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無言館

2016-10-26 15:23:18 | お話
🏤🎨無言館🎨🏤


2012年、宮城県石巻市で、若くして戦没した画学生たちの絵を集めて作った美術館「無言館」の展覧会を行いました。

私は「被災した人々に彼らの絵を見せて何の意味があるのだろうか」と思っていました。

そんな時、災害で娘さんとご両親を失い、

自分の家も工場も流されてしまったある水産加工業の社長さんに、こう言われました。

「津波があったから、私はこの人たちの絵を見ることができたんですね。

今日、来て良かったと思います。

生きていく気になりました」


画学生たちの絵には生きていこうと思わせる力、生きる勇気を与えてくれる力がある。

「無言館」の役割を実感した出来事でした。


昭和19年、フィリピンのルソン島で27歳で亡くなった日高安典さんという方がいました。

「無言館」ができて2年目のこと、日高さんの絵のモデルを務めたという女性が訪ねて来られました。

その方が「無言館」にあるノートに残した文章を読ませていただきます。

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日高安典さん。

私、とうとうここへ来ました。

私、もうこんなおばあちゃんになってしまったんですよ。

だって、安典さんに絵を描いてもらったのは、もう50年も昔のことなんですもの。

今日は決心して鹿児島から1人でやってきたんです。

70を過ぎたおばあちゃんにとっても長い旅でした。

朝一番の飛行機に乗って、東京の人混みに揉まれ、

信州に来て、

そして…そしてこの絵の前に立ったんです。

戦争が激しくなってなかった頃、安典さんは私のアパートによく訪ねて来てくれましたね。

いつの間にかお互いの心が通じあって、

私の部屋で2人、あなたの好きなレコードを聴いていた日々がつい昨日のことのようです。

あの頃は遠い外国で日本の兵隊さんがたくさん戦死しているなんて思ってもいなくて、

毎日、私たちは楽しい青春の中におりましたね。

安典さん、私はこの絵を描いてくださった日のことを覚えているんです。

初めて裸のモデルを務めた私が緊張でしゃがみ込んでしまうと、

「僕が一人前の絵描きになるためには、一人前のモデルがいないとダメなんだ」

と私の肩を抱いてくれましたね。

安典さんの真剣な目を見て、またポーズをとりました。

安典さんに召集令状が届いたのは間もなくのこと。

あの日、安典さんは、いつもと違う目をして言いました。

「自分が女だったなら戦争に行くことはなく

絵を描き続けていられたあろう。

しかし、男に生まれたからこそ

君に会えて、この絵を描けたのだ。

だから僕は幸せなのだ」

と。


昭和19年夏、

「できることなら生きて帰ってまた君を描きたい」

と言って、あなたは出征していきました。

実はあの頃、私は故郷に両親のすすめる人がいたのです。

でも私は安典さんが帰ってきて、

また自分を描いてくれるまで、

いつまでも持ち続けようと自分に言い聞かせました。

それから50年、ほんとにあっという間の歳月でした。

世の中もすっかり随変わって、戦争もずいぶん昔のことになりました。

安典さん、私こんなにおばあちゃんになるまで、

とうとう結婚もしなかったんです。

1人で一生懸命生きてきたんですよ。

安典さん、あなたが私を描いてくれた "あの夏" は、

私の心の中で、今も、 "あの夏" のままなんです。


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1999年8月15日の文章です。

遠いところですが、どうぞ「無言館」に一度お越しください。


(「みやざき中央新聞」戦没画学生慰霊美術館「無言館」館長 窪島誠一郎さんより)


これ、二回読むと、涙が出ます。