への次郎が行く

カメラと地図を片手に気ままに出かけます。

古里から小包が届きました

2023年09月15日 | 雑記

奥さん  「小包がきたよ

への次郎 「おっ!! 妹からじゃ!

 

開けてみると、

手紙に、豆菓子に、銀色の袋が入っていました。

 

奥さん  「豆菓子は福山の徳永製菓だって

への次郎 「徳永製菓?! ブチうみゃぁ豆じゃ

 

への次郎 「ハリセンボンのような、これは…

奥さん  「キワーノって書いてあるよ

 

手紙によると、妹が今年初めて植えた果物だそうです。ネットで検索したら、一つ1000円前後とか。期待できます。

 

さっそく冷やして、3時のおやつにいただきました。

まず、縦に真っ二つに切ってみると、

ウリのような、アケビのような…。

 

奥さん  「スプーンですくって、ちょっと食べてみて

への次郎 「では。 ん??……

ほとんど味はありませんでした。

 

奥さん  「じゃ、豆は?

への次郎 「ん! うまいでがんす

                                     


白川茶屋で郷土料理のランチ

2023年09月13日 | ランチ

への次郎 「お腹、空かない?

奥さん  「ほら、きちんとランチをしていないじゃない。ツチノコ探していて

 

そういえば、道の駅・東白川で、つちのこ焼きを食べたっきりでした。で、

 

白川沿いで食堂を探していたら、ありました。

こちら白川茶屋さん。

 

入口にメニューが出ていて、

立ち止まって検討会。

 

への次郎 「扑葉寿司に、けいちゃん、かぁ…

奥さん  「岐阜の郷土料理だね

決まりました。

 

狭い店内には、小さいテーブル席が6つに、野菜と加工品の販売コーナー。

 

厨房は、おばさん二人で切り盛り。

なかなか出てこないので、ここで買ったつちのこ焼きを食べたり、

 

壁に貼られた色紙を見ていたり。

奥さん  「ほら、良純さんよ

への次郎 「若いなぁ、顔が細い!

 

そのうち先客ご夫婦と、あとから入って来た太公望さんとの会話が聞こえてきて、

ご夫婦 「鮎、釣れましたか?

太公望 「いや、今年は釣れなくて。釣れると、この時期は25㎝大ですよ

 

「なぜ釣れないのか、聞いてほしいなぁ」と思っていたら、出てきました。

 

への次郎のけいちゃん定食

けい(鶏)ちゃんは、下呂郡上を中心とする奥美濃地方の郷土料理。しょうゆや味噌をベースにしたタレに漬け込んだ鶏肉をキャベツなどといっしょに焼いて食べる料理です。

こちらの鶏肉、胸肉にモツも入っているなぁ、コリコリしている

 

奥さんは、扑葉寿司定食

扑葉寿司、3つもあるよ

扑の葉の包みを解くと、酢飯の上に甘酢ショウガ、酢味のサーモン、キャラブキとシソの実、シーチキンにアサリのしぐれ煮がのっていました。

 

東白川村では昭和のころまで、田植えのときに「結い(ゆい)」と呼ばれる共同作業がありました。その際、殺菌・防カビ作用があって前日から作り置きができ、食器不要で後片付けも簡単な朴葉寿司が振る舞われたそうです。

 

こちらに来たら、食べなきゃいけない郷土料理。ごちそうさまでした。

 

食後、店内をまたキョロキョロしていたら、窓際に、これ。

ん??

三遊亭円楽さんからの礼状でした。

どうもこちらさん、円楽さんの楽屋に差入れをしたようですね。

 

満腹、満腹。今度こそ、帰るよ

                                    


ツチノコ、いそうでした 東白川

2023年09月10日 | 遠出

台風が去ったこの日、中央道中津川インターで下におりて下呂方面に走って行きました。

 

下呂の手前で、進路を西にとると、岐阜県東白川村です。ここは白川沿いの谷間の村。人口約2000人、白川茶東農桧の村です。

 

 

道の駅・東白川  

白川沿いの国道を進むと、やがて道の駅・東白川が見えてきました。

奥さん  「えっ!? 『つちのこ村』だって!

への次郎 「そうそう、ここはね、ツチノコがいるらしいよ

 

店内で白川茶、トマトの加工品など地元の産物を見て歩いていたら、

白川茶を一杯、ごちそうになりました。

 

小腹が空いていたので、お店でかわいいつちのこ焼きも買って、

イートコーナーで、いただきま~す。

 

お店で、ツチノコについて情報を仕入れていたら、この先にツチノコを紹介した施設があると聞いて出発。

 

川沿いをしばらく走ると、先の方に…

奥さん  「ほら! あそこじゃない?

への次郎 「ほんとだね、『つちのこ館』って書いてある

 

 

つちのこ館  

駐車場に車を止めて建物に入ると、

1階が地元の物産品の販売所、2階がつちのこ資料館でした。

 

入館料一人300円を払って2階に上がると、

壁に資料が貼ってあり、丁寧に読みながら先に進みました。

 

記述からわかったことは、

ツチノコは全国で目撃されているが、目撃例は東白川村が最も多い。

体長30~80㎝位、黒かっ色・こげ茶色、ビール瓶大の太さ、三角の頭。

一匹で行動、大食い、いびきをかく、ジャンプをする、動きが早い…。

村では毎年、ツチノコ捜索のイベント(「つちのこフェスタ」)をしている。

映像コーナーの奥に扉があって、そこを開けると、

 

ワーッ!!

目撃証言をもとにつくられたツチノコが4体! ギョッとして見ていたら、

 

手前のツチノコが電動仕掛けでビュ~ンと飛び出してきて、

 

びっくりして見ていたら、今度は奥の1体がス~ッと出てきてネズミをガブッ!

奥さん  「すっごくリアルだね

への次郎 「ん!! ここ、間違いなくいるね、ツチノコ!

 

駐車場に出てきたら、こんなものが!

奥さん  「えっ!? 生捕り100万円、亡骸50万円、写真20万円だって!

への次郎 「ここの人たちは、本気だ!!

 

 

親田地区  

高額の懸賞金に目がくらみ? 目撃情報が最も多い親田地区に入って行きました。

 

やがて集落が見えてきて、車を止めると、ここにも手配書!

への次郎 「立派だね、江戸時代の高札板のようだ

奥さん  「間違いない! いるよ、ここに

 

二人で手分けして、草むらや土手をしばらく見て回りましたが、

のどかな農村風景が広がっているだけで、ツチノコの痕跡はありませんでした。

諦めて、

 

さぁ、帰ろうか

来た道を引き返しました。

白川には、ぽつんぽつんと太公望が出ていて、落ち鮎を狙っていました。

落ち鮎のほうが、確実だね

 

 

家に帰って東白川村の公式ホームページを開いたら、平成2年の3例を最後にツチノコの目撃が、ぱったり途絶えていました。

懸賞金も積み重なり、今では130万円を超えたそうですよ。

                                    


母の家計簿が出てきました

2023年09月07日 | 雑記

実家を壊したとき、こっちに持って来た物があったよなぁ

 

7月に見舞った叔母が亡くなり、関わりのあるものがあるかと思い物置を調べていたら、

叔母のものはありませんでしたが、こんなものが見つかりました。

 

中を開くと、親おそらく母がつけていたと思われる家計簿でした。

記録されていたのは、昭和31年11月から34年9月まで。ただし完全に記録されていたのは、昭和32年と33年の2年間のみ。

 

当時、わが家は6人家族。父母、祖母に子供3人。

 

田んぼや畑はありましたが、農業だけでは生活ができないため、父は小規模な養鶏を営みながら卵を出荷し、競馬場の印刷事務に不定期で勤めていました。

 

収入は、月平均で昭和32年(29,977円)、33年(32,740円)。             養鶏が主で、競馬場が従。この2つからの収入が約半分で、それ以外からも額は少ないながらもちょこちょこ。またガリ版の印刷技術を生かし、町役場や地域から請け負う仕事も増やしつつありました。

 

支出は、毎月出ていっていたものは肉・魚などの食料品、子供用品(菓子・玩具・衣料)、薬・通院・散髪など医療衛生費、鶏の飼料代、電気代、新聞代、ラジオ聴取料※にラジオのローン…。

※昭和43年に廃止されました。

 

次年度への繰越金は、昭和32年(3,300円)、33年(626円)。

 

以上から見えてくる生活は、現金収入と田んぼや畑からとれる米・野菜で何とか生活していく、自転車操業の生活でした。

でも、わが家が地域で特に貧しいという訳ではありませんでした。

 

昭和31年、政府は「もはや戦後ではない」と宣言しましたが、地方の農村部では、そういう言葉とはかけ離れた生活がまだ一般的だったのでしょう。

 

家計簿は、昭和31年11月に始まります。この年、妹が生まれて子供が3人に増え、家計が心配になり、つけ始めたのでしょう。

 

その家計簿、昭和33年12月まではきちんとつけられていましたが、34年になると収入と支出のみが記録され、差引残高は記入されなくなりました。

家計の収支のおおよその見通しがつくようになったためか、病気がちであった母の体調が悪化し、きちんと記録ができなくなったのか…。昭和34年9月10日を最後に、家計簿の記録は止まりました。

 

家計簿が止まった3年後、母は34歳で亡くなりました。

 

家計簿がつけられていた時期の記憶は、ほとんどありません。叔母が亡くなったのを機に、家計簿からその頃のことが少し想像できました。

                                     


山間の駅、備後落合の思い出

2023年09月04日 | 古い写真

ヤフーオークションで雑誌を一冊、競り落としました。競り落としたといっても、競合者はいませんでしたが(1000円。送料無料)。

 

手に入れた雑誌はこれ、『』(昭和30年4月号)。

昭和30年かぁ、生まれた年だなぁ

 

実はこの雑誌、興味深い一文が載っているんですね。めくってみると、

日焼けして薄茶っぽくなった紙面に、松本清張ひとり旅』の文字。

 

興味深い一文とは、これでした。

 

松本清張は戦後、朝日新聞西部支社に復職しますが生活が苦しく、(ほうき)売りのアルバイトを始め、北九州から中国地方、関西方面に売り歩きました。その時の一コマが『ひとり旅』に描かれています。

それによると、

 

その日清張は、昼過ぎに広島芸備線で出発、父の出身地鳥取へ行く途中、山の中にある備後落合駅で下車し、駅前の宿で一夜を過ごすことになります。

(『読売新聞』)

 

備後落合という所に泊まった。汽車はここまでだった。小さな宿屋で谷の底のような場所である。一部屋に案内されたのではなく、八畳ばかりの間の真中に掘りごたつがあり、七八人の客が四方から足を突っ込んで寝るのだ。夫婦者もいれば見知らぬ娘も交る雑魚寝であった。朝の一番で木次線で行くという五十才ばかりの夫婦が寝もやらずに話し合っている。出雲の言葉は東北弁を聞いているようだった。その話声に聞き入っては眠りまた話し声に目が覚めた。(『ひとり旅』)

「出雲で東北弁」。この備後落合での経験が、のちの名作『砂の器』につながります。

 

この備後落合駅、への次郎も思い出があります。

 

中学校2年生(昭和44年)の夏、学校行事の一環として道後山キャンプに行きました。最寄りの駅から福塩線に乗って北上、塩町駅芸備線に乗り換え、道後山駅に向かいました。                                   道後山駅の一つ手前が備後落合駅。ここは芸備線に木次(きすき)が交わる中国山地の要衝、しかも単線によるすれ違いのために列車はしばし停車します。ホームには降りられませんでしたが、山の中にしては大きな駅構内を車内から見回した記憶があります。

 

 

その2年後の高校1年生(昭和46年)の夏、中学校の同級生数人と、同じところにキャンプに行きました。この時は備後落合駅のホームに降り、列車が出発するまでのわずかな時間、構内を見て歩きました。その時の写真がこれです(撮影場所)。

写真左端の建物は駐泊所?、右は機関車車庫、中央はディーゼル機関車DE10。写っていませんがDE10の背後には、転車台もありました。当時、ホームには立ち食いそばの店もあったんですよ。

 

キャンプからの帰りの写真もありました(撮影場所)。芸備線のホームに入ろうとしている列車から撮ったものです。

前方はすれ違いのために芸備線のホームに入っている貨物列車です。写っていませんが、貨物列車の右奥に木次線のホームがあります。

 

この写真、よく調べたら松本清張が一夜をとったあの旅館が写っていました。どれかというと、右端の大きな屋根の建物です。ここで清張は、『砂の器』のヒントを得たんですね。

 

大学生の夏休み、実家から東京に戻る際、福塩線から芸備線・姫新線を乗り継いで、姫路から新幹線に乗りました。その時も備後落合駅のホームに降りましたが、それからもう、半世紀近くになります。

 

高校2年生の時にキャンプに行った友達の写真を見ながら思いました。

備後落合、どうなっているかなぁ。友達はどうしているのか…