 『源平盛衰記』の二二に、

 「京童(わらべ)の向い礫、河原印地のようなり」

 と出ている光景は、後白河法皇の勅になる「年中行事絵巻』の五月五日の条に、百余人の石合戦の有様が画かれているが、当日が雨だと、

 「凧の手の礫のように打ち散らす、雨こそ今目の、そら印地なれ 左衛門督藤原義景」

 といった具合に失望するファンも多かったようで、これは『古今夷曲集』の中にある。

「信長公も若い頃は、五月五日の院地打ちを毎年なされたり」

 と「雨窓閑話』にも記録されている程である。

 義経の死後、信長、家康の頃までは、五月五日は背くらべではなく、石投げくらべで江戸期に入っても、山谷や、浪花の釜ケ綺では、時たま石合戦があったようである。

 勝負の文字が「尚武」になり、粽(ちまき)が餅、鰹は吹き流しと変わっても、まだあいかわらず権力ヘ反抗する徒の子孫が、夏になると夕涼みに、今でも礫うちの印地をやるから、山谷あたりはマンモス交番などが、出来ているのである。

 なぜ五月五日と、昔から決まっているかというと、この日が、各国別にたてられている国府営の大祭の当日だからである。この五月五日という日は、京より国々へ派遣されていた国司が「天神地祇」の神々を勧請して朝から、「江美州静謐(えびすせいひつ)」を祈願したから、当日一目限り、エビスの末裔である院地に対し、外水系やそれに奴隷化させられた庶民が、石投げにゆくのを、四声が黙認したのである。

つまり院地で頑張っている連中は「ノータックス」で「ノー勤労奉仕」なのに、外来系や、それに隷属したものには、年貢とか課役があったので、その「うっぷんはらし」をさせたものらしい。云い換えれば祖先が陽物を切られ、性転換させられた復讐か黙許した事になる。

ところが昨今の世相では、手術代を払ってまで、男から女へと切断を希望する者も多いから、今日では尾張の一宮などでは国府宮の「喧嘩祭」として、その名残を、とどめているにすぎない。

 

 さて捕虜収容所を京では院地、東海は院内、他は、別所、山(散)所というが、捕虜として捉まって女将と一紙に男衆として山中へ追われた彼らは、仕事が見つからないから耕作地確保の為に穴を掘った。

 地中からまず鉄をみつけた。そこで赤松の炭で刀を鍛えた。

 美濃の関、鎌倉の雪の下、備的もみな別所である。刀の他に、鉄と革で鎧も生産された。

 甘味をとるため山蜂を追っているうちに、蜂の習性をまねたのか、その辺は解らないが、一妻多夫になった。なにしろ男は単数では連続使用がむりだから、複数のハンサムだけが側近になり、残りは働き好の<奴>になった。そして、今日でもこの後裔は「男衆」などと男をよんで総長するような習性がある。

 さて、そこで当時の里人は、彼ら別所者を「はち、や」とよんで、八弥、好景、鉢景の字を当てた。

 彼らが、山から上げる合図の煙を「煙火」といい、彼らの決起を「蜂起」とよんで怖れた。

 そのうち、山中や河床で彼らは黄色い光る物を見つけた。金である。といってもまだ装飾品など流行する以前なので、金をカネにするのに苦労した。そこで既に里へ進出している同族の者が、その金の売れ口を見つけてやるため、六道衆なども、著作の中で、今でいうCMしたものらしい。

 なにしろ、義経が吉次に伴われて平泉へ行った時より、たった二十一年前の仁平三年(一一五三)の『台記』の七月十門日の条に、

 「陸奥国、五ケ荘の年貢につき、久安七年、廐(うまや)の舎人、長勝延貞を使となし、奥州へ下向せしめ先年、奥州高倉座の年貢を増やすべき由、禅閤(ぜんこう 関白藤原忠通)より基衡(もとひら)に、金五十両よりも、布千役馬三匹に換えるようと仰せられるも、基衡(もとひら)肯(がえん)ぜず」という記載さえある。

 つまり関白が「藤原氏の名のりも与えていることだし、高倉庄の分も入れて、土産の金より、布地干反と馬三匹といったように値打ちがあって、もっと役に立つ物を上納しろ」と使を出したのに対して、秀術の父の基衡は「黄金なら掘れば出てくるが布や馬は、そうはゆかん、此方が欲しいぐらいだ」と拒絶しているのである。

 さて附記するなら、この時代の一領というのは、まだ後世の秀古時代から始まった一両の単価ではなく、別所族の製革術と冶金術によって出来上る軍用鎧一領分の等価のことである。

 

悲しき金と尊い銀

 

 なにしろ余歯も金指輪も、まして金時計もなかった時代だった。売行きのよくない「憐れな金」を背負った藤原鉱業会社商品開発課の吉次は、

 「へえ、金は、どうだっしゃろ]

と汗を拭きつつ、刀の鎧鼠、目ぬき屋といった、京のアクセサリー店を、セールスしていたのだ。

 変な話だが柔くて伸ばせばいくらでも伸びる金は、まだ文化の開けぬ時代には、あまり価値がなかったのである。

 なにしろ、この後の三百年もたった『応仁記』でさえ、

 「近頃は、きがねも、次第に価が貴くなりで」と、ようやく現われ、金が銀の十倍に昇格したのは、その十六世紀に入った、明応七年の「公文所勘定書」や、文亀二年の「春日神社文書大和中条目」くらいからである。

 それでも、七十年たった天正十年(一五八二)のクーデターの時でさえ、信長の死後、安土城へ入った明智光秀は、金には目をくれず、銀だけ持ちだして、禁中へ五百枚、五山や大徳寺に百枚宛寄進している。

 後年のごとく金と銀で十倍も違うものなら、金か運んだ方が良いと想うのは、現代的な感覚で、まだ実用本位の時代では、装節用にしか用途のないような、人に喜ばれない物を、何も持ち出すことはないからである。

 だから十五日に、知らずに織田三介信雄が安土城へ火をかけ、あわれに残っていた金を、これことごとく燃やして熔かしてしまった。つまりまだ当時は、「しろがねも、くがねも、たまも何せむに」の、「くがね」は金ではなく、やはり硬度が高く細工物や鎧などにもなった利用度の多い黄銅のほうだったのである。

 だが、これは日本だけでなく、神聖ローマ帝国以来、ヨーロッパでも、金を有難がったのは、有色人種の肌に冴える点からアフリカやエジプトの低開発国の一部だけであって、ジャンバルジャンが忍びこんだ司祭の官だって、銀の食器や燭台しか無かったのである。

 のちに硝石が発見され、金は鉄なみに吸いつくのに、銀だけは作用しない、といった点からも、植民地政策上黄金が俄かに必要になって、急ごしらえの錬金術に、うつつを技かす以前のヨーロッパでは、今と追違って銀は、金よりも尊ばれていたから、雄弁官キケロスが、

「諸君も、吾輩のように活発に喋り給え」

 と啓蒙運動するため、せっかく、

「沈黙は金。なれど、雄弁は銀」

 と名句をぶってくれたのに、モの後まったく、金銀の価値が反対に倒錯したものだから、

「そうか………黙っている方が値うちがあるか」

 と雄弁家の主張なのに遂に解釈され、そのまま日本へも輸入されていろ。

 モのため日本人は筒口を美徳と心得ているから、今日、海外のサービス業者から、日本人観光客は、見目で取扱いやすいなどと文句をいわぬ点を激賞されてるそうだ。

 こうした価値倒錯の例といえば、文政三年の『諸国見聞録』にも、越後の国の話として、

 「泉水湧出多く、諸氏の難渋、憐れなり」

 と出てしる。今ならニ一リットル何十円の石油も、当時は迷惑な汚濁水だったらしい。

 

さて、出向社員の吉次が、あまり有能ではなかったから、平泉の藤原鉱業は、さきに平氏と業務協定を結びかけて駄目。寿永二年(一一八三)に延暦寺へ入った木曾義仲にもやはり企業合併を働きかけたが、これも失敗してしまった。

 その点、伊豆開発鉱業の方は、伊東の北条の令嬢政子の督励によって、売れない金を売りまくり、伊立の山々から掘り出した黄金によって、ついに頼朝の「文治革命」を、成功させてしまったのであるから、これは当時としては偉業である。

 だから、金を有難く考えた別所出身の武将は、その後、十九世紀に到るまで、馬印に、みな金色の御幣や瓢を、つけて戦い歩いた。

 これは「史籍雑纂」第三巻の(元文二年八月五日づけ山本伊左より爪印弥次兵衛宛)の手簡末尾に、はっきりと、

「馬印金の幣と申すことに御座候はば、別所同意と存じ奉り候」と明記されたのが残っている。

 

身売りは男性専科

 

吉次の頃は物々交換の時代だが、輸送力に欠けていた。いまのように馬が余って、めんこい仔馬がハムにされる世の中ではなく、南部駒、三春駒の産地でさえ「馬三頭も税金にとられては困る」と、平泉の基衡が拒むほど斟かったし、船は、もっと不足していた。

 だから、アラビアの隊商は駱駝の行列で、月の沙漠をキャラバンしても、運送用の馬のすくないこの国では、ずっと、連雀板を一人ずつ背につけ、それで輸送をしていた。だから百人の隊商を組んで、一人四十キロ背負わせても、四トン車一台分の輸送しかできない有様だった。

 そこでもっとも便利な面目皿というのは、オートマチックに自分で動いてくれる商品である。

 吉次らのような行商人は、羊飼いみたいに鞭をふるって、ひとりで歩く商品の集団を、テクテク歩ませ、輸送して行ったのである。つまり、この当時の、極めの商品は奴隷で、アフリカの黄金沿岸から輸出していたのが黒人であるのと同じことである。ということは他に目ぼしい産物がなかったということにもなる。

 

 さて「奴」というと『大日古本書文書』第一巻に天平勝宝二年(七五〇)五月十七日附けの、大宅郷より東大寺へ寄進された『正倉院文事』が伝わっているから、その、「奴三十八人、婢二十三人」の記録で、男女混合に誤解されがちだが、吉次らのような、別所廻りの奴隷商人は、けっして女を商品として扱わなかったようである。

 といって、吉次がフェミニストだったわけではなく、需要がなく売れなかったからである。

(美しい女を裸にして)奴隷市場へ並べるのは、残念ながら、男が威張っていた、遠いアラビアンナイトのハレムの物語である。ところが、そうした男尊女卑のお国柄と追って、女性優位のこの女将王国の日本列島の彼らの住んでいた地方では、いくら前面に男を出していても、別所系統は女天下だから、愛玩用の可愛いのや、働き蜂にする強そうな、男の子しか購入しなかった。つまり「女が女は買わない」という鉄則の為である。

 だから幕末まで、こうした人身売買業やブローカーのことを、「源氏」とか「源氏屋」とはいったが、女を扱う者は別扱いして、上に、わざわざ「ぜ」の字を冠を「ぜげんじ」とか略して「ぜげん」といったもので「ぜ」は贋の訛りである。

 まだ貨幣経済でなく物々勘定の時代だから吉次は、藤原鉱業の本社へ、売上金の決済用に、かねて集めて置いた男蛮を、毎年春になると、引率して行ったが、承安四年(一一七四)の奴隷少年隊の中に、一人の異分子か混っていた。その少年は十六歳だったが、成人したのち(反りっ歯の小男)だったそうだから、現今の小学生より貧弱な体格だったろう。

 それに鞍馬寺か、とんずらしてきた家出少年だから、多分、吉次に初めて拾われた時は、銭もなく、腹をへらした、薄汚ない身なりの、野良犬みたいな恰好だったと想える。

 まさか十年後に、この少年が「一の谷」やに「屋島」で、一躍スターになるとは、千里眼でなくては、見通せなかったろう。だから、もし、少年に同行した大人が、そのとき居たとしたら、それは、もとをかけずに仕入れようと、吉次が、しきりと、

 「まあ、行ってみなはれ。良ろしゅうおっせ」

 と、陸奥の国の観光ガイドをしてるのを、脇で聴いていたやはりあてなしの浮浪者だったと思われる。まともな大人が、すすんで自分から奴隷に加わってゆくとは、考えられないからである。それに吉次が、商売不熱心だった一例は、鏡の宿で夜盗に契われたとき、牛若を初め奴隷たちを放りだして、まず自分だけ逃げている。

 どうも、あまり、みた錢を払わずに誘拐してきた商品ばかりのようにも、逃げ様からは想顛できる。いくらか銭が掛かっていれば、先ず打刀をぬいて守るのが商売であり人情である。

 それにスキーのなかった当時、十六歳の少年が東北へ行きたがる心理的要素は、何もない。家出して温かい土地へ行くなら判るが、寒い所へ、白分から行きたがる筈などありえない。

 つまり吉次という男は、あまり金が売れないから、代金決済に困り、甘言をもって牛若や多くの少年、そして大人までかどわかしていた常習誘拐犯人であると考えられる。

 この例をもってしても判るが、奴隷商人としてそれを陸奥の国へもって行かねば黄金と引換えられない大切な商売のもとを……東北で欲しがっている布地とか他の交換材料が入手できず、それでとはいえ、放りだして逃げるという手はないだろう。

 また義経少年にしても、「蛇は寸にして人を呑む」というのは講談であって、自分から進んで、つまり自己意志をもって見ず知らずの陸奥の国へ行きたがる要素というのは、何もない。結果論からして、まるで藤原泰衡という男に頼って行くように、話は今となっては創作されているが、未来とか将来というものは、そんな前もって、見通しのきくものではない。まして混沌たる時代においては、常識では計りしれない。

 もし、このとき、いまわしい吉次に逢っていなかったら、少年の運命は、もうすこし別個のものになっていた筈である。あんな悲惨な終末を迎えなくとも、少年は、もっと勇ましく華やかに、自由に生きられたかも知れない。

 というのは、鞍馬の山から、牛若丸が出てきたといっても、その時代の平家には、山国荘の花背別所から鞍馬道をぬけて京へ入るのには、御曾呂口(えぞろぐち)。東海東山道へは、後年、大石内蔵助が潜伏した山科別所口。宇治から奈良への伏見口は、当時狼谷。淀へは鳥羽口。山陽道へは桂口。丹波路の胡麻別所へは、常盤口と関所がある。

 これは、延宝二年に刊行された『山城国四季物語』に詳しく述べられているが、だから、無理して、遠い東北へ行かなくとも、十六歳の少年の一人ぐらい、楽に身を隠して潜伏できる、治外法権みたいな、ハチの部落、つまり特殊地帯の別所が、その京への入り口には、白河の他にも沢山あったのである。

 そして、その六道の辻を固めたいたのが、これが名高い六地蔵の党である。

 「我々さえ、もう少し見張りを厳重にしておれば、みすみす、平泉へなど誘拐させなかったものを」と後年になって彼らは、自責の念にかられたのか、挽歌として『義経記』を書き、謡曲『鞍馬天狗』を著作した。

 そして、鎌倉から単騎できた土佐房昌俊から、彼ら別所者の部族の頭である頼朝の命令といわれて、院地者五十騎を、道案内に出したばかりに、後には、義経の敵のごとく扱われ、五月五日になると投石されるのに、やはり腹をたて、「義経が殺されて、しゃくにさわっているのは、此方も、同様だ」と、負けずに礫うちつけ、双方の石合戦を、ずっと続けたものだから、現代に到るまで、この五月五日は和菓子屋さんの「ちまき販売デー」になってしまったのである。

 つまり吉次さえ現われなければ、少年は、六道の辻のどこかの番所で、しかるべき、手近な別所へ送りこまれていた筈である。そして、もし、そうだったら事態は一変していた。

 黄瀬川へ馳けつけて、初めて兄の頼朝と対面した時でも、近くの別所からなら、すくなくも数百の軍勢は、連れてゆけた筈である。

 そうすれば頼朝も、姿に対して肩身が広く、義経自身も、梶原らの家人に対しては、もうすこし恰好が良かったろう。

 ところが奥州からなので、僅かに五六人しか連れて行かなかったため、馬鹿にされた。そして、最初からなめられてしまったから、その後、義経が、いくら手柄をたてても、実力以下に見られてしまうのである。

 「ものは最初が肝心だ」というが、その振り出しを吉次のために、誤らされたのである。

 義経はその後、頼朝の妻にも睨まれ、仲違いになってからも、腰越あたりで謹慎しなくとも済んだのである。なにしろ関東の別所は頼朝に組織化されていたが、関西は佐々木四郎高綱が近江の日野別所や箕作別所の者を率い「蜂起し」の白旗をたて(高机真一著『旗指物』にその図版あり)蜂起していた以外は、まだ末組織状態だったから、義経にオルグ的要素があれば、幾つもの身のふり方はあり、近くの別所に足場さえ持っていたら、いくらでも逃げこむアジトはあり、味方する者も沢山いたわけで、なにも行先が無いといって、遠い奥州まで、行かずともすんだ。つまり揚合によっては西国の別所を統合して、鎌倉幕府に対抗する新政権を樹立する、という生き方も、あったであろう。

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我が町を知る 浅草寺の事実 燕石雑志

2024年07月24日 19時21分22秒 | 文学さんぽ

我が町を知る 浅草寺の事実 燕石雑志

 

飯田町の東南の処より、小川町のかたへ架かる橋を、俎板(まな)橋といふよし、「江戸砂子」に記せし誤りをうけて、こゝにあるものさへしかえて唱ふる事になりつ。

まことの板橋といふは、九段坂の下なる十字街頭(よつつじ)を町の方へ行く大淀のわたせし石橋をいうなり。

【割注】

本所松井町にも同名の橋あり。今俎板橋と唱えるは、本名「新橋(あたらしばし)」にて、昔よりこれを俎板橋と唱えることは絶えてなし。「真菰が淵」といふは、彼の「新橋」の南の岸をこのように云えど、今はこのわたりの人すら唱へ忘れて、その名を知るもの稀なり。また町の南北の盡処堀留(はてほりとめ)といふ處より、小川町のかたへかけられたる石橋を、「蛼橋(こおろぎばし)といふめれど、その名をしらざる者はなかり。今「もちの木坂」と唱ふるは、舊名「萬年坂」なるよし古老いへり。寛永中の抱地図を按ずるに、町家は今九段坂と唱ふる処にありけり。こゝらの町屋を後に築地へ移されて、元飯田町、築地飯田町とわかれる。九段の坂上は寛永のころ「飯田口」と唱へたり。この飯田口のほとりなる町家なれば、やがて飯田町といふなり。

慶長の年間飯田何某ここを開発せしと、土俗の口碑に傳える。真実か否かしらず。まことによしある事なるべければ、分けてこゝにて活業(なりわい)する程の徒(ともがら)は、露ばかりも仇に思い奉るべからす。よろづに慎みて舞馬(ぶけ)の災などあらせじと、朝々夜々(あさあさよなよな)に念すべき事なるべし、かく僅に方四五町の処なのに、土俗の誤伝は多い。偶々古老をしらんと思ふものも、「奇書・珍籍」の得がた書に因みて、大かたは鹿漏(そろう)にして、やゝ十に二三を知るに足れり。当時の印行の地図なども、明暦前後のもの極めて得がたし。延宝四年の印本、「江戸總鹿子」に載りたる菓子所載せたる菓子処の部に、飯田町に虎屋、柳沼、壷屋あり。このうち柳屋と唱ふる菓子店は今はなし。生薬舗には柳家といふもあれど、その跡はあらず。

彼の壷屋の暖簾は、延宝の年間駒吉祥寺にて、副司を勤めたりける高甫和尚の筆するところなり。

平仮名にて横につぼやと書けり。件の高甫和尚は、飯田町中坂なる松屋権右衛門といふ染物屋の先祖。今の権左衛門より五代前なる権左衛門の叔父なりけり。この所緣によりて、同町にてしかも近隣なれば、壺屋の暖簾は松屋より頼み聞こえて、高甫和尚に書したるが、今にその形もって染めるよし、彼の松権の老店なる白養隠居言えり。また高甫和尚に書かしたるが、今にその形を以て染めるよし、彼の松権の老補なる白養院居は云えり、また高甫和尚の「八百屋お七」の主席の師匠なりという謬傳を受けて、このような説を為すにこそ。予の事を白養老人に問ひしに、さるよしは聞も及ばすと答えたりき。

 

 囚にいふ、服部子遷嘗て唐山(もろこし)の飯顆山を飯田町にあてたり。詩作の上にはしかるべし。雅文たりとも地名を私に改めん事は古實に適わず。童家心得るべし。

李白が誌に、飯顆山前逢杜甫云々の七絶あり。人のしる所なれば載せず。

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三崎の四角竹の子千年の土龍(もぐら)畠に勘彌大入り 浅草寺の事実 燕石雑志

2024年07月24日 15時38分32秒 | 文学さんぽ

三崎の四角竹の子千年の土龍(もぐら)畠に勘彌大入り

浅草寺の事実 燕石雑志

 

例の人の癖なるべし。彼の角(けた)なる竹の子は、はじめ土を出るときに、細き樋を打ち伏せて被せて、かくこしらえたりとなん。いぬる丙寅(ひのえとら)のとし、漂鳥郡小豆澤(あしざわ)なる農夫何某が畠に生たりという、八ツ岐(また)の孟宗(もうそう)竹も、この類にやと大-ぼし。かくて清涼寺o抑迦如来は、天明五年の夏、また享和元年の夏、すべて回向院にておがまれ給ひ、善光寺の阿彌陀如来は、享和三年の夏、浅草寺にて拝まれ給ひしが、いづれも何れもはじめのたびにはおとり給えり。この餘かぞへかてたゝ書にしるさんも、「年代記」といふものめきたればさてやみつ。俄かに思ひ出せし如くみな参りけるは、明和の年間(ころ)、葛西金町(かなまち)剛なる椿田(はんだ)の稲荷、谷中なる笠森の船荷なりとぞ。予が物おぼえて天明の年間には、比門谷なる執金剛神

〔割註〕世俗はこれを二王といふ。」なるべし。

これらはなお、物の数ならず。甲子の年浅草なる太郎稲荷へ、参らぬ人もなかりき。いとめづらかに思ひしは、寛政十年の五月、品川の海へ鯨の流れよりたるなり。「海鰌録」(かいしゅうろく)というものも、この時に出る、大方は鯨志に似たり。鯨の形画きたる団扇など人々競いて弄びした。因みにこゝに又云うべし、大よそ高山を浅間と唱えるよしは、浅間は朝隅の義にて、「あさくま」の「く」を省くなり。伊勢なる朝熊山(あさまやま)も「熊」は仮字にて「隈」なり、また筑前国「木綿間(ゆふま)」山あり。これも「夕隈(ゆうくま)」の義なるべし。

説文に土山日阜。曲阜曰阿といへり。曲も阿も和訓「久末(くま)なり、また、「爾雅」に、凡そ山遠望則翠なり。近ければ之則漸微(ちよやくびなり)。故に翠微(すいび)と云えり。

これ山色(さんしょく)をもって、遠近を分ける證とすべし。されば明日に隈の愛でたきを浅間と名づけたるなり。この山の各々高山故に「隈」という。

小山には隅あることなし。これは未だ「雨談(うだん)」見ざらん人の為に云うのみ。

また安永のころ、げ主などは髪の中を剃りひろげて、髭を鼠の尾のようにし、眉さえ剃り細めて、額いかめしくぬきあげたりしも、しばしが程にて、今は髪の中を多くも剃らず、額など抜くも稀なるぞ目出度き。今こそあれ、後々に至れば必ず奇なりとすべし。人の嗜欲も、十五歳より初老に至るまで、十年ごとに一変する。故に聖人三度その戒めを異にして給うまるべし。まして常の産なきときは常の心なし。と孟子もいえり。一挙して教えなきものは、その誤りを改めるによしなし。侠客客などのあるひは佇む或はそびらへ、花繍(いれぼくろ)といふことをするも、老體てその子のその孫に手を引かれるときの事を思はば、さるまさなごと老いたる方をばいたくおとしめ、血気にまかして過ちを重ねもあるべし。また老いたる方をばいたくおとしめ、血気にまかして過ちをかさぬるもあるべし。また老いたるものもしかなり、若き方の程の事は知る人稀なれば、生まれながらsかしげなるおももちちし、わかきかたのよしあし数えへたてゝ、かしがましう責めののしるもあり。片腹痛たき業なりかし。只善きも悪しきもわがうへに有けりと思ひとりて教えんに、誰かはうけばりかしこまざらん。今の老人は昔、檜葉荼、柳荼、親和染などいう花手なる衣を着て、被緞子の帯を幅五寸ばかりなるをしたるもあるべし。されば今の若人は昔の若者よりまめなり。まことに五十年の程は、一睡の夢の如し。限り有る浮世の旅なれど、今に生れあえるものは、乗物にかかれ馬に乗せられて、老いの坂に登る心地せる。いと有り難き采配ならずや。三千世界の国ゝ、住むとしたならば、愛でたからぬはあらざらめど、大よそ天の蔽う限りこの大汀戸にますかたはあらじと申すさんも、猶かしこかるべし。

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*愛と創作主体 和泉式部*「うかれめ」の内と外 歌人篠塚純子(しのづか・すみこ)氏著  

2024年07月22日 19時32分44秒 | 文学さんぽ

*愛と創作主体 和泉式部*「うかれめ」の内と外

 

歌人篠塚純子(しのづか・すみこ)氏著

 

  一

 

 和泉式部に「うかれめ」の代名詞が与えられてきたとするならば、それは何に由来するのだろうか。

 『家集』の詞書に、道長が和泉式部の扇に「うかれめの扇」と書きつけたことが記されている。しかし、その道長の言動には和泉への非難も侮蔑も含まれてはいないと解すべきであろうし、また、この詞書から直ちに和泉が「うかれめ」と当時の人々に呼ばれていたなどと判断することもできないだろう。『大鏡』や『栄花物語』においても、為尊・敦道両親王を「軽々に」、また、とりわけ、為尊親王を

「色めかしうおはしまして、知る知らぬわかぬ御心」

と評するものの、和泉はその恋の相手の一人として名があげられているだけである。『紫式部日記』に「和泉はけしからぬかたこそあれ」とあるが、これも和泉を「うかれめ」と評していると解してよいかどうかは俄には断定しがたい。むしろ、「あだなりと名にこそ立てれ(注1)」と歌に詠み、「もとも心ふかからぬ」と『日記』に記しているのは和泉自身の方であるかのようだ。

先の道長に対しても、和泉は否定も肯定もせず、

「越えもせむ越さずもあらん逢坂の関守ならぬ人な咎めそ」(二二六)と詠み返している。

 

 とはいえ、橘道貞・藤原保昌との結婚、為尊・敦道両親王との恋の他にも多くの男性と交渉があったことは事実らしいから、そのような女の心や生を軽々しく、浮気なものと見るのなら、和泉は「うかれめ」と呼ぶにふさわしい。

しかし、その和泉が残した歌は、決して、あだあだしくも軽々しくもない。自らの内なる世界を鋭くまた深々とのぞきこみ、その官能や情念の激しささえもひたむきで純粋な愛の世界へと昇華されている。

 「うかれめの扇」と書きつけた道長は、あるいは、この男性遍歴を続ける和泉の生と彼女の歌の世界との間に横たわる不思議な隔差に興味を抱いていたのかもしれない。和泉の帥官挽歌の一首

 「すてはてんと思ふさへこそ悲しけれ君に馴れにし我が身と思へば」 (九五三)

を引き合いに出して、道長が「尼になりなむといひしはいかが」と和泉をからかったことをも思い合せて、ふと、私は想像する。

 

 二

 

 つれづれと空ぞみらるる思ふ人天降りこむものならなくに (八一)

 

清水文雄氏によれば、「つれづれ」とは、「個体の孤独な身心の状態をさす語であるが、それは、他からの隔絶をつよく意識した当初の緊張状態ではなく、身心の持続的な弛緩ないし放心の状態をあらわしている (注2)」という。

和泉式部の右の一首はまさにそのような状態にある、または、体験した、女の身心から生み出された歌である。女がひとりぼんやりと眺めている「空」は空虚感を象徴して、隔絶の意識のあとに訪れる「つれづれ」をますます捉えどころのないものにする。

 

  黒髪の乱れもしらず打ちふせばまづかきやりし人ぞ恋しき    (八六)

   人はゆぎ霧はまがきに立ち止まりさも中空に眺めつるかな   (一八二)

   ともかくもいはばなべてになりぬべしねに泣きてこそ見せまほしけれ(一六三)

 

 右の三首の歌にも隔絶感が底深く尾を引いている。「黒髪の乱れもしらず」打ちふす今、女の前に「恋しき」人はいない。その隔絶感・空虚感が「まづかきやりし人々恋しき」と歌わせるのである。立ち去る男との間をあたかも故意に隔てるかのように霧はまがきにたゆたう。一夜の恋のあとに訪れた放心状態に身をまかせつつ、その自らをみつめて和泉は詠む。自らの心を伝えるすべであるべき「ことば」さえ放棄したと詠む「ともかくも」の一首においては、時間的、空間的隔絶感をも越えて、心理的ともいうべき隔絶感が濃く漂う。

 かつて、私は「和泉式部の恋歌には、恋そのものを詠んだものよりも、恋の余情に身をまかせ、たゆたい、そこに漂う孤独感や寂寥感に浸る自己の姿を詠んだものが多い」、また「そのような歌においてこそ、和泉はいきいきと万人の女の『生』を表現している」(注3)と述べたことがある。清水氏が説かれる「つれづれ」の意味するもの……それは、少なくとも和泉式部の歌においては、私のいう「恋の余情」に重なり合うものではないだろうか。『家集』においても『日記』においても「つれづれ」をもて余し、「つれづれ」がなぐさむことを願う和泉に出会う。和泉は「はかなきこと」すなわち歌を詠むことによってその「つれづれ」がわずかになぐさめられたという。だが、先にあげたような和泉の歌をみれば、和泉の創作意欲が高まり、他に比類なき和泉の秀歌が詠み出されるのは、そのような時でこそあったと思われる。

 すなわち、創作主体である和泉にとって、自らの文学の創作のためには、「つれづれ」であることが必要なのであり、「身心の持続的な弛緩ないし放心の状態」をひきおこすための「他からのつよい隔絶感」を得ることが必要なのである。その隔絶感をもたらすもの、それは、いうまでもなく、男との恋であり、心と肉体における愛の世界の体験である。その恋が激しく苦しいものであればあるほど、心と肉体の隔絶感は強まる。さまざまな障害を含む「しのびの恋」こそ、「つれづれ」の世界を導くに最もふさわしいものであった。

 

 三

 

和泉式部の生と文学において、為尊親王との出会いがもたらしたものは大きいと私は思わざるを得ない。藤岡忠美氏が論証(注4)されたごとく、為尊親王と和泉との熱烈な恋を記録する資料はないといってよく、また、親王が和泉のもとに通い得たと推定される期間は短く、せいぜい一年半ぐらいでしかなかったろう。だが、それだけでは、二人の間に恋がなかったとはいえないし、また、その恋は、親王にとっては「あさましかりつる御夜歩き」所の一つでしかなかったかもしれないが、すでに受領の夫橘道貞の妻であった和泉にはどのような恋として在ったのかは証かされないであろう。

 迫真と和泉の結婚生活を具体的に知る資料はほとんどないといってよい。それでも、『家集』には、詞書の「をとこ」を夫道真と解してよさそうな歌もいくつかあり、それによれば、御岳精進をする夫と贈答したり(一二四六・一二四七)、夫の狩衣を縫ったり(一二四九・一二五〇)する妻の姿が浮かぶ。また、「あやめの日」をうっかり忘れていたり(一二四七・一二四八)、任国和泉から歌枕に関わる文を寄こしたり(一二五八)する夫の横顔も垣間みられる。

これらの歌がいつ詠まれたものであるかはわからないが、私が興味を覚えるのは、これらの歌が先にあげた「つれづれと空ぞみらるる」以下の歌とは全くその世界を異にしているだけではなく、帥宮邸入りした後に詠まれたらしい和泉の道真に関わる歌ともその歌柄が少し違っているように思われることである。同じ道真に関わる歌でありながら、何かの要因で、作者の内なる世界が変ったことをその両者の歌の相異が物語っているように思う。その要因とは何か。まず、夫婦の離婚という現実をあげねばならないが、その他に、というより、それ以上に、冷泉院第三皇子という高貴な身分の男性との出会いによって「しのびの恋」の洗礼を受けたことが大きく関わっていると私は思う。

親王の疫病によるあっけない死はかえって和泉の内に「しのびの恋」の凄艶さを刻みつけたのではなかろうか。

和泉が道真と離婚したのは、為尊親王との恋の最中とも、また、帥官邸入りのころともいわれている。ともかくも、その頃、赤染衛門との間に例の「葛の葉」の歌の贈答があった。その贈答についても以前に書いた(注5)ことがあるので、それはここに繰り返さないが、『和泉式部集全釈続集篇(注6)』に述べられている「和泉には父親から譲り受けるべき財産が少なかったのではないか」との推論は、新しい視点を与えてくれるように思う。父親の雅致にとっても、和泉自身にとっても、道貞との離婚は財政上からも打撃を受けねばならないことだったのではないか。和泉には小式部以下いく人かの子が残されることを思えば、なおのことであろう。

赤染の歌

「うつろはでしばし信田の森をみよかへりもぞする葛のうやら風」(三六五)

は、そのような問題をも含めての忠告であったかもしれないのである。これに対して、和泉の返歌

「秋風はすごく吹くとも葛の葉のうらみ顔には見えじとぞおもふ」(三六六)

は、愛の問題ひと筋に絞られて、きっぱりと調子高い。為尊親王によって、あるいは続いて帥宮によって、「しのびの恋」の洗礼を受けてしまった和泉には、こう詠み返すことにより、自らの生の方向を選び取る以外に道はなかった。

 だが、ここで一言付け加えるならば、和泉が文字通りの「うかれめ」であったなら、このような歌は詠まなかったであろう。また、それ以後の和泉があの荒涼とした孤独感にさいなまれる世界をもつことも、死と隣り合うまでの迷いを歌に詠むこともなかったのではないだろうか。親を、子を、そして、別れた夫の上まで、和泉は、一生、心にかけ通したと思われる。人間であることのわりきれなさを和泉ほどきまじめに生きた女はいない。

 

 四

 

『家集』(続集)の最後に目次詠歌群と呼ばれる連作(一四七八~一五四九)がある。この連作は、詠歌の時期も場所も相手もすべて不明としか言いようがなく、謎に充ちているが、ある貴人との「しのびの恋」に関わるものであることだけは確かである。

『日記』とちがって、この貴人の恋人は、連作のはじまる九月の初旬に訪れて以来、連作の終るまでの約二ケ月間、姿をみせていない。二人のいる所はかなり遠く離れており、文のやりとりも困難な状況にあるらしい。しかも、夫らしい男もいるらしく、いつもは、恋人の文も「心やすくみる」ことはできない有様らしい。したがって、この連作の歌の多くは「しのびの恋」に身をおく和泉の独詠歌である。逢いがたい恋人を、また、その文をひたすら待つ、その「つれづれ」に次々と歌が詠まれてゆく過程が見られて興味深い。そのなかには、

「いとどしく朝寝の髪は乱るれどつげのをぐしはささま憂きかな」(一四八四)

や、

「ささがにやうはの空にはかきやらでおもふ心のうちを見せばや」(一四八九)

など、先にあげた和泉の代表歌の片鱗をうかがわせる歌があることからも、この歌群は、詞書も含めて和泉の詠歌の秘密を解く鍵の一つをかくしもっているように思われる。

 

 自作か他作かは別問題としても、『和泉式部日記』が師宮と和泉との「しのびの恋」を描いていることは明白である。それゆえ、この『日記』にも、和泉の愛と詠歌にかかわる多くの秘密がひそんでいることはいうまでもない。しかし、あたかもその秘密の前に立ちはだかるごとく、さまざまの、多くの問題がこの『日記』に存在していることも否定できない。この『日記』が帥宮との「しのびの恋」の期間のみ描いていること、宮と女の贈答歌しかないこと、執筆時期が師宮の死後であること、その宮の死後にはまた数多くの帥宮挽歌が詠まれていることなど……これらすべての問題を総合的に考慮しない限りは、この『日記』から和泉の詠歌の秘密を正しく探り出すことは不可能だと思われる。これについては、また、機会をゆずって考えてみたいと思う。

 

 五

 

和泉式部の歌の生み出される土壌と要因が「つれづれ」の環境であり、「しのびの恋」に収斂される愛の体験であることは確かであろう。しかし、まだ、一つ気になることがある。「しのびの恋」の「つれづれ」に詠出された、先の連作の歌にしても『日記』の歌にしても、先にあげた和泉の代表歌ともいうべき秀歌に比べるとき、その基調は似ているけれども、そこには何かまだ隔てるものがある。それが何なのか、また、何故、そのような差が生れるのかを、いま、明確に指摘する自信はないが、どうやら、それは歌のことばそのものに秘密かあるらしく思われる。和泉の秀歌には技巧が少なく、措辞も自然なものが多い。(汪7)

しかし、その背後に、私は和泉の歌のことばに対する執念と切りこみの鋭さを思わずにはいられない。あるがままに、自在に詠んでいるように見えながら、まことは、技巧を切り落とし、情緒の余剰をそぎ落とし、エッセンスとなることばのみをぎりぎり探し求めた果てに詠出されたものではなかったか。しかも、それは単なる技法上の手続として行われたのではなく、和泉の辿った「生」そのものから必然的に生み出された創作態度、方法ではなかったろうか。

 道長が、和泉の歌をどのように評価していたのかはわからない。しかし、和泉に対すると同じ種類の好奇心を道長が抱いたらしい紫式部は、あるいは、和泉の「ことば」への切りこみの鋭さを感知していたのかもしれないと思う。それが和泉の愛の体験からくること、それゆえ、一生、恋の彷徨を続けようとするかのごとき和泉を不気味な存在と感じていたのかもしれない。

『紫式部日記』の和泉式部評が、ふと、そのような想像を抱かせる。

 ともかくも、和泉が詠み残した数々の歌を読み探るとき、愛欲にとりつかれたかのごとく、男性遍歴の生を辿った女と、孤独で純粋な愛の世界を歌に残した女とは、和泉式部という一人の人間のうちに豊かに重なり合うのではないだろうか。

 

 注1 岩波文庫本『和泉式部歌集』一四五二番の歌。以下( )内の数字は同書の歌番号を示す。

 注2 清水文雄氏著『衣通姫の流』

 注3・5・7 拙書『和泉式部-いのちの歌』

 注4 藤岡恵美氏「和泉式部伝の修正」(「文学」S51・11)

 注6 佐伯梅友・村上冶・小松登美の三氏編著。

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