「ぐうたら ・フォト日記」

「ぐうたら」を生活信条とする、ぐうたらなフォト日記です。時々『写真の無い・フォト日記』にもなります。

思い出の旅(アメリカ2015)

2020年08月27日 | フォト日記
アメリカに行ったのは2007年が最初なのですが、その時は仕事関連の学会発表でした。
建築事務所のお客さんも一緒に回ったのですが、何故か気に入ってその後一人で3回行きました。(そのお客さんとは未だにお付き合いがあります!)
いずれも音楽と博物館を巡る学術的な旅になる予定でしたが、未知の世界に対する好奇心の方が上回り、青春を彷彿とさせる「はじけた旅?」となりました。
とりあえず、シカゴのラビニア音楽祭ロックバンド・シカゴを聞いた2015年の旅(facebookへの投稿)の記録です。

終戦記念日に思った事

2020年08月16日 | フォト日記
昨日は終戦記念日と言う事で、テレビやラジオで、戦争の話題が取り上げられていた。

当時、僕の家は横浜から小田原に疎開していたらしい。
父親は身体が小さく1910年(明治43年)生まれで、終戦間近30歳を過ぎて徴兵されたそうだ。
そのせいか戦争の話は殆どしなかった。

94歳で亡くなった後、49日の法要に来た人に聞いた話では、よく小田原から自転車で横浜の親戚に来ていたそうだ。
今のような軽快な自転車では無く、古く重い自転車だ。凄い体力だと思った。

僕が一度だけ父親から聞いた話は戦後になって、横浜から厚木だかどこか、丹沢方面の農家に食料を分けて貰いに(着物などの物と交換したらしい)行って、嫌な思いをした話なのだけど、それもその重い自転車で行ったのだろう。

コロナの時代となった今も、都会から田舎に行くと、毛嫌いされる話をニュースで聞くと、いつの時代も、同じ事が繰り返されている気がしてならない。

母親はよく、夏のこの時期になると、横浜の空襲で生まれたばかりの兄を背負い、逃げ回った話をして「もう戦争なんか絶対経験したくない!」と繰り返し言っていた。

昨日、終戦の式典挨拶で総理が「積極的平和主義」と言う言葉を使っていたけど、記憶に新しい電通と持続化給付金のニュースに親しんだ耳には、新たなキャッチコピーにしか聞こえなかった。(本来きちんとした意味があるらしい?)

思えば「骨太の方針?」、「聖域無き何たら?」耳触りの良さだけで印象付ける、広告業界の常套手段のような言葉が日常のニュースで飛び交っている。

キャッチコピーの連続で、さも世の中が順調に進んでいるように見えるけど、いつの間にか世の中は危険な方向に向かって行くのが歴史の常だ。
新型コロナと極暑の中、上手く誤魔化されないように気を付けようと思う。

僕が新聞記者かレポーターなら「消極的戦争主義?」とどう違うのか質問してみたい。(あるいは「偽善的平和主義?」)


特別な夏?

2020年08月09日 | フォト日記
広島・長崎の被曝から75年、僕は戦後5年経った夏に生まれた。だから今年70歳になる。

戦争は直接知らないけど、両親は戦争経験者だ。70年も生きていると、結構色々な災害や悲劇には出会って来た気がする。

記憶にあるのは伊勢湾台風(1959.9、校庭が土砂で埋まった)キューバ危機(1962.10、毎日のようにラジオのニュースでやっていた)、鶴見事故(1963.11、やじ馬で見に行ったけど、近くには行けなかった)、新潟地震(1964.6)、あさま山荘事件(1972.10)、それからはオイルショック、御巣鷹山の日航事故、地下鉄サリン、阪神・淡路大震災、東日本大震災、熊本地震・・・、台風・大雨は毎年のように被害をもたらしている。

幸いそのどれにも、僕は巻き込まれる事は無かったけど、今年の始めからの新型コロナ騒ぎからは逃れようがない。
その騒ぎの中「敵陣地攻撃能力の保有」などと言う議論が行われて居るニュースを聞いて、ひょっとすると戦争体験もするかも知れない気がして来た。
原爆記念日の前日に戦闘機に乗る防衛大臣の映像と、8月6日の広島で毎年同じような空虚な挨拶をする首相を見てそう思った。

長崎市長が今日の式典で「新型コロナウィルスも、地球温暖化も核兵器も、みんなが当事者と言う意識を持とう!」と若者に呼びかけをしていたけど、政治家たる人間が当事者意識も反省もないし、そのどれに対しても正面から向き合う事さえしていない気がする。

昨今のマスコミの取り上げ方やニュースを聞きながら、結局戦争を推し進めて来た人間の子孫や親類縁者が政治を動かしている限り、戦争はなくならないし、核兵器もなくならないのだと思う。
軍産複合体性と言う言葉を昔はよく聞いたけど、最近聞かないのは、その言葉が必要ないくらい複合化が進んでいるのだろうか?と思うし、もしかしたら地球は何億年かの間に、もう何回も原子爆弾や、新型ウィルスで滅亡を繰り返して来たのかも知れないと思ったりもする。

5年前の夏、戦後70年に僕はエノラ・ゲイを見ようとアメリカまでのこのこ出掛けて行ったけど、それを見た時の衝撃より日本軍の特攻機「桜花」を目にした時の衝撃の方が大きかった。

結局なんでも自分の目で確かめるのが一番と、広島にも何回か行っている。長崎には行こうと思いつつ行かないのは何故だろう?