もし「あるがなさ」が感情を言語化できない事へのむず痒さからくる苛立ち
であるとするならば、
僕は嘘と本当の境界にある言葉、
あるいは嘘でも本当でも無い感情から来る言葉を
また一つ作らねばならないと思う。
あれかこれか?と二元的に考える事は
既に科学が完全でない事を認めた時に崩壊する。
人が何かをする時、何かを思う時、
その発生源となるものがどちらかから生まれるものではなく
それ以外のどこかから自然発生している事は
ある意味僕の中で明白だからだ。
そして言葉はデジタルであり
心がアナログである以上、
僕の感情をデジタル化するには
常に何かを補完し続けなければ
スキマは塞がらないということだ。
僕は義務的読書を嫌う
また、語彙の不足を読書で補おうとする考えは
あまり賛同できない要素がある
それは本になっているものが過去である事に由来し、
打っても響かないからだ。
僕の言ってる事がどこかおかしいと思う人は
会話と読書、どちらを優先するのか考えて下さい。
僕は会話を優先します。
だから僕はあるがなさを感じた時、
自分勝手な言葉を作る事にしています。
それが自己正当化である事を踏まえた上で。
よく言われるのが、
「好きは嫌い、嫌いは好き」
結局どちらも事象、あるいは対象に対して、吸引されている事はほぼ明確です。
ほぼ明確、などという言葉も使っていてかなりおかしいのですが。
僕は何が嘘で何が本当なのかいつもわからなくて困っています。
友情を例にとります。
僕は友情に対してかなり異質な義務感を持っています。
思春期の頃、武者小路実篤の「友情」という本を読んで泣いた時に気付きました。
僕は友情を信じていますが、友達を信頼していません。
どういう事なのかというと、友達を信じたくて信じたくてしょうがないのです。
そしてまた、友情を口にした途端にそれが破壊される事も知っています。
僕と本当に親しい友人は友情を口にしません。
友情を口にする奴は決まってそれ以外の何かに目を奪われています。
金目当ての友情とか、目当ての女性に近づく時に言う友情とか、エゴを説き伏せるための友情とか、
色々あるのですが、基本的に口にした途端にうさんくささが発揮されます。
しかし僕が友情というものに対して特殊な拘りを持ち、
コンプレックスを持ち、必死で友達を作ろうとするのは
僕が間違いなくその事に対して志向性を持っているからです。
嘘と本当を包含し、その上の階層に成り立つ言葉は「真摯」という言葉に近いかもしれません。
長くなりました。
やめましょう、くだらない。
ここまで書いていてじつに酷いのですが
僕は嘘と本当の上位階層にある言葉が思いつきません。
重すぎて出てこないのです。
またいつか、意識がそこへ向かった時に書くことにします。
矛盾よ さようなら、そしてこんにちは。