🍀ほんとの「遊」🍀
🔹西澤、真民は遊行上人と言われた一遍上人の生き方を最後まで求め続けました。
『めぐりあいのふしぎ』という随筆にこういう文章があります。
私は遊行上人と言われた時宗の開祖一遍上にが好きで、
上人の生まれられた四国松山の宝厳寺の一隅に墓所を決めているのであるが、
遊行というのは、ただ諸国をめくり歩くことを言うのではない。
わたしは色紙などによく「遊」の字を書くのであるが、
これは観音経の中の
「娑婆(しゃば)世界に遊ぶ」
という言葉が好きだからである。
つまり観世音菩薩は、どこに遊ばれるかというと、
娑婆なのである。
天国でも極楽国でもない、
我々人間どものいる娑婆なのである。
わたしが観音経を好むものは、こういうところからである。
🔹横田、いい文章ですね。
観音様は人を救うんですけれども、それを直接的に言わず、
娑婆世界に遊び給うと書いている。
真剣でありながら、難しい顔をして歯を食いしばっているのではなく、
肩の力を抜いて、
それでいて本質を踏み外すことなく、
遊ぶが如く、楽しむが如く人々を導いていく。
それが観音様の説く「遊」だと思います。
(「致知」12月号 西澤さん横田さん対談より)
🔹西澤、真民は遊行上人と言われた一遍上人の生き方を最後まで求め続けました。
『めぐりあいのふしぎ』という随筆にこういう文章があります。
私は遊行上人と言われた時宗の開祖一遍上にが好きで、
上人の生まれられた四国松山の宝厳寺の一隅に墓所を決めているのであるが、
遊行というのは、ただ諸国をめくり歩くことを言うのではない。
わたしは色紙などによく「遊」の字を書くのであるが、
これは観音経の中の
「娑婆(しゃば)世界に遊ぶ」
という言葉が好きだからである。
つまり観世音菩薩は、どこに遊ばれるかというと、
娑婆なのである。
天国でも極楽国でもない、
我々人間どものいる娑婆なのである。
わたしが観音経を好むものは、こういうところからである。
🔹横田、いい文章ですね。
観音様は人を救うんですけれども、それを直接的に言わず、
娑婆世界に遊び給うと書いている。
真剣でありながら、難しい顔をして歯を食いしばっているのではなく、
肩の力を抜いて、
それでいて本質を踏み外すことなく、
遊ぶが如く、楽しむが如く人々を導いていく。
それが観音様の説く「遊」だと思います。
(「致知」12月号 西澤さん横田さん対談より)