この23日は、วันปิยมหาราช(わん ぴぃや まはらーっ=チュラーロンコーン大王(ラーマⅤ世)記念日)でした。大王は、1910(明治43)年のこの日に57歳で亡くなりました。しかし、タイ国民はタイ王国近代化の父と呼んでその遺徳を偲び、今も多くの国民から慕われています。
日本国には、名古屋市に覚王山日泰寺という日本とタイ王国との合同のお寺があります。このお寺はチュラーロンコーン大王(ラーマⅤ世)所縁のお寺であり、10月23日の記念日には、タイ王国大使館関係者が集って法要が営まれます。
もうずいぶんと前の話になってしまいましたが、昨年のこの記念日に念願叶ってお寺へ参ることが出来ました。今回は、1回めにお寺への行き方と紹介をすると共に、2回目で昨年の法要の様子をご紹介することとします。
* * *
<名駅からの行き方>
◎地下鉄東山線
朝ごはんを終えてから、名駅前のビジホ・チサンインをチェックアウトし、名駅へ。着替えやおはようセットの入ったバッグはロッカーに預け、地下鉄で覚王山駅へ向かいます。
★チサンイン @名古屋の記事は → こちら
いろいろな路線に乗ってみたいということから、まずは、本来の東山線とほぼ並行して走っている桜通線に乗って、今池駅で東山線に乗り換えました。
最寄りは覚王山駅。ホームに降りると次のような掲示もあって、日泰寺へ行くのに迷うことはありません。
本当に迷わずに来られます^^
駅前は、 こんなカンジ^^
この大通りは広小路通り、別名覚王山通りとも呼ばれているそうです。
なかなか由緒ある地域のようです。数々のお寺やお宮、そして学校(愛知学院大学等)が点在している落ち着いた地域です。
大通りを若干戻ってスタバの角を右に曲がれば参道です。
参道に入って目に付くのは、日泰両国の国旗。
地元とお寺とが一体になっている印象を受けます。嫌が応にも、期待が高まってきますねぇ^^
さりげなく置かれたベンチも、良い味を醸し出しています。
やがて見えてくる山門。
◎คากูโอซันนิตไตจิ(覚王山日泰寺)
しっかりといわれが書かれています。
さらに進むと、
ゆったりとした敷地に施設が点在しています。
奥へ進むと、
既に法要が始まっていました。
チュラロンコン国王の銅像には、
東京の大使館と全国の領事館、関係企業からの花が供えられています。
日泰両国旗(日の丸は、右手にあります)の本堂。
皇太子殿下お手植え
♡ขอขอบคุณสำหรับการมาตลอดครับ♡
いつもご来場くださり、ありがとうございますm(_ _)m
日本国には、名古屋市に覚王山日泰寺という日本とタイ王国との合同のお寺があります。このお寺はチュラーロンコーン大王(ラーマⅤ世)所縁のお寺であり、10月23日の記念日には、タイ王国大使館関係者が集って法要が営まれます。
もうずいぶんと前の話になってしまいましたが、昨年のこの記念日に念願叶ってお寺へ参ることが出来ました。今回は、1回めにお寺への行き方と紹介をすると共に、2回目で昨年の法要の様子をご紹介することとします。
<名駅からの行き方>
覚王山日泰寺
明治の御代、ネパールの南境に近い英領インドで発見された人骨を納めた蠟石の壺には、古代文字が刻み込まれていた。その文字を解読の結果、それまで存在が疑問視されていた仏教の教祖「釈尊」の実在が立証されることとなった。
当初その壺は、副葬品と共にカルカッタの博物館に納められていたが、のち「釈尊」の遺骨については仏教国であるシャムの王室に寄贈された。時のチュラロンコン国王はワットサケットに安置しお祀りすると共に、その一部を同じく仏教国であるセイロン、ビルマに分与なさった。それを聞いた時の在タイ国弁理公使・稲垣満次郎は、日本の仏教徒に対してもその一部を分け与えてほしいとタイ国国王に懇願した。その結果「チュラーロンコーン国王より日本国民への贈物」として下賜されることが決まった。
日本では、日本仏教各宗管長に対して受け入れ態勢を要請。当時の仏教13宗56派の管長が協議し、タイ国国王の聖意を拝受することを決定、明治33年6月に奉迎の使節団を結成し、正使に大谷光演(東本願寺法主)、副使に日置黙仙(曹洞宗、後に永平寺貫主)の他、藤島了穏(浄土真宗)、前田誠節(臨済宗)らがタイに渡り、6月15日バンコクの王宮に於てチュラーロンコーン国王より親しく御真骨を拝受した際、日本国では仏骨奉安の寺院を超宗派で建立するとのお約束を申しあげたところ、完成時の御本尊にとタイ国国宝の一千年を経た釈尊金銅仏一軀も共に下賜された。
奉迎使節団の帰国後、御真骨は京都・妙法院に仮安置し、新たに御真骨をお祀りする寺院の建立計画を仏教各宗ので協議した。結果、官民一致の誘致運動が功を奏し名古屋に新寺院が建立されることとなった。 名古屋市民あげての協力により、現在の寺の所在地に10万坪の敷地を確保、明治37年に釈尊を表す“覚王”を山号とし、日タイの友好を象徴する“日泰寺”の寺号をもった現在の覚王山日泰寺が誕生した……。
明治の御代、ネパールの南境に近い英領インドで発見された人骨を納めた蠟石の壺には、古代文字が刻み込まれていた。その文字を解読の結果、それまで存在が疑問視されていた仏教の教祖「釈尊」の実在が立証されることとなった。
当初その壺は、副葬品と共にカルカッタの博物館に納められていたが、のち「釈尊」の遺骨については仏教国であるシャムの王室に寄贈された。時のチュラロンコン国王はワットサケットに安置しお祀りすると共に、その一部を同じく仏教国であるセイロン、ビルマに分与なさった。それを聞いた時の在タイ国弁理公使・稲垣満次郎は、日本の仏教徒に対してもその一部を分け与えてほしいとタイ国国王に懇願した。その結果「チュラーロンコーン国王より日本国民への贈物」として下賜されることが決まった。
日本では、日本仏教各宗管長に対して受け入れ態勢を要請。当時の仏教13宗56派の管長が協議し、タイ国国王の聖意を拝受することを決定、明治33年6月に奉迎の使節団を結成し、正使に大谷光演(東本願寺法主)、副使に日置黙仙(曹洞宗、後に永平寺貫主)の他、藤島了穏(浄土真宗)、前田誠節(臨済宗)らがタイに渡り、6月15日バンコクの王宮に於てチュラーロンコーン国王より親しく御真骨を拝受した際、日本国では仏骨奉安の寺院を超宗派で建立するとのお約束を申しあげたところ、完成時の御本尊にとタイ国国宝の一千年を経た釈尊金銅仏一軀も共に下賜された。
奉迎使節団の帰国後、御真骨は京都・妙法院に仮安置し、新たに御真骨をお祀りする寺院の建立計画を仏教各宗ので協議した。結果、官民一致の誘致運動が功を奏し名古屋に新寺院が建立されることとなった。 名古屋市民あげての協力により、現在の寺の所在地に10万坪の敷地を確保、明治37年に釈尊を表す“覚王”を山号とし、日タイの友好を象徴する“日泰寺”の寺号をもった現在の覚王山日泰寺が誕生した……。
【覚王山日泰寺ホームページより・再掲】
◎地下鉄東山線
朝ごはんを終えてから、名駅前のビジホ・チサンインをチェックアウトし、名駅へ。着替えやおはようセットの入ったバッグはロッカーに預け、地下鉄で覚王山駅へ向かいます。
★チサンイン @名古屋の記事は → こちら
駅前は、
この大通りは広小路通り、別名覚王山通りとも呼ばれているそうです。
参道に入って目に付くのは、日泰両国の国旗。
◎คากูโอซันนิตไตจิ(覚王山日泰寺)
さらに進むと、
奥へ進むと、
チュラロンコン国王の銅像には、
--つづく
【2022年 名古屋市千種区】
いつもご来場くださり、ありがとうございますm(_ _)m
名古屋にこんなお寺があるなんて、全く知りませんでした。Googleで検索してみると、10月にはタイフェアとかもやっていました。
今度ぜひこの法要に参加してみたいです。
お寺の存在自体は知っていたものの、本当に行けるとは思っていませんでした^^ 14・15日の土日でしたか、タイフェスもありましたね。本当はせめてその頃に投稿したかったのですが、今ちょっとバタついていて今になってしまいました。
法要の様子は②でお届けします(参加は、大使館・領事館やその関連企業だと思います)が、とにかくゆったりとした敷地の落ち着いたお寺でビックリしました。周囲もとても落ち着いた様子で、面白そうなお店もたくさんありました。
自分としては、成田のワットパクナムのように、タイ人がいるかな? タイ屋台が出ているかな? って期待していたんですよ(^^; だって、ラーマⅤ世のお祭りですよ。それらが何も無かったのが、拍子抜けであり、残念に思ったところでした。
なるべく早くに②を投稿出来るようにしたいと思いますm(_ _)m