hideyukiさんの、令和もみんなガンバってますね!笑み字も!Webにも愛と光を!

日々の楽しい話、成長の糧などを綴ります。
楽しさ、感動、知恵が学べる。
(^_^)私はとっても普通の人です。

クオモ

2016-10-12 19:50:24 | 日記
今夜は、明日があゆみちゃんの誕生日なんで、サルバトーレ・クオモでお食事。

乾杯

ゼッポレ

アヒージョ

マルゲリータ

チーズのピッツァ

いしるのペペロンチーノ

やっぱり、D.O.C、追加

デザート、ティラミス、ロールケーキ

美味しく、楽しいお食事でした。(^_^)

弁当

2016-10-12 12:43:17 | 日記
🍱弁当🍱


香川県内の小中学校🏫の元校長🌸で、今は全国で講演活動🎤されている竹下和男さんの話🎵を聞く機会がありました。

竹下さんは「弁当🍱の日」を提唱し、全国🗾に広める活動しています。

「弁当🍱の日」とは、食🍴の大切さに気づいてもらおうとする食育🍀活動の一環🌸で、

献立、買い出し、調理、弁当箱詰め、
そのすべてを子供たち👦👧が行う日です。

この「弁当🍱の日」の実践子校🏫は、今では全国で約1,800校に上るそうです。

竹下さんの話を聴きながら、弁当🍱の思い出が三つ頭に浮かんできました。☁️⛅️☀️

(その1)

高校時代🏫、同じ部活動🍀をしているWという友人🌸がいました。

彼は昼休みの時間に菓子パン🍞を食べていることが多かった気がします。

昼に姿が見えなくなることもありました。

ある日の昼休み、私が何かの用事で部室に行くと鍵が開いていました。

中を覗くと、Wが膝を折り曲げて、ぼーっ☁️☁️と座っていました。☁️☁️

Wの家は貧しく、お弁当🍱を作ってくれる母親🌸もいませんでした。

私は毎日お弁当🍱を食べられことを当たり前だと思っていた自分の傲慢さに気づきました。😰⚠️

(その2 )

建設現場🏢の車からお弁当🍱が盗まれることがあります。

当時50代後半だったとMさんがその被害😵にあいました。

Mさんには悪いですが、財布💰を盗まれるのと違って、

お弁当🍱を盗まれるというのは、ちょっと滑稽な感じ💓がします。

Mもみんなと一緒に笑って😄いましたが、
少し落ち込んでいるようにも見えました。⛅️

その日の夜🌌。

「弁当箱🍱だけでも返ってこないかな。

実はこの会社に就職🍀が決まった時、

娘🌸が買って👜くれたものだったんですよ」

みんな帰った静かな事務所🏠で、
Mさんはそう言って悲しそうに微笑みました。😀☁️

(その3)

私の妹🌸の結婚式💒で読み上げられた、両親への感謝の手紙✉️の一部です。

「恥ずかしい話ですが、

私は会社🏢に持っていくお弁当🍱を、
お母さん🌸に作ってもらっていました。

『マンネリでごめんね☁️』

と、いつもお母さん🌸は言っていたけど、

お母さんの弁当🍱の味は、一生🍀忘れません💓」

妹の涙声😭に私も思わず涙💧が出そうでした。😢

母🌸を見ると、意外にも母は毅然⚡️と立ち、じっと妹を見つめて👀🌟いました。

その姿が、なんだか かっこよく☀️見えました。😄💕

一方、母の隣にいた父👨は、
立っているのもやっとなくらい号泣😭していて、
とても恥ずかしかったです。😨


「弁当🍱」は、今では "bento" と英語にもなっています。🎵

"Lunchbox" (ランチボックス)と "bento" は違う、と知り合いのアメリカ人🇺🇸が言っていました。

お弁当🍱には愛❤️が詰まっているからだそうです。😄🎵


(「みやざき中央新聞」山本さんより)


私も、友達のきれいな盛り付けの弁当を見ると、羨ましかった思い出があります。😵

でも、作ってもらえるだけで、ありがたかったんですね。😄☀️

聖心女子OG対談②

2016-10-12 12:41:12 | お話
🍀🍀人生🍀をどう生きるのか🌸🌸②


(🔹曽根綾子さん🔸鈴木秀子さんの対談🌸)


🔸いつか曽根さんがお話ししてくださった
幼稚園のシスター🌸の話、改めてお聞きしたいものですね。🎵

🔹私は幼稚園🏡の頃から人の生き方を教わったとよく言うんですけれども、

助修道女(じょしゅうどうじょ)と呼ばれるイギリス人🇬🇧のシスター🌸がいらしたんです。

高い教養🌸を持ちだけど、日本🇯🇵に来て掃除💨や洗濯☁、草取り🌱など、手✋を汚すの仕事🍀を志願してなさっていました。

幼稚園🏡を卒業🌸して
隣にある小学校🏫に入った時、

そのシスター🌸が相も変わらず縞(しま)のエプロンをかけて園の入り口を掃除💨💨していらっしゃる。

私たちは嬉しくて「シスター💕」と声をかけるけど、

返事もなさらなければ振り向きもされない。⚡

というのは、1年間という期限付きでの預かった以上、それ以上は子供たちを後追いしないんです。🎵

その後の人生🍀は自分とは関係がない。☀

私はこの姿に会社🏢を辞める時のあり方を教わりましたね。

会社🏢を辞めた以上、出入りはしない。

人事🌸のことも聞かない。

関心💕も持たない。

それをやろうとしないから皆大変なんです。😵

このようにすべてに限度があることを、
私は幼稚園🏡で教えていただきました。

🔸そのシスター🌸の姿勢を幼稚園の頃にキャッチ🗼できた曽根さんの感性も素晴らしいと思います。

🔹変なことだけ覚えているんですね。

ちゃんとしたことを覚えていない。

小説は、小なる説ですから、大説は分かっていない(笑)。😄

🔸それから、小学校🏫の頃にお母様が作文の手ほどきをされていたというお話も、とても印象🌸に残っています。

🔹ああ、職人芸を身につけさせてもらった話ね。

小学校🏫の6年間、母は私にみっちり作文📝を指導してくれました。

母は下手な俳句🌸や和歌🎵を作っていましたが、

面白い人で、

「あなたが将来結婚🌸して、

相手が働かなかったり、

博打をやったりする、ろくでもない男😈だったら、

食う困るだろう。☁☁

親子心中😫をしようと思う前に、

一度だけ、お金💰を無心する、すばらしい手紙✉をかけなきゃいけない。✊

もう一つは、

いい夫🍀に巡り合うには、いい恋文💕を書けなきゃいけない」(笑)。

それで作文📝教育🌸なのよ。

週一回の作文📝を書かされる代わりに、
私はピアノ🎵や踊り💃のお稽古は全て拒否しました。

母の指導は厳しかった⚡ですが、

そのおかげで、60年以上、この職人芸🌸でやってくることができました。

『遠来の客たち』で芥川賞👑候補になったのが23歳の時ですから。

落選はしましたが候補作に対して原稿料💰いただいたんです。

すぐに『新潮』と『群像』からオファー💕があって、

そこからですね、プロの物書き📝になったのは。


🔸そのように考えると、お母様🌸の存在はとても大きいもの🗻がありましたね。

🔹両親は不仲✂で、母も気の合わない夫と生涯一緒にいて、ずいぶん苦労しましたけど、

私はそういう教育🌸を受けたことは本当にありがたかった💓と思っています。

そういえば、私が60年以上小説📖を書き続けていると聞いた京都の西陣織の方が

「西陣🍁が必要としているのは曽根さんのような人です」

とおっしゃるんです。

「どうしてです」かと聞きましたら、

「60年以上、1つのことを貫いてやられる人✨」

だからだそうです。

伝統技術🌟の世界にも、そこまで長く辛抱できる人が
なかなかいらっしゃらないのかもしれませんね。☁☁


🔸今日の対談のテーマに関して言えば、それこそ人生🍀の要訣🌸とは言えませんか?

🔹そう思います。

現実🌸に人生で大切なのは継続☁☁であり辛抱✊です。

才能🌸は、そこそこでも、

それで何とかなる… 。


🔹今日は、私も改まって鈴木さんにお伺いしたことがあるんです。😄

私が高校🏫の頃、多くの友達がシスター🌸になることに憧れていました。

私は態度は悪いし、絶対に務まらないと思っていましたから😵願いませんでしたが、

鈴木さんは実際にシスター🌸におなりになって、それを全うなさったでしょう。☀

大変な時代⚡もあり、厳しい制約もあったと思いますが、

辞めたい😵と思われたことありませんでしたか。😄☀

🔸やめようとは思いませんでしたね。☀

🔹でも、大変な⚡⚡毎日でいらしたでしょ?

🔸覚えていらっしゃるかしら。

私が修道院⛪に入る前、曽根さんは私に1つアドバイス🎵をしてくださいました。

それは、

「特殊な世界だけに通用する言葉🍀を使っちゃいけない。✊

誰もがわかるような言葉🍀を使うように」

という、ひと言☀でした。

🔹全然覚えていませんでしたしたけど(笑)、

文章を書く立場から、おそらくそうのように申し上げたのでしょうね。😄


🔸私は最初、無言☁で労働する助修道女🌸になりたいと思っていたんです。

彼女たちは一切言葉🍀を発せず、朝から晩まで廊下や庭を掃いたり、

皆が食べた皿を洗ったり☁☁して、ニコニコ😊😊しながらブツブツ🎵🎵何かを言っているわけですね。

大学🏫に入った時、それが何かわかりませんでしたが、

友達が、

「あのシスター🌸たちは、このお皿で食べた人たちのために祈ったり💕、

廊下ですれ違った学生🌸のために祈ったりしている。

それが務めだ☀」

と教えてくれました。🎵

見知らぬ戦後の日本🇯🇵にやってきて、
貧しい生活をしながら絶対の沈黙🌸の中で、出会う一人ひとりを大切🍀にする。

そのことを喜び💕とする生き方が私にはとても新鮮✨でした。

🔹しかし、結局は助修道女🌸におなりにならなかったのね。

🔸厳しい労働✊をするには体力🌸が必要ですし、

「人にはそれぞれ立場🌸があって、

与えられたものを生かすように生きなければ意味🍀はない」

と言われたんです。🎵

そして修道院⛪に入ると、まず最初に、

「今日の午後アフリカ🌍に行きなさいと言われたら、

『はい🎵』って言ってすぐに行けるような気持ち💓で毎日☀を生きなさい」

と教えられました。🍀

🔹私が聖心女学院に入ってショック😵だったのは、そこなんです。

ドイツ🇩🇪やフランス🇫🇷などいろいろな国々🌍のシスターたちが日本🇯🇵の私たちの学校🏫にいらして、

家族🌸が亡くなろうが何があろうが、
二度と祖国に帰らないという覚悟✊をお決めになっていました。

全てを司るのは神様☀ですからね。

人事🌸など物事の表面上は
人間が動かしているように見えますが、

そこにも神☀のご意志が働いているんです。

だから、これは就職🌸ではなく
ボケーション、天職✨というべきね。

神☀のご命令💓によって働く。

実際、その頃のシスター🌸たちの休日は年に1回だけでした。😄

それに、当時の修道院⛪は絶対沈黙☁☁だったでしょう?

🔸でも、話さなきゃ話さないで楽なところもありました(笑)。

逆に沈黙というのは、相手のことがよく分かるんです。

🔹韜晦(とうかい)という言葉🍀がありますが、それとは反対に隠そうとしても本心💓は全て出てしまう。

まさに沈黙の怖さですね。😄

🔸沈黙というのは、ただ喋らないだけではありません。

まず動作の沈黙。

喋らない🎵代わりにジェスチャーで意思表示をすることすら禁じられていました。😵

食事🍴の時は皿の向こう側に目👀を向けて他に目を逸らしてはいけない。✊

しかし、それにも増して大変なのは頭🌀の沈黙でした。

黙っていても、頭の中は常におしゃべり🎵を続けています。

そういう時は、その日、「これ」と決めた『聖書』の言葉🍀を繰り返し唱えながら頭の中を掃除💨💨していくんです。

🔹私なんかまさに、黙っていても、頭🌀の中は考えづめ、お喋りしづめだわ。😄

そういう修行🌸が行われたのは、

バチカン公会議🏤が開かれて、修道院の方向性が大きく変わるまで⚡でしたね。

🔸ええ、ちょうど私が沈黙の行に入って8年目でした。😄

昔の風習のままに生きる🌸のではなく、

キリストの精神☀をどのように現代🌸に生かすか🎵というように方向が変わっていったんです。⚡

修道院⛪の仲間と話すようになりましたし、服装も全く変わりました。☁

普通の生活🌸になったわけで、神様☀や人々の幸せ💕のためになることを、

自ら考え🌀行動✊しなくてはいけないという意味🍀では、

昔のように規則🌸を守っている方が楽な部分もありました。😄

そうそう、その曽根さんはその頃、修道院⛪から1歩も外出したことなかった私のために、

戦後、生まれ変わった東京🗼🌇の街を案内してくださったことがありました。

🔹日本🇯🇵が大きく変わっていった現実🌸をしっかり見ていただきたかったんでしょう。

マッカーサービル🏢があった大手町の第一生命の当たりを一緒に見学しましたね。😄💕


(つづく)