🌟悟りの話🌟
お釈迦様は人生における究極の目的は「悟り」を開くことであると言っておられます。
仏教で「彼岸に至る」という言葉がありますが、
われわれ凡人は、それをこの世の向こう側にある極楽浄土だと理解しています。
しかし、実際にお釈迦様が説かれた彼岸というのは、悟りの境地のことを言います。
悟りを開けば安心立命の境地になり、そこから極楽浄土というわけです。
その極楽浄土に渡る方法として、
お釈迦様は、
「六波羅蜜(ろくはらみつ)」
という修行をせよと説いておられます。
この六波羅蜜で
最初に来る修行とは
「布施(ふせ)」です。
おさい銭をあげることもそうですが、
人を助ける行為はすべてこの布施になります。
私は、事業経営とは一見相矛盾するような「利他の心」ということについて、よく話ししています。
この「世のため人のため」という利他の心は、それと同じことなのです。
中小企業の経営者は、従業員を守っていくために日夜がんばっているます。
それも他の人のために尽くしていることになりますから、立派な布施であると私は思います。
また二つ目は「持戒(じかい)」といって戒律を守るという意味です。
お釈迦様は、「人間には六つの煩悩がある」と仰っています。
煩悩とは、肉体を持っているがゆえに出てくるもので、
この煩悩のせいで人間が駄目になっていくケースはたくさんあります。
お釈迦様が仰った六大煩悩を一つ一つ挙げていきます。
まず、「貪(とん)」と呼ばれるもので、食欲、性欲、名誉欲といった、人間なら誰でも持っている欲望を指します。
これらは、肉体を持っていればどうしても必要になるものですから、それが過大になってはいけません。
次は、「瞋(しん)」です。
怒りに任せて勝手な振る舞いをし、周囲の人に迷惑をかけてしまうような心です。
次は、「痴(ち)」です。
無知なあまり、しょっちゅう不平不満を漏らし、うまくいっている人を見ると面白くないと妬む、そういう卑しい心のことです。
次は、「慢(まん)」です。
謙虚さを忘れ、傲慢になっていく心のことです。
次は、「疑(ぎ)」です。
読んで字のことく、疑い深い心のことです。
次は、「見(けん)」です。
物事を全てよこしまに見る、悪いほうに解釈をする心のことです。
この、貪、瞋、痴、慢、疑、見を六大煩悩とし、それらを抑えなさいとお釈迦様は説かれました。
つまり、これが持戒です。
三つ目は「精進(しょうじん)」です。
これは一生懸命に働くということです。
私は皆さんに、「誰にも負けない努力」を要求しています。
たとえ他人が寝ている間であっても働くというくらいの努力をする、それが精進なのです。
禅宗のお坊さんは、悟りを開くために大変厳しい修行をしておられます。
農作業をするにしても、掃除をするにしても、座禅を組むにしても、
必死に取り組んでおられる、それがすなわち精進です。
経営者も同じように、毎日必死になって会社を運営しています。
つまり、経営者の行う努力は、禅宗のお坊さんが行う修行と何ら変わらないのです。
周りの人と同じように、長い休暇を取ってどこかに遊びに行きたいと思うけれども、
会社を留守にすればつぶれしないかと心配で心配で、結局朝早くから夜遅くまで一生懸命にがんばっている。
何も座禅を行うだけが精進ではなく、これも立派な精進といえるはずです。
四つ目は「忍辱(にんにく)」です。
これは「堪え忍ぶ」という意味です。
この不況を、皆さんは必死にを食いしばって堪え忍んでおられますが、お釈迦様はそれも修行の一つだと言っておられるわけです。
五つ目は「禅定(ぜんじょう)」です。
座禅を組むと言うことですが、私なりにこれを解釈しますと、
必ずしも「座禅を組まなければならない」ということではなく、
せめて一日一回、心を静める時間を持ちなさいということだと思います。
経営に打ち込んでいると、ついつい頭に血が上ってしまい、冷静な判断ができなくなってしまうことがあります。
そうならないためにも、一日一回は心を静め、頭を冷やす。
禅定とは、そういう意味だと考えています。
寝る前にでも、ベットの中で静かに目を閉じ、心を静かにするという程度でも構わないと思います。
今言った五つのことを心がけていると、
やがて六つ目の
「智慧(ちえ)」に至ります。
森羅万象を支配している宇宙の根本原理を知る、
つまり「悟り」に至るわけです。
(「京セラ フィロソフィ」稲盛和夫さんより)
「悟り」というのは、
英国で
「Enlightenment(エンライトメント)」
と言います。
明るくする、という意味です。
明るくすることが、大切なんですね。
お釈迦様は人生における究極の目的は「悟り」を開くことであると言っておられます。
仏教で「彼岸に至る」という言葉がありますが、
われわれ凡人は、それをこの世の向こう側にある極楽浄土だと理解しています。
しかし、実際にお釈迦様が説かれた彼岸というのは、悟りの境地のことを言います。
悟りを開けば安心立命の境地になり、そこから極楽浄土というわけです。
その極楽浄土に渡る方法として、
お釈迦様は、
「六波羅蜜(ろくはらみつ)」
という修行をせよと説いておられます。
この六波羅蜜で
最初に来る修行とは
「布施(ふせ)」です。
おさい銭をあげることもそうですが、
人を助ける行為はすべてこの布施になります。
私は、事業経営とは一見相矛盾するような「利他の心」ということについて、よく話ししています。
この「世のため人のため」という利他の心は、それと同じことなのです。
中小企業の経営者は、従業員を守っていくために日夜がんばっているます。
それも他の人のために尽くしていることになりますから、立派な布施であると私は思います。
また二つ目は「持戒(じかい)」といって戒律を守るという意味です。
お釈迦様は、「人間には六つの煩悩がある」と仰っています。
煩悩とは、肉体を持っているがゆえに出てくるもので、
この煩悩のせいで人間が駄目になっていくケースはたくさんあります。
お釈迦様が仰った六大煩悩を一つ一つ挙げていきます。
まず、「貪(とん)」と呼ばれるもので、食欲、性欲、名誉欲といった、人間なら誰でも持っている欲望を指します。
これらは、肉体を持っていればどうしても必要になるものですから、それが過大になってはいけません。
次は、「瞋(しん)」です。
怒りに任せて勝手な振る舞いをし、周囲の人に迷惑をかけてしまうような心です。
次は、「痴(ち)」です。
無知なあまり、しょっちゅう不平不満を漏らし、うまくいっている人を見ると面白くないと妬む、そういう卑しい心のことです。
次は、「慢(まん)」です。
謙虚さを忘れ、傲慢になっていく心のことです。
次は、「疑(ぎ)」です。
読んで字のことく、疑い深い心のことです。
次は、「見(けん)」です。
物事を全てよこしまに見る、悪いほうに解釈をする心のことです。
この、貪、瞋、痴、慢、疑、見を六大煩悩とし、それらを抑えなさいとお釈迦様は説かれました。
つまり、これが持戒です。
三つ目は「精進(しょうじん)」です。
これは一生懸命に働くということです。
私は皆さんに、「誰にも負けない努力」を要求しています。
たとえ他人が寝ている間であっても働くというくらいの努力をする、それが精進なのです。
禅宗のお坊さんは、悟りを開くために大変厳しい修行をしておられます。
農作業をするにしても、掃除をするにしても、座禅を組むにしても、
必死に取り組んでおられる、それがすなわち精進です。
経営者も同じように、毎日必死になって会社を運営しています。
つまり、経営者の行う努力は、禅宗のお坊さんが行う修行と何ら変わらないのです。
周りの人と同じように、長い休暇を取ってどこかに遊びに行きたいと思うけれども、
会社を留守にすればつぶれしないかと心配で心配で、結局朝早くから夜遅くまで一生懸命にがんばっている。
何も座禅を行うだけが精進ではなく、これも立派な精進といえるはずです。
四つ目は「忍辱(にんにく)」です。
これは「堪え忍ぶ」という意味です。
この不況を、皆さんは必死にを食いしばって堪え忍んでおられますが、お釈迦様はそれも修行の一つだと言っておられるわけです。
五つ目は「禅定(ぜんじょう)」です。
座禅を組むと言うことですが、私なりにこれを解釈しますと、
必ずしも「座禅を組まなければならない」ということではなく、
せめて一日一回、心を静める時間を持ちなさいということだと思います。
経営に打ち込んでいると、ついつい頭に血が上ってしまい、冷静な判断ができなくなってしまうことがあります。
そうならないためにも、一日一回は心を静め、頭を冷やす。
禅定とは、そういう意味だと考えています。
寝る前にでも、ベットの中で静かに目を閉じ、心を静かにするという程度でも構わないと思います。
今言った五つのことを心がけていると、
やがて六つ目の
「智慧(ちえ)」に至ります。
森羅万象を支配している宇宙の根本原理を知る、
つまり「悟り」に至るわけです。
(「京セラ フィロソフィ」稲盛和夫さんより)
「悟り」というのは、
英国で
「Enlightenment(エンライトメント)」
と言います。
明るくする、という意味です。
明るくすることが、大切なんですね。