Alley Karasukojima, Kure City, Hiroshima Pref.
さてさて、広島県呉市にやって来たワタクシは、「アレイからすこじま」という公園にやって来ました。
アレイとは英語の「alley」(小径)、からすこじまは呉浦にあった周囲30~40mの「烏小島」という小島のことで、
烏小島は大正時代に魚雷発射訓練場として埋め立てられたそうです。
世界でも珍しく、潜水艦を間近で見ることができる公園で、海上自衛隊の潜水艦と護衛艦がイカリを下ろしています。
日本ではここが唯一、潜水艦を目の前で見ることが出来る場所なんです。
戦前この地は呉海軍工廠本部と兵器製造所前の岸壁でした。
戦後は1956年(昭和31年)まで呉市に進駐したイギリス連邦占領軍が用いていました。
その後、呉市が公園として整備したのは1985年(昭和60年)のことになるそうです。
ワタクシ、潜水艦を実際に見るのは初めてで、その大きさと迫力に驚きました。
ただ、一方でこの岸壁から戦地へと向かい、二度と日本の土を踏むことが出来なかった多くの命があったのだと
ワタクシは思わずにはいられませんでした。
ワタクシは子どもの頃、8月15日に戦争に関するテレビ番組を見ていた時に、
祖母に「なあ、おばあちゃんは日本が戦争に負けた時に、どんなことを思ったん?」と訊いたんですよ。
祖母は「真っ先に思ったのはな、ああ、もう今日から防空壕に入らんでもええんや。
夜中に空襲警報で起こされることも無いんや。やっとゆっくり寝れるわっていうことやった」と答えました。
その答えはワタクシが予期した「戦争に負けて悔しかった」「これからどうなるんか不安や」というものとは大きく違い、
妙にワタクシの記憶に残っているんです。
潜水艦の整備をしている若い隊員の姿が見えました。
彼らが戦地に出向くことが、この潜水艦を実際の戦場で使うことが無いことを心から願います。
穏やかな穏やかな瀬戸の海。この瀬戸内海のように、穏やかな日々が世界に訪れる日を願います。
ウクライナに、ガザに、今年こそは平穏な日々が訪れてほしいです。
使用したカメラ:3,4枚目はFUJIFILM X-Pro2、他はFUJIFILM X-T30
私の世代は祖父母や両親が戦争を直接体験しており、家族や親族から戦争体験を聞かされることがありました。
それはテレビで見るドラマよりも、本で読む体験談よりも、ずっとずっと重く心に響くものでした。
今、若い世代に誰が戦争の悲劇を、恐ろしさを伝えていくのでしょうか。
去年の8月、テレビのニュースで道行く若者たちにレポーターが「8月15日は何の日か知ってますか?」と訊くと、
「知らないです」「高校野球の決勝戦ですか」なんて答えが返ってきたのには愕然としました。
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さてさて、広島県呉市にやって来たワタクシは、「アレイからすこじま」という公園にやって来ました。
アレイとは英語の「alley」(小径)、からすこじまは呉浦にあった周囲30~40mの「烏小島」という小島のことで、
烏小島は大正時代に魚雷発射訓練場として埋め立てられたそうです。
世界でも珍しく、潜水艦を間近で見ることができる公園で、海上自衛隊の潜水艦と護衛艦がイカリを下ろしています。
日本ではここが唯一、潜水艦を目の前で見ることが出来る場所なんです。
戦前この地は呉海軍工廠本部と兵器製造所前の岸壁でした。
戦後は1956年(昭和31年)まで呉市に進駐したイギリス連邦占領軍が用いていました。
その後、呉市が公園として整備したのは1985年(昭和60年)のことになるそうです。
ワタクシ、潜水艦を実際に見るのは初めてで、その大きさと迫力に驚きました。
ただ、一方でこの岸壁から戦地へと向かい、二度と日本の土を踏むことが出来なかった多くの命があったのだと
ワタクシは思わずにはいられませんでした。
ワタクシは子どもの頃、8月15日に戦争に関するテレビ番組を見ていた時に、
祖母に「なあ、おばあちゃんは日本が戦争に負けた時に、どんなことを思ったん?」と訊いたんですよ。
祖母は「真っ先に思ったのはな、ああ、もう今日から防空壕に入らんでもええんや。
夜中に空襲警報で起こされることも無いんや。やっとゆっくり寝れるわっていうことやった」と答えました。
その答えはワタクシが予期した「戦争に負けて悔しかった」「これからどうなるんか不安や」というものとは大きく違い、
妙にワタクシの記憶に残っているんです。
潜水艦の整備をしている若い隊員の姿が見えました。
彼らが戦地に出向くことが、この潜水艦を実際の戦場で使うことが無いことを心から願います。
穏やかな穏やかな瀬戸の海。この瀬戸内海のように、穏やかな日々が世界に訪れる日を願います。
ウクライナに、ガザに、今年こそは平穏な日々が訪れてほしいです。
使用したカメラ:3,4枚目はFUJIFILM X-Pro2、他はFUJIFILM X-T30
私の世代は祖父母や両親が戦争を直接体験しており、家族や親族から戦争体験を聞かされることがありました。
それはテレビで見るドラマよりも、本で読む体験談よりも、ずっとずっと重く心に響くものでした。
今、若い世代に誰が戦争の悲劇を、恐ろしさを伝えていくのでしょうか。
去年の8月、テレビのニュースで道行く若者たちにレポーターが「8月15日は何の日か知ってますか?」と訊くと、
「知らないです」「高校野球の決勝戦ですか」なんて答えが返ってきたのには愕然としました。
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こんなに大きいのですね。
おばあさまの感想、分かります。
私はまだ小さかったけれど 空襲の度に
庭の防空壕に入ったことを覚えています。
母は度胸が据わっていたというか
みんなを無事に避難させると 自分は片付けやガラス磨きなど
普段できないことをやっていたようで…
防空壕に入っていても家にいても
危険度は変わらないと 腹をくくっていたのでしょう。
実物はかなりの迫力なんでしょうね!!
あのドラマはあたしも観ました。
様々なドラマで戦時中のシーンを観ましたが、ほんと戦争のない時代に生まれて良かったと思います。
食料もないし、避難ばかり。
相当大変だったでしょうね。。
ポチ⭐︎
平和教育という時間がありました。
戦争のこと、原爆のことなどしっかり学んだ記憶があります。
東京に来て、8月6日にテレビ中継等なく
原爆の日の話題が
ほとんどスルーだった事に一番驚きました。
世界が平和に、、、切に願います。
☆
祖母は若くして未亡人になりました。
強い祖母でした。
おばあちゃんの着物を着て偲ぼうと思います^^☆
今日は読み逃げ応援でごめんなさい🙇♂
また来ますね😍
なんだかクジラっぽいっ
間近で見ることが出来る場所があるんですね
主人がいつか呉に見に行きたいって言ってたの
もしかするとここかなぁ…
まじかに見たら迫力でしょうね
コワイ(*_*;
☆彡
こんなの実際に見たら圧倒されますわね。
温かいお布団で寝られる幸せ、つくづくです。
他の船もすごいです。
応援ぽち。
とってもよくわかります。
武器なべて、処分して欲しいな。
でもでも、潜水艦、格好良いです(^^ゞ
☆
毎日カズノコがご飯だったらしく
もう二度と食べたくないって言ってましたよ。
エクソシストはもう別格。
続編も出ましたけど
1にかなうものはなかったです。
父は戦争には行ってませんが母は空襲を経験したと言ってました。
実際に今、戦争してる地域がある訳で悲しいですよね
そして私は広島の原爆ドームにはどうしてもいけそうにありません
☆!
そこが公園に成ってるとは、より知ってもらうのには良いのかな。
潜水艦を間近で見られる公園はここだけなんですね
見たことはありませんが、とても迫力のあるものなんでしょうね。
もう戦争を体験した人たちが少なくなってしまって、大昔の出来事…という感覚でしか今の若い人たちには思えないんだろうなー
凸
私も子供の頃に
祖父から戦争の話を聞きました。
時代が変わり終戦記念日を知らない世代が
増えるのは悲しいことですね。
面白いですね
1度聞いたら耳に残ります
鉄のくじら館にもいかれたのでしょうか
今日は寒いです
こんな日はお家で
こたつに入って
ぬくぬくしています
2度と使われることのない世界になってほしいです。敗戦と当時に引き揚げる途中、私はハルピンで死にかけたそうです。
亡き母がいつも語っていた言葉は「戦争に負けてよかった」です。
もし、私が死んだらここに残り中国人になると兄たちに言い渡したそうです。
私一人をこの中国の地に残していけない・・と。
現在、世界各地で戦争が起きています。
多くの人たちが母と同じ思いをしているのかと思うと胸がいたみます。~ー~
アレイコートと言う場所がテニスコートにはあるのですが合点しました。
スッキリ。
戦時中は田舎暮らしだったので
親から聞いた話は食料が乏しいくらいで
さほど厳しい話しは聞かされませんでした。
田舎と都会とではずいぶん様相が違うのかな?と思ったくらいです。
義母の住んでた愛媛の山奥では戦争の実感が無かったと聞いて驚いたくらいです。
製鉄会社が衰退し、今は海上自衛隊が基地になってます。
船で対岸に行くと江田島第1術科学校(旧海軍兵学校跡地)があり校内を自衛官が案内ツアーがありとても興味深いものがあります。時間があれば是非見学してみてください。江田島の港から広島港へのフェリーも運行しています。
とても懐かしく思いました。
潜水艦、すごい迫力ですね!
戦争時の話は母から
聞いたことがありますが
父は戦争体験を話すことは
一切ありませんでした。
思い出すのも嫌な体験だったのでしょう!
☆
呉は小説なんかで見たことがありますが
戦争を感じますね
庶民は戦争が終わったことでほっとしていたのでしょうね
食べ物が不足していた時代だったでしょう
よくあんなものが海の中走れますね
全く前が見えない状態で走れる
凄いなって感心します
日本は戦争してないのでいいけど今の時代
ボタン一つ押せば国一つなくなる威力の武器がある恐ろしいですね
💻コメントや応援👍ポチを有難う御座いました。感謝&✌で~す!
(^_-)-☆今日は正月に帰れなかった孫娘が来る為に後日ゆっくりお伺いしますネ。
*👴:今朝もMyBlogはアップしてますのでお越しをお待ちしてます。<welcome☞>*また見て頂いた感想コメントも楽しみにお待ちしてますネ。
🔶それではまたお伺いします👋・👋!
8月15日には、父は戦友を数人呼んで
毎年、飲んで軍歌などを歌っていたのを
おぼろげに覚えています
飲むと、戦争体験の話をしてくれました
若者たちが戦争に行く日が来ないことを
願っています
聞いた、最後の世代でしょうか。
私も幼い頃、防空壕や空襲警報の話を
聞きました。
あと、食べ物に困った話も。
子供の頃、あれ?何?と聞いたら、
防空壕の跡だと言ってたな~。
今はもう、ないんでしょうね。
凸
ここは当然行ったことありませんから、
このような絵を見せていただくと、
お話と共に見せていただくと、
いろんな事を想像したりします。
単純にこの公園では何も考えずに、
それは見て楽しみたいものです・・。🤩
その時のことを懐かしく思いながら、よっちんさんの記事を読んでいます。
応援☆
ぽち
僕が戦争に負けたときに思ったことは、
進駐軍に女性や子供が殺されるのでは
ないかと思いましたね。
現に和歌山市でも浜辺に近い人たちは、
上陸用舟艇が上陸してくるので
奥地へ逃げました。
僕の暮らしていたところへも、親戚の人が
子どもを連れてて逃げてきました。