への次郎が行く

カメラと地図を片手に気ままに出かけます。

ぷらっと宿場町 和宮ゆかりの大湫宿(瑞浪市)②

2021年05月16日 | 宿場町

岐阜県瑞浪市の大湫(おおくて)宿にやって来ました(2021/5/14)。

防火用の水桶があるところが、⑨白山神社の参道入口です。前方の突き当りはT字路になっています。このあたりが現在の中心地。前方のベージュ色の建物は⑤公民館、その手前に駐車場、向かいに⑦お休み処があります(地図は「ぶらっと散策みずなみ」HPより)。

お休み処では、ハイカーや観光客10名ほとが汗をぬぐったり、食事をとったりしていました。

 

公民館と駐車場の間に坂道がありました。坂道を上ると大湫小学校の跡地があって、かつてここに⑥本陣がありました。江戸に向かっていた和宮は、1861年10月28日、ここ本陣で一晩を過ごしました。その際に詠んだ歌を刻んだ歌碑が校庭のすみにありました。

 

公民館の向かいは、旅籠兼問屋の丸森です。大湫にある4軒の国の登録有形文化財の一つで、江戸末期の町屋形式を無料で見学できます。丸森の右にお休み処があります。

 

T字路まで来て、そこを左に行くと④白木番所跡がありました。ここに尾州藩の役人が常駐し、材木の管理や監視にあたっていたようです。

 

T字路まで戻ってきました。右からきた中山道がここで直角に曲がって、向こうに伸びています。大湫で唯一の枡形(ますがた)です。ポストのあるところが唯一の金融機関で、現在は機械だけがおかれているようです。その先に自販機がありますが、そこは唯一の商店です。さらにその先は上り坂になっていて、高い石垣があります。

 

石垣まで来てみると、①碑があって「是より東   十三峠」と刻んでありました。見ると、確かに急坂が伸びています。碑の後ろの木は、この地域に自生しているなんじゃもんじゃで、まだ白い花をつけていました。

 

碑の右は、石垣の上につくられた駐車場でした。その奥には、観音堂から見えた③宗昌寺(そうしょうじ)がありました。

 

石垣上の駐車場から見た宿内の光景です。右奥にT字路があります。その奥に黄緑色の高台がありますが、そこが小学校跡地、つまり⑥本陣跡です。T字路のところで中山道は直角に左に曲がり、宿場はその先に伸びています。五平餅を食べた観音堂は、写真左端に屋根の先だけが少し見えます。


 

5月中旬の平日、新緑の山里にたたずむ大湫宿を歩いてきました。

ハイカーのグループや観光客、ロードバイクやオフロードバイクに乗って立ち寄った人、多くはありませんが来訪者はありました。公民館では、何か集まりがあったのでしょうか、会場を準備する人がいました。静かな宿場でしたが、お年寄りが家先に出て立ち話をしていたり、家からは話し声やテレビの音がかすかに聞こえてきて生活感が感じられました。

ここは馬籠妻籠奈良井のように、観光地化はされていません。また中津川大井(恵那)のように、市中心部にあるわけでもありません。かといって、細久手のように宿場の様子を失ってはいません。廃屋は増えつつあるようですが、住民や行政の努力によって往時の姿をなんとか留めようとしている、そう感じました。

最後に、公武合体の象徴として江戸に向かっていた16歳の和宮がここで詠んだ歌を一首。 遠ざかる  都と知れば  旅衣  一夜の宿も  立ちうかりけり  

 


ぷらっと宿場町 和宮ゆかりの大湫宿(瑞浪市)①

2021年05月15日 | 宿場町

岐阜県瑞浪市にやって来ました(2021/5/14)。

江戸時代、瑞浪市の山中を中山道が走っていて、宿場町が二つありました。一つは東の大湫(おおくて)宿、もう一つは西の細久手宿です。今日は大湫宿に行ってきました。

国道19号を東に進み、瑞浪市釜戸町の交差点を左折すると、谷川に沿った急な上り道です。もう少しで宿場、というところで道をふさぐものが。よく見たら、「たぬき

しばらくこちらを睨みつけていましたが、やがて退散。無事、大湫宿に入りました。

 

まず地図で、周りの地形を確認しましょう(「ぶらっと散歩みずなみ」HPより)。赤線が中山道です。大湫宿は標高500mの高地にあります。西にはさらに100m高い山があり、その山すそに宿場は縦に形成されています。宿場の東には大きく区画整理された田んぼがあります。

 

車を止めた西駐車場から、宿場に入って行くと、⑬高札場がありました。ここから大湫宿になります。大湫宿は長さ約 340m、江戸末期の戸数は60~70戸、うち旅籠屋は30軒前後ありました。

 

宿場に入って少し進むと、西側の山の中腹に宿内を見下ろすように⑫観音堂がありました。

 

観音堂から見た宿内の光景です。写真右上に③宗昌寺(そうしょうじ)があり、そこまでが宿内です。

 

散策するために、まずは腹ごしらえ。来る途中、瑞浪駅の近くで買ったあまから本店の五平餅をいただきました。

 

お腹が満たされた後、観音堂から下りて行くと、そこにあったのは倒れた巨大な木でした。樹齢1300年、幹回り11mの⑪新明神社の大杉。この杉、2020年の豪雨の際に倒壊し、今でも根元に近い部分は現場におかれたままでした。

 

新明神社の少し先には、高級武士や公家が利用した⑩脇本陣がありました。一部は改修・縮小されているそうですが、ほぼ往時の姿を留めているようです。

 

さらにその先には、⑧問屋場跡がありました。問屋場とは、宿場の業務を担った役人が勤務していた役所です。木々が茂っているところにあったそうですが、建物は残っていません。その右に⑨白山神社の参道があって、奥に鳥居が見えます。

                                   つづく

 

 


道の駅をめぐる―山岡、らっせいみさと(恵那市)

2021年05月13日 | 道の駅

前回訪れた岐阜県土岐市の道の駅・どんぶり会館から、さらに東の山の中に入って行きました。どんぶり会館を過ぎると、深い谷川に架かる稚児岩(ちごいわ)大橋がありました。その手前に、白い花をつけた木。

これは珍しい。愛知県北部から岐阜県・長野県にかけて自生しているヒトツバタゴ、通称なんじゃもんじゃです。絶滅危惧種で、国の天然記念物になっている個体もあります。走っていて気づいたんですが、この道に街路樹としてどこまでも植えられていました。

 

山岡 (2021/5/12)

やがて道は、恵那市南部に入りました。そこに小里川が流れていて、小里ダムがあります。そのダム湖の湖畔の高台に道の駅・「山岡」がありました。

正しくは、「おばあちゃん市・山岡」といいます。以前ここに、おじいちゃん、おばあちゃんが野菜などを販売する市があったそうで、そこから名前をとっているようです。山岡というのは、ここの地名。

 

ここは小さな道の駅です。中に入ると、手前に物産品販売コーナーがあって、その奥はレストランです。

ここで目を引くのは、なんといっても巨大な木製水車です。その直径は21m!木製水車としては、日本一だそうです。山の中になぜ水車?どうもダムができる前、小里川流域にたくさんの水車があったそうで、それにちなんでこの道の駅のシンボルとして設置したようです。

 

らっせいみさと (2021/5/12)

道の駅・山岡から恵那市中心部に向かって山道を進むと、いたるところでフジが木に絡みついて花を咲かせていました。水田では、すでに水が張られていて、田植えが始まっていました。

 

もう少し走ると市街地に入るところに、道の駅・「らっせいみさと」がありました。みさと(三郷)は、ここの地名。「らっせい」というのは、ここの言葉で、「寄ってらっせい」「食べてらっせい」と使うそうです。

この道の駅も小さいです。入店したところに、狭い特産品販売コーナーがあります。その奥にレストランがありますが、主要メニューは蕎麦。じつはここ、蕎麦に特化した道の駅で、正しくは「そばの郷らっせいみさと」といいます。山の中にあるのに人気で、朝10時の開店から来客があります。                    

さっそく注文、「天ぷらそば 1つ

 

天ぷらを揚げるために、少し待たされて、出てきました。

ここの蕎麦は二八。今日の天ぷらは、フキノトウ、ちくわ、さつまいも、カボチャと野菜のかき揚げでした。箸で天ぷらをやさしく砕き、かけらを汁に入れます。ワサビをつけた蕎麦を箸でとり、ちょっと汁をつけてすすると、「うまい!

帰り際に厨房をのぞいたら、働いていたのは全員、ご近所のお母さん方のようです。蕎麦打ちに、プロもアマもないですねぇ。

 

買ったもの

今日買ったものは、菜園で使うものと食べ物です。菜園で使うものは、らっせみさとで買ったもみ殻稲わらです。ホームセンターの半値でした。

食べ物は、山岡で買った山菜の6種詰め合わせと茶づけみそです。この時期、農山村の道の駅に行くと、山菜があります。残念なのは、どこに行っても1パック1種類入り。ところがここには、詰め合わせもありました。これに出会ったのは、初めて。茶づけみそは、ヤマゴボウ入りです。ヤマゴボウは、渡り鳥がシベリアから種を運んできて、この地域のいたるところに自生しているそうです。

 

 

 


ふらっと宿場町 藤村ゆかりの福島宿(木曽町)

2021年05月07日 | 宿場町

長野県木曽町にやって来ました(2021/4/30)。

木曽町の中心地は、木曽福島です。江戸時代、ここに中山道が走っていて、福島宿がありました。福島宿には、四大関所の一つが置かれましたから、幕府にとって重要な場所でした。

木曽福島の中心地は、木曽川と中央本線に挟まれた一帯です。ここはさらに、八尺川によって南北に分けられます。八尺川の北が古い町で、福島宿もそこにありました。

 

地図(「木曽福島ぶらりマップ」より)に黄色い線が引いてあります。これが旧中山道です。木曽福島駅は、地図の左側にあります。駅から中山道を歩いてくると、地図の左下の中八尺橋にやって来ます。

 

橋を渡ると、中山道は細い上り坂になりました。右に「漆の館」、突き当りに「木地(きじ)の館」。ここは木曽漆器の発祥地なんですね。

 

さらに上り坂を進むと、古い町並みが残っていました。ここを「上之段」地区といい、高台になっています。観光駐車場があり、なまこ壁の古民家を利用した和洋レストランもあります。

 

上之段の突き当りで、中山道は右に直角に曲がっていました。これを枡形(ますがた)といい、外敵の侵入をここで防ぎました。枡形の先の左側に、木の茂みがあります。江戸時代、ここに高札場があって、福島宿はここから始まります。

 

高札場の坂を下ってさらに進むと、中山道は大きな通りに出ました。そこを右折し、さらに進むと、軒下に堂々とつりさげられた杉玉です。これは呑み助に対する挑戦状です。への次郎は避けて通ることはできません。で、七笑酒造にイン。「蔵隠し特別限定酒」の8文字に惹かれ、純吟を買いました。

 

4号瓶をさげて中山道をさらに進むと、細い上り坂を登る人がいました。旅人でしょうか?後をついて行くと。

 

門がありました。この門を出たこちら側に、かつて福島関所がありました。この関所までが福島宿です。門の左奥に見える建物は、福島関所を忠実に復元した福島関所資料館です。

 

資料館には、関所の通行に関する資料や関所におかれていた武具などが展示されています。前の小道をこちら側に歩いてくると、お隣です。

 

お隣は高瀬家住宅でした。高瀬家は、ここ福島の代官に仕えていた家で、島崎藤村の姉の嫁ぎ先です。現在は資料館として公開されており、前の小道は藤村にちなんで「初恋の小径」というそうです。

 


日帰りで、中山道の福島宿を回ってきました。木曽福島は「谷底の町」といわれますが、標高は800mに近いです。もうすぐ5月だというのに、山にはヤマザクラが咲いており、市街地ではウコンザクラが満開でした。コロナの第4波が拡大しているので、楽しみにしていた地元ランチは中止。ただ、地酒を買ったから、最後に味をみてみましょう。

正しくは「純米吟醸 無濾過 しぼりたて 山笑」といい、春限定だとか。箱を開けると、うす緑色の4号瓶が出てきました。栓を開け、ぐい飲みに注いで鼻を近づけると、やさしい吟醸香です。口にふくむと、ラムネに似た爽やかな味がしました。舌の上でころがすと、かすかな酸味です。

木々がやっと芽吹き始めた山深い木曽福島の春によく似合うお酒です。ぐいっと飲み干すと、「うまい!」 

 

 

 

 

 

 


寅さんのロケ地 見つけました(第44作)③―乙姫岩

2021年05月05日 | 寅さん

第44作『寅次郎の告白』では冒頭、清流が流れ、電車が鉄橋を走り抜けると、再び場面が変わります。レンズがやや引かれ、S字に流れる川が映し出されます。

 

川の中に岩がある場面

 ▼映像 (『男はつらいよ 寅次郎の告白』より)

この場面にも、場所を特定するうえで、いくつかのヒントがあります。

まず川の真ん中に、かなり大きな岩があるということです。岩には松が生えています。

つぎに川幅です。阿寺川のような支流より広いということ。ここから木曽川の本流と思われます。かといって、寅さんとポンシュウが小舟に乗った奥恵那峡ほど広くはないし、水量も多くはありません。そこから奥恵那峡より上流の木曽川ではないかと推測しました。

そこでグーグルマップを使って、奥恵那峡より上流の空撮を見ました。すると川の中に大きな岩がある場所が、一か所ありました。そこは岐阜県中津川市山口です。さっそく行って、撮った写真がこれです。

 

現在 (2021/4/30 撮影)

ロケ当時と大きく変わっているところがあります。向こうに見える大きな橋です。調べてみると、この橋はロケの数年後に完成した橋で、乙姫大橋といいます。川の中の岩は乙姫岩です。

撮影場所は、国道19号を中津川市街から北上すると、乙姫という交差点があって、そこから200mくらいもどった歩道です。

 

その歩道から見た光景です。木曽川に向かって、下り斜面になっています。ぽつぽつ家は建っていますが、斜面の多くは棚田になっていて、ちょうど田植えの準備中でした。

 

こうして、第44作『寅次郎の告白』冒頭の3場面のロケ現場は、解明されました。ところが

 


撮影場所は明らかになりましたが、何か気持ちがすっきりしません。じつはブログを書いていて、新たな疑問がわいてきたのです。

木曽川にある岩を「乙姫岩」といいます。その近くに架かっている橋は「乙姫大橋」。乙姫大橋に入る交差点を「乙姫」といいます。その交差点の北には、「浦島」という交差点があります。おとぎ話の名称が、いくつもついているのです。不思議に思って調べてみると、中津川地域には浦島太郎伝説があったのです。それによると、

もともと乙姫は、ここにある乙姫岩の竜宮に住んでいました。そこに、上流の寝覚の床から浦島が流されてきて、二人はいい仲になり一緒に暮らすようになったそうです。やがて浦島は寝覚の床に帰ることになり、乙姫は土産に玉手箱をわたしました。帰った浦島は、開けてはいけないと言われていた玉手箱を開けて、白煙とともに老人になったと。

 

ところで、電車が鉄橋を走り抜けた上松の寝覚の床、そこにも浦島伝説があるのです。それによると、

竜宮から帰った浦島は、故郷の様子があまりにも変わっていたため、故郷を離れて諸国をめぐる旅に出ました。やがて風景の美しい上松にやってきて、美しい竜宮のことを思い出してここで玉手箱を開け、一瞬にして老人になったと。つまり上松で、浦島が長い“眠り”から覚め、我に返ったということで、ここを「寝覚の床」というのだと。

 

山田洋次監督は、このことを知っていたのでしょうか?知っていて、寝覚の床と乙姫岩を関連づけてロケをしたのでしょうか?撮影場所は解明されましたが、への次郎を悩ませる新たな疑問がわいてきました。う~ん