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盲亀浮木(もうきふぼく)

2016-10-18 13:21:22 | お話
🍀🍀盲亀浮木(もうきふぼく)🍀🍀


『盲亀浮木』(もうきふぼく)とは、

目の見えなくなった老海亀が百年に一度浮き上がってきた時に、

偶然、穴の空いた浮き木の穴に首を突っ込むという寓話から出来た言葉。

その意味するところは

「出会ったり、物事が実現したりすることが、きわめて難しいこと」

の例え。

ただし、この出会いとは

狭義には尊い教えに出会う可能性の事でしかないが、

広義には人と人の出会いに例えられることが多い。


『雑阿含経』の中に出て来る純然たる仏教用語なのも忘れてはならない。

ある時、釈尊が

「たとえば、大海の底に1匹の盲亀がいて、100年に1度、波の上に浮かび上がるのだ。

ところが、その海に1本の浮木が流れていて、

その木の真ん中に1つの穴がある。

100年に1度浮かぶこの亀が、

ちょうど、この浮木の穴から頭を出すことが1度でもあるだろうか」

と尋ねられた。

阿難という弟子は

「そんなことはほとんど考えられません」

と答えると、

釈尊は

「誰でも、そんなことは全くあり得ないと思うだろう。

しかし、全くないとは言い切れぬ。

人間に生まれるということは、

今の例えよりも、更にありえぬ難いことなのだ」

とおっしゃっていられます。


ちなみに類義語は、

『千載一遇』であることは意外に知られていない。

こちらも本来は仏教用語。

千年に一度、出会うかどうかという風な意味である。

ある数学者が計算したら、

その確率は

”114京9286兆4919億5633万3945年に1度”

ということらしい。

『涅槃経』には

「地獄に堕ちるものは、十方世界の土のごとく、

人間に生まれるものは爪の上の土の如し」

とも説かれている。

要するに、仏教では

「人間に生まれたことは、大変有り難いことだから、喜ばねばならない」

と、人に説くことが、一つの教義にもなっているということ。

その有り難い人間同士が出会うのは、

『盲亀浮木』の確率どころの話しではない。

そんな大変な偶然の中で
出会った人と人。

でも、その大変さは、案外忘れられがちな気がする。

だから、出会いに感謝すると云うことも、ついつい忘れがちになる。

もちろん自分が生まれてきたことも、

大変な偶然の産物であって、

その大変さを思えば、

自分を大切にしない人は罰当たりとしか云いようがない。

生い立ちの悲しさ、
生い立ちから来る苦しみ、
生きていく上での不運、

それらを嘆く前に、

まず、

自分が此の世に生を受けたことを感謝し、

生まれた事だけで充分幸せだと思えば、

我が身が、いくら他人に比して不幸に感じられたとしても、

それを気にする必要がないことに気付くだろう。


だからこそ、

人との出会いは大切にしたいと思う。


(ある国文学者のお話より)


出逢いに感謝ですね。(^_^)