東急ハンズ 2016-10-28 20:18:55 | 日記 東急スクエアで、東急ハンズがオープンしました。 とりあえず、お買い物 胡麻鍋のもと、ステンレス雪平なべ、柳宗理のスプーン あと、腹巻き、追加 さすが、オープン日、活気がありますねー!(OvO)
心に植えたもの 2016-10-28 18:56:04 | お話 🍀🍀🌸心に植えたもの🌸🍀🍀 苦と楽の 花咲く木々を よく見れば 心の植えし 実の生えしなり 二宮尊徳🌸はその生涯🍀にたくさん道歌🎵を残しています。 米蒔けば 米の草生えて 米の花🌸 咲きつつ米の みのる世の中🍀 同じことを麦、梅、松、百木百草🌱🌳🌲🌴についても歌い、 こんなふうにも詠みます。 悪😈蒔けば 悪の草生えて 悪の花😈 咲きつつ悪の みのる世の中🍀 善🌟巻けば 善の草生えて 善の花☀️ 咲きつつ善の みのる世の中🍀 この道歌をさらに普遍的に詠んだのが一番上の歌です。 人生🍀は心💓に植えた通りの花🌸が咲く。😄☀️ これはいく時代🍀を経ても変わらぬ人生の真理☀️です。 最後に尊徳翁🌸の素晴らしい道歌をもう一つ。 丹精💓は 誰知らずとも おのづから 秋の実り🌰の まさる数々💕
インドの死に方 2016-10-28 14:14:32 | お話 🌅インドの死に方🌅 いよいよ命が尽きようかというとき、 現在の日本では、ほとんどの場合、すでに病院に入院しています。 そうでなくても、たいていは病院に担ぎ込まれるでしょう。 そして、息が苦しくなると気管挿管をして人工呼吸器をつなぎ、 栄養を補給する点滴の管をつけ、排尿のための管を入れ、 血圧・脈拍・心電図・血液の状態などを測るセンサーをつけ…、 たちまちチューブとコードだらけになります。 さらには、タンで呼吸が妨げられると気管切開をし、 口から物を食べられなくなれば、流動食を鼻から注入したチューブで送り込んだり、 外から胃に穴を開けて流し込んだりします。 このように、体中にさまざまな管とコードをつけた状態のことを、 「スパゲティー症候群」 と呼ぶそうです。 ただし、急性の病気わ事故などでそういう状態になっても、 この言葉はあまり使わないそうです。 ちょうど今、私が語っているような終末期医療で、 治る見込みのない患者さんを管だけにすることを、少し揶揄していう言葉でしょう。 医師をはじめとする現場の医療従事者は、いつも一生懸命に力を尽くしているのでしょう。 また、家族にしてみれば、どんな状態でも少しでも長く生きて欲しいと思うのもわかります。 医療によって、こういう形の延命が可能になっている今、管やコードの装着を断ることは、 自分で肉親の「死」を呼び寄せ、決定することになります。 気持ちとして、あるいは看取る人の立場として、 延命措置を断るのは難しい場合も多いでしょう。 何より、 「長く生かしたい」 「生きてほしい」 という医療従事者や家族の気持ちは尊いと思います。 しかし、それでも、人の最期として、日本の終末期医療は極めて不自然といわざるを得ません。 管だらけになって動きがとれず、 苦しいので動こうとすると、ベッドのさくに縛られて、 手足を拘束されています。 実際に経験したら、気が狂いそうな苦しみでしょう。 もはや年老いて終わり、 呼吸ができない、食べられないという人に、 無理やりに呼吸をさせ、食物を流し込んで生かすなどということは、 人の「本質」のあり方を考えると、苦しみを与えるだけだと思います。 ここでいう「本質」とは、私たちの肉体に宿っている存在で、 「核」とか「霊」とか「魂」とか「本体」などと呼ばれるものです。 本書では、基本的に、特定の宗教観などと結びつきにくい「本質」という言葉を使っています。 私たちは「肉体+本質」でできています。 パソコンでいえば「ハードウェア+ソフトウェア」のようなもので、 どちらが欠けても人間として成り立ちません。 日本の終末期医療は、 その「本質」、 多くの人が聞き慣れている言葉でいうと「魂」を苦しめます。 肉体の最期が近づき、本質が死後に行くべき世界に移ろうとしているのに、 それを強引に引き止めて行かせないからです。 どんな理由があるにせよ、人の本質から見れば残酷な行為です。 人には、安らかに死ぬ権利があります。 向こうの世界に旅立とうとする人に対して、 看取る人々ができるのは、 安らかに、ただ安らかにと願って静かに送り出すことだけです。 それが、のちに述べるインド式の逝き方です。 日本や他の先進国で普通に行われている延命治療は、その全く逆の行為です。 今まさに、向こうの世界に移ろうとしている人を苦しめることになる、 現在の終末期医療のあり方について、 みんなで真剣に考えるときが来ているように思います。 「もし、選べるのであれば、どのように逝きたいか」 誰しも、そういうことに思いを巡らせた経験はあるでしょう。 いろいろな意見があるでしょうが、 私が理想的だと思っているのは、 インドのお年寄りの逝き方です。 そのバックボーンには、ヒンドゥー教の「四住期(しじゅうき)」という考え方があります。 簡単にいうと四住期とは、人生を4つの時期に区切り、 ①学生期(がくしょうき)=学ぶ時期 ②家住期(かじゅうき)=社会で仕事をして、家族を養う時期 ③林住期(りんじゅうき)=引退して林に住み、真理について考える時期 ④遊行期(ゆぎょうき)=死ぬ準備をする時期 と位置付けるものです。 今の時代でいうと、学生期はそのまま学生時代、 家住期は会社員なら定年までににあたります。 林住期は、本来の意味では、出家して林に住み、質素に生活しながら修行する時期ですが、 いまでいうなら退職後の悠々自適の時期となりそうです。 では、最後の遊行期とは、どう過ごす時期でしょうか。 遊行とは、各地をめぐり歩くことです。 昔も今もインドには農村が多く、 道沿いには途切れ途切れに集落がありました。 そこで、死期が近づいたと思ったら、 その人は家を出て、村々をめぐっていきます。 村に着くと、食べ物と一夜の宿を提供してくれます。 そうやって、行く先々で人々の慈悲を受けながら、ついに動けなくなるときが来ます。 すると、 「あー、この人はここで死ぬな」 と村人たちは受け入れて、 木陰のベットに寝かせてくれます。 そこに、もう食べ物は持ってこないで、 水だけを持ってきてくれるのです。 子供たちが歌を歌ったり、 村人が訪ねて来て、いろいろな話をしたりして、 楽しく過ごさせてくれます。 そうするうちに、1〜2ヶ月が経ち、静かな死を迎えることになります。 これが本来の遊行期です。 最近のインドは近代化してきて、 家を出て村々を渡り歩くなどということはできなくなりましたが、 その基本は大切にされていて、 多くの人たちは自宅で同じ死に方をします。 つまり、 「自分は長く生きてきて、もうこれ以上はできなくていいな」 と思った時点で、 「お水だけにします」 といって、ベッドで過ごす生活に入るのです。 家族は 「あー、その時期が来たのだな」 と了解して、水だけをあげます。 親族や友達が訪ねてきて、一緒に楽しく過ごして、 一カ月半くらいでスーッと静かに亡くなります。 ですから、長患(ながわずら)いで、延々と介護されるなどということは起こりません。 私は、インドで学校をつくっているので知り合いも多く、 頻繁にインドに行っています。 知人の家を訪れると、先日まで元気だったおばあさんが、 ベットで寝ているのに遭遇することがあります。 家族が 「いま、お水だけで」 というと、 「いよいよ、そのときか」 と、ピンときます。 その死は、このうえなく安らかで、おだやかです。 それは、家族や親しい人たちに見守られて逝くからでもありますが、 それ以上に、インドの人たちは 「もう一度生まれ変わる」 ことを固く信じているからです。 やがて、先に逝った親族たちがお迎えに来て、 一緒に向こうの世界へ連れて行ってくれると信じているので、 不安も恐怖もないようです。 「自分は生きている間、いいことをしたから、 また、いい所に生まれ変わるだろう」 と思って、来世を楽しみして旅立っていくのでしょう。 これが、私の理想とする1つの逝き方です。 (「食べない、死なない、争わない」稲葉耶季さんより) いい旅立ち方ですね。(^_^)