への次郎が行く

カメラと地図を片手に気ままに出かけます。

木曽海道六拾九次之内 落合

2022年03月10日 | 宿場町

江戸から京都までの中山道を描いた「木曽海道六拾九次之内」は、歌川広重渓斎英泉による浮世絵です。

 

岐阜県中津川市にある寅さんのロケ地に行った日、ちょっと足を伸ばして、広重が描いた落合宿の付近を見てきました。

 

中山道を妻籠宿馬籠宿と通ってくると、やがて道は下り坂となって美濃の国に入ります。道は、険しい山道の木曽路から、平坦な美濃路へと変わっていきます。下り坂をおりてくると、落合川があり、そこにが架かっていました。この橋を渡ると、道は落合宿に入って行きます。

 

では、浮世絵木曽海道六拾九次之内 落合」を見てみましょう。

こちらが馬籠宿の方向。下の川が落合川。右奥が落合宿。季節は新緑の時期でしょうか。

落合川に架かった橋を渡っているのは、大名行列の一行でしょう。一行は落合宿を通って、いよいよ木曽路に入ろうとしています。背後に見える青い山は、方向はちょっと違いますが恵那山でしょう。

 

この浮世絵、このあたりから描いたものでしょうか。

手前の道は、馬籠宿からおりてきた中山道です。道なりにおりていくと、橋があります。橋の下を流れている川が落合川。落合川を渡った中山道(オレンジ線)は左に進み、やがて竹藪の向こうあたりにあった落合宿(青い〇)に入って行きます。

 

この後、落合宿に行ってみました。

向こうから歩いてきて、宿場の真ん中あたりに来ました。右奥にちらっと見えるのが恵那山です。この建物は、本陣。りっぱな正門です。加賀前田家から贈られたものだそうですよ。

江戸末期の記録によると、宿内の長さは約300メートル、家数75、本陣1、脇本陣1、旅籠14。小さい宿場でした。

 

本陣から先に進むと、お寺から形のいい老松が道の真ん中までかかっていました。ほら、

説明書きによるとこの松、「門冠の松」といわれ、もともとお寺の山門にかかっていたそうです。ということは、中山道は半分以上広げられたんですね。ところで中山道、この松の下で左に直角に曲がって、中津川宿に伸びていました。つまりここに枡形があったようです。

 

さて、この老松のところで後ろを振り向くと、

おっ! 恵那山だ。絵になるなぁ

 

中津川宿から中山道をやった来た旅人は、左からやって来て横断歩道のところで直角に向こうに曲がって落合宿に入って行きました。その際、まず目にした光景が、これでした。

                                        


広重美術館と中山道・大井宿②

2021年10月26日 | 宿場町

中山道大井宿は、広重美術館の近くにありました。

これは阿木川に架かっていてる橋、大井橋です。

橋を渡ったところからが大井宿です。

 

中山道・大井宿

今の恵那は、美濃の国恵那郡大井村にありました。それで大井宿。中山道69次のうち、江戸から数えて46番目の宿場町でした。

江戸末期の記録では、宿場の長さ870m、人口466人、家数110戸、本陣・脇本陣各1、旅籠41。かなり大きな宿場町でした。

宿場は5つの町に分かれ、各町を出入りするところに枡形(ますがた)が設けられたので、合計6つの枡形がありました。これが大井宿の特徴です。

 

では地図で確認。ピンクの線が散策ルートの旧中山道です。

確かに直角に曲がった枡形が、6つある

 

大井橋を渡って来ました。

右の建物は、「消費期限2時間」の栗粉餅を売っている大津屋です。

中山道は、大津屋の店先で左に直角に曲がります。これが最初の枡形大津屋の前をまっすぐ向こうに走っている道は、のちにつくられた道路です。

 

その先、第二・第三の枡形を経て、中山道をコの字型に歩いて来ると、

白壁の立派なお屋敷だ

表札を見ると、岐阜5区選出の前衆議院議員のお宅でした。

 

その先は第四の枡形、中山道は左へ曲がります。

右折する道は、のちにつくられた道で、大津屋の前を通り、大井橋につながっています。

 

第四の枡形の右にあったのは、

唯一、江戸時代から営業を続けている旅籠、旅館いち川です。

 

第四の枡形を左折すると、こんな感じ。

中山道は、真っすぐに伸びていました。大井宿のメインストリートでしょうか。

 

その先の左手に、明治天皇行在所(あんざいしょ)がありました。

旅籠の旧伊藤家です。ここは、ガイド付きで入館無料でした。

明治13年、天皇がお泊りになった部屋、使われた風呂・トイレなどを見学しました。

 

そのあと外へ。あったのがこの長屋門。真ん中部分が本物、江戸期のものです。

もとは、大井宿の本陣か、岩村城にあったのではないか、ということでした。

 

その先にあったのが、ひし屋資料館。もとは、大井宿の豪商古山家の住宅だそうです。

改修・復元し、現在は資料館として、大井宿の町屋を体験してもらう施設になっています。

 

ここが大井宿本陣跡。本陣は林家が務めました。

 

正門と老松は往時のもだそうですが、中の建物は昭和22年に焼失したそうです。

中山道は、本陣の前で左に曲がります。第五の枡形です。

 

ちょっと本陣の右裏へ。

本陣林家の井戸がありました。和宮泉(かずのみやせん)といいます。

江戸末期、京都から江戸に下向する和宮に、この井戸の水が供されたそうです。

 

中山道をその先に進むと、第六の枡形がありました。ここで、右折します。

 

すると道は、急に上り坂となって中津川の方向に伸びていました。

坂道の左側にあったのが、高札場です。往時のものの四分の三サイズだそうです。

大井宿は、このあたりまでのようですね。

 

現在の大井宿では、江戸時代の建物で残っているものは、多くはありませんでした。往時の姿をとどめているものは、6つの枡形ですが、その道幅は拡張されていました。

このあたりの中山道は、国道19号から恵那駅に向かう道路になっていて、車が猛スピードで走っていました。散策には要注意のところですね。

 

最後に、広重の描いた「木曽海道六拾九次之内 大井」です。

降りしきる雪の中、大井宿に向かう旅人でしょうか。人も馬も、伏し目がちに進んでいます。寒さが伝わってきますね。

広重らしい、いい描写の絵です。

 

 


広重美術館と中山道・大井宿①

2021年10月23日 | 宿場町

中央道恵那インターで下道に降り、岐阜県恵那市にやって来ました(2021/10/22)。

9月には坂折の棚田を見学に来ましたが、今日は、美術鑑賞と宿場町の散策です。

恵那市は岐阜県南東部にある人口5万人の小さな都市です。ところがここに、安藤広重のりっぱな美術館があるんですよ。何か、ゆかりでもあるんでしょうか?

 

中山道広重美術館

美術館は、恵那駅前通りにありました。

 

開催していたのは、開館20周年記念秋季特別企画展「浮世絵木曽街道三種揃踏」。展示は、江戸後期の歌川国定歌川国芳歌川広重が描いた木曽街道(中山道)の揃物3種。これを3回に分けて公開する、最初の展覧会です。

 

入口には、大きなポスター。

 

受付で、

   への次郎 「大人、おいくらですか?

   受付の人 「本日は、無料です

   への次郎 「えっ!

金曜日はフリーフライデーといって、入館料は無料だそうです。地元企業が支援してくれているとか、ありがたい。このコロナ禍で、りっぱな芸術文化支援活動(メセナ)です。

 

展示会場は1階です。ここからは、カメラ撮影はできません。

 

国定は似顔、国芳は武者、広重は名所を得意としました。

そこで板橋宿だったら板橋にちなんだ似顔絵、武者絵、名所絵を並べて展示していました。これが「三種揃踏」の意味です。ただ名所絵は、広重のものは少なく、渓斎英泉のものが多かったですね。

ガラス越しに10㎝の距離から、かぶりつきで浮世絵の細部まで鑑賞できました。

 

への次郎が気に入った作品は、これ。広重の「木曽海道六拾九次之内 高崎」。

男女の旅人に、ひっくり返した笠をさしだす物乞いの男。腰が低い。後ろから駆け寄る男は、物乞いの仲間なのか、お代をもらおうとしているのか、手つきがおもしろい。

 

つづいて、2階に上がってみました。すると、

すごい数の保育園児!

ここには、浮世絵がどのようにつくられるのか、説明コーナーがありました。

 

その奥は、「刷り」を体験するコーナー。

やってる、やつてる

 

保育園児が去ったあと、への次郎もやってみました。

刷り上がったのは、広重の「木曽海道六拾九次之内 洗馬」でした。

 

刷り体験コーナーの奥は、

右奥に、1階の展示の続きがありました。

 

今回の展示作品は、全98作品。

浮世絵を鑑賞したり、刷りを体験したり、1時間半の滞在でした。

 

小腹がすいてきたぞ

                                つづく

 

 


三州足助

2021年10月08日 | 宿場町

東海環状道豊田藤岡インターで下道に降りて、愛知県豊田市足助(あすけ)地区にやって来ました(2021/10/8)。

ここには、全国有数の紅葉スポット香嵐渓(こうらんけい)がありますが、江戸時代には、尾張・三河と信州を結ぶ伊那街道が走る宿場町として栄えました。

町並みは、江戸中期の大火によって、一度は失われました。しかし、その後に再建された町並みは、現在も残っており、国の重要伝統的建造物群保存地区の一つになっています。

 

まず、足助支所近くの駐車場に車を止め、徒歩で古い町並みをめざしました。

巴橋(ともえばし)の上から、香嵐渓の方向を見ると、

やはり

 

橋を渡ったところで、観光地図で古い町並みを確認。

                      (ようこそ足助へ! より)

常夜灯のところを左折し、すぐ右折すると、

ありました、古い町並み。西の玄関口西町。明治・大正期には宿屋が多くあったそうです。

 

その代表が、江戸末期の旅籠屋玉野屋

今も現役の旅館とか

 

その先の十字路に、道標がありました。なになに、読むと、

左ぜんこう寺、右ほうらい寺

 

では左の善光寺方面へ。中橋を渡り、すぐの十字路を右折すると、

ここにも古い町並み。本町です。江戸時代には、大商人の大きな商家が建っていました。

右の家、大きな三角屋根に、なまこ壁

 

少し進むと、マンリン書店の右横に細い路地。マンリン小路です。

小路の両側は、黒い板壁に、白壁です。ずっと奥まで、蔵が建ち並んでいました。

絵になる

 

その小路を入って行くと、高台に宗恩寺があって、そこから町並みをながめると、

石段の下に、左右に伸びた町並み。その向こうには足助川、対岸の高台には学校。

う~ん。三州足助は、山の中だ

 

古い町並みにもどり、さらに進むと、

おっ! 屋根の形がおもしろい

手前が三角屋根の妻入、向こうが平たい屋根の平入

 

平たい屋根の家は、もと製茶業田口屋です。中をのぞくと、

昭和30年頃の足助の町並み図屏風展」を今日からやっていました。

 

しばし絵を鑑賞。ついでにスタッフに質問。

民家の軒下に、ぶら下がっているこれ、何ですか?

ここの鉄砲隊が祭りの際、火縄銃の先にこれをつけ、飛んでくる火の粉を防いだものとか。それを魔除けとして、軒下につるしているそうです。

 

さらに進むと丁字路。

左折し、すぐ右折すると、また古い町並み。田町です。

右の店に、のぼり旗。

シシコロッケ、ししなべ。うん??

 

その先に行ってみて、ガッテン。肉屋の塀に張り付けてありました。

への次郎、思わず合掌。

 

その先の十字路を右折すると、真弓橋。橋の上から川上を見ました。

左岸に伸びた細い道、往時には信州にまで達していたそうですよ。

散策はここまで。

 

引き返し、来た方向とは逆方向から古い町並みを見て行きました。

すると、本町のはずれに来たところで、おじさんたちが何やら

祭りだ!  祭りだ!

 

田口家でもらったポストカードを見て、分かりました。

この土日開催の足助祭りの準備でした。

じゃ、鉄砲隊も、出るのかなぁ?

 

時計を見たら、もういい時刻になっていました。

ここでお食事処を探すことにしました。

 

 


江戸の面影を残す七宿場(その二) 妻籠②

2021年09月26日 | 宿場町

妻籠宿(上町・中町・下町)

このあたりから、上町でしょうか。

めずらしい、洋風建物

枡形の向かいにありました。これは明治時代に建てられた村の警察署。その後、役場などに使われ、現在は観光案内所になっています。

 

街並みを見ると、

っ! 車。入っちゃいかんでしょ。でも、絵になる

 

その先に、郵便局

黒ポストです。明治初期、郵便ポストは黒塗りだったようですよ。

 

さらに先には、本陣

本陣には、島崎藤村の親戚にあたる島崎氏が任命されていました。木曽では有力な一族なんでしょうね。

 

本陣の隣りは、

柏屋とその向かい、うだつがあがっている!

 

その先には脇本陣がありました。

明治13年、明治天皇がここで、ちょっとお休みになったようですよ。右に石碑があります。

 

中町はこのあたりからかな、と考えていたら、突然、前方に大きな猫が現れ、

思わず声をかけました。

  への次郎 「兄ちゃん、兄ちゃん、どこへ行くんだぁ」                     

  猫    「  」

急いでいたのか、何も反応することなく、足早に立ち去りました。

 

猫の後ろに看板を発見。「お食事」の文字。妻籠で看板とは、珍しい。行ってみると、

下の方に、旅館藤乙(ふじおと)がありました。食事もできるとのことで、入ることに。

 

旅館独特の大広間に通されて、迷わず、そばを注文。

二八そばです。木曽では、そば屋じゃなくても、そばは美味しいですね。

 

藤乙の先です。そろそろ下町でしようか。

寺下地区とは、雰囲気が異なるなぁ

 

上り坂にやって来ました。

右に水車小屋、後ろに大きな柿の木。左上に高札場です。

宿場町は、このあたりでおしまいかな

 

高札場の先には、

口留番所(くちどめばんしょ)がありました。建物はありません。

木曽から来た道は妻籠を出ると、馬籠に行く中山道と、飯田方面に行く道に分かれます。ここは交通の要衝。そこで、木曽から妻籠に入るここで、人と物資をチェックしていました。

 

番所の先に、大きな岩。「中山道三名石」の一つ、鯉岩(こいいわ)です。

う~ん。とても鯉には見えない

どうも明治の濃尾大地震で崩れてしまって、姿が変わったようです。

 

鯉岩の向かいは、熊谷家(くまがいけ)住宅です。

江戸末期に建てられた長屋の一部だそうです。

 

その先の建物、入口の木戸に張られた真っ白の障子紙に、黒々と大きく「大吉」の文字。

旅館大吉です。最後に縁起のいい文字を見ることができました。

気分よく、ここで引き返し、駐車場に向かいました。

                                              

この日、妻籠には馬籠より多くの観光客が訪れていました。開いている店も馬籠より多かったです。長野県に緊急事態宣言は出ていません。しかし、賑わいは全く戻っていませんでした。