🌸だれの言葉に耳を傾けるか🌸
(17年間の努力が実り、今年4月にメジャーデビューして以来、
レコチョク(国内最大級の音楽配信サイト)ランキングで
シングル「サクラ〜卒業できなかった君へ〜」が1位、
ミニアルバム「うた弁」が2位にランクインしたりと、
反響がすごいですね)
ありがとうございます。本当に感謝しかないですね。
(メジャーデビュー後、初となるワンマンライブも、販売開始から、わずか1分でチケットが完売したそうですね)
私自身が1番驚いています。よく、苦節17年とか、17年の下積み時代って言われるんですけど、
私は苦労したとも、これまでが下積みだったとも思っていないんです。
36歳のデビューまで、その時その時を精一杯やってきたので、
音楽を続けられたこと自体が本当に幸せです。
(そもそも歌手を志されたきっかけは何でしょうか?)
音楽をやる最初のきっかけは、高校の学園祭でDreams Come Trueの曲歌って優勝したことでした。
そこで1つの手応えは感じていたんですけど、歌手を目指そうとまでは思わず、受験勉強をして札幌大学に入りました。
ところが、そこでクラブで歌う相方を探しているという子に出会って、
大学1年の夏ごろからステージで歌い始めたんですね。
するとやっはり反響がすごくあって、
歌う喜びも感じられて、雷に打たれたように、「これだ‼︎」って思ったんです。
それで秋には大学を辞めて上京を決意しました。
衝動的ではありましたが、意志はとても固かったですね。
(ご両親は何と?)
私は昔から飽き性で、一途に物事に邁進したことがなかったので、父は大反対でした。
いくら説得しても懇願しても許してもらえなかったため、
半ば家出同然だったと思います。
伝手もお金もないので、パン屋の住み込みのバイトを見つけて、東京に出ました。
19歳のときの熱量って、すごいって自分でも思うんですけど、
当時は不安ゼロでした(笑)。
不思議なほど自信を持っていて、東京に出さえすれば、
一躍いろんなところからオファーが来て、
テレビにも出られるというような、安易でおめでたい考えでしたね。
(上京してからどんなことを心がけて活動されましたか?)
その頃は、何一つ心がけている事はなかったです(笑)。
東京に出てきて右も左もわからない上に、初めての一人暮らしだし、
週6回、朝から夕まで働いて、余ったパンを食べながら生活していたので、
もうほんとに必死で、日々生きるのに精一杯でした。
そんな中でも、どうしたら自分の歌を聴いてもらえるかを考えて、
タウンページでレコード会社を調べでは、デモテープをつくって持っていっていましたね。
(どのようにして道が開かれたのですか?)
何か抜け道みたいなものがあって、一気に開けたというよりも、
本当に一個一個の積み重ねだったと思います。
レコード会社に行っても、特に何か広がるということはなくて、
クラブにデモテープを持っていって歌わせてもらうことを繰り返していました。
その期間が大体6年くらいあって、
その後6年くらいはライブハウスで歌うようになりました。
その間、CDを出してあげるとお金をだまし取られたことや、
才能ないから辞めたほうがいい、などと心ない言葉を浴びせられたことも多々あったんです。
その影響で、私はすべての活動を1人でやるようになりました。
(全部1人でやる、というと?)
公演会場のブッキングから、ポスターやチラシの作成・配布、CD作成などですね。
チケットの販売や事務作業も全部自分でした。
2013年、32歳の時から全国各地のショッピングモールを回り始めて、
これまで200カ所以上行ったんですけど、これが大きな転機になりました。
ショッピングモールでの公演は、私の音楽を聴きにきたわけではなく、
たまたま買い物にきている家族だったり、
通りすがりの人たちの足を止めるというハードルがまずあり、
そういう方の心に私の曲を届けるにはどうしたらよいだろう。
どのようにポスターを貼って、どのタイミングでアナウンスをするのはいいか、
座席の配置は何がベストなのか。
そうしたことを一つひとつ計算しながらトライし、毎回試行錯誤していました。
(まさに路上ライブのような感じですね)
そうだと思います。ライブ後のサイン会では、皆さんいろんな思いを打ち明けてくれるので、
私自身の心のあり方や作る曲が変わるきっかけになりました。
というのも、上京当時の曲は自分の気持ちを歌ったものがほとんどでしたが、
お客さんの言葉を受け取ったり、言葉の裏にある思いを汲み取る力がついたことで、
自然と誰かの気持ちに寄り添うように曲を書くことが多くなりました。
そして最近、自分の弱みだと思っていたことが、実は強みだったと気づくことができました。
(どういうことですか?)
よくどこにも所属していないとメディアに出にくいとか、
販売網がないとか言われるんですけど、
私の場合、それが強みであり財産だったんです。
自分で直接やり取りするので、
一人ひとりの結びつきがすごく強くて、人一倍、応援をしていただけました。
(音楽業界では誰もが憧れる赤坂BLITZ(ブリッツ)という1,000人規模のライブ会場で、
2014年から3年連続でチケットを完売されていらっしゃいますね)
本当にありがたい限りですね。
赤坂BLITZでの公演を決めたのは、ある時、自分のプロフィールに書けることがないって気づいてしまったからでした。
別に何か賞をとったわけでも、オリコンに入ったわけでもないですし、
「心に響く歌声」とか書いても実際に聞かないとわからない。
プロフィールで目を引いてもらうってすごく難しいんですけど、
赤坂BLITZの名前があるとプロモーションになると思ったんです。
実際、1年前に会場を押さえて、「1年後に赤坂BLITZでやります!」ってチラシに大きく書いたら、
オファーの内容も格段に変わりました。
結果的に3年連続でチケットを完売でき、一回挑戦して終わりじゃなくて、
定期的に大きな会場でできる実力のある人なんだって思ってもらうことができました。
後は、出逢いに支えられたことが大きいですね。
(詳しくお聞かせ下さい)
笑福亭鶴瓶さんはラジオで私の曲を流してくれたりと心強い応援をしてくださっています。
実は鶴瓶さんとご縁をいただけたのは、
私が鶴瓶さんなら絶対に私の音楽に共感していただけると思って、
出逢えまで待ち続けたからでした。
今私のPVを作成してくださる半崎信朗さんも、Mr.ChildrenさんのPVを手がけるなど、第一線で活躍されている方なのですが、
絶対に半崎さんに私のPVをつくってほしいと強く思っていたので、その気持ちを直接伝えました。
同性などで親族かもしれないという気持ちもありました(笑)。
(他の人が簡単に真似できない行動力です)
断られたら傷つくし、なかなか行動できないって人が多いと思います。
でも、断られてもダメ元でいいんです。
私もうまくいかなかったことの方が多いんですけど、
失敗も含め、一つひとつが活動の肥やしになっています。
それに、私は自分自身と自分の曲を信じて疑ったことがなかったので、
それも活動を続ける上では大きかったかもしれませんね。
(自信をしなった事はない?)
もちろん挫折感を味わったことは数え切れませんし、
2014年まではバイトも続けていたので、
何とでこんなことをしているのかと虚しくなったこともあります。
でも、私は悔しさをバネにするタイプだったので、
傷つきはするんですけど、
むしろ「今度絶対に見返す!」と燃えていました。
それと、そんな中でも私の歌を泣きながら聴いてくれる人や、
応援してくれる人がいたことが支えで、
だからこそ自信をなくさず活動できました。
結局、誰の言葉に耳を傾けるかだと思うんです。
(誰の言葉に耳を傾けるか)
全員が全員、私の曲が好きになることはありえないので、
そこに振り回されるのではなく、
私に価値を見出してくれて、必要としてくれている人たちの言葉に耳を傾けることです。
それで、人生は全く変わってくると思います。
(創作活動を続けられる中で、思い出に残る曲はありますか?)
2015年にリリースした「明日へ向かう人」という曲は大きな出逢いであり転機でした。
あるショッピングモールで伊原さんという家族に出逢ったんです。
ライブ後に泣きながらCDを買いに来てくださって、
その後にお手紙もいただき、事故で大切な息子さんを亡くされていることを知りました。
そのお手紙をいただいてから、私は伊原さんご家族へ「明日へ向かう人」という曲を書いて、
1年間後にまた同じショッピングモールに行ったんです。
私から連絡の取りようがなかったんですけど、
伊原さんは見に来てくれてサイン会に1番に並んでくれたんです。
お互い手を取り合って泣きました。
(感動あふれるお話ですね)
私は音楽以外の事は溝(ドブ)に捨ててもいいと思ってこれまで生きてきたので、
周りの人もびっくりするくらい、音楽への熱量は一際(ひときわ)高かったと思います。
父も結局、私の本気度や努力を認めてくれ、
7、8年経った頃にはすごく応援してくれるようになりました。
音楽に人生を懸けると覚悟を決めたから、
多くの応援をいただけて今がある、
そう思っています。
私の願いは「自分よりも自分の歌が長生きすること」で、
教科書に自分の歌が乗ることが1つの夢です。
ですので、今年の春に、「お弁当ばこのうた〜あなたへのお手紙〜」がNHKの「みんなのうた」に選ばれたことはとても嬉しい事でした。
今後も人々の生活に根づいた音楽、
後世に歌い継がれるような歌をつくり、
出逢いや機会に感謝しながら活動を続けていきたいと思います。
(「致知」12月号 歌手 半崎美子さんより)
(17年間の努力が実り、今年4月にメジャーデビューして以来、
レコチョク(国内最大級の音楽配信サイト)ランキングで
シングル「サクラ〜卒業できなかった君へ〜」が1位、
ミニアルバム「うた弁」が2位にランクインしたりと、
反響がすごいですね)
ありがとうございます。本当に感謝しかないですね。
(メジャーデビュー後、初となるワンマンライブも、販売開始から、わずか1分でチケットが完売したそうですね)
私自身が1番驚いています。よく、苦節17年とか、17年の下積み時代って言われるんですけど、
私は苦労したとも、これまでが下積みだったとも思っていないんです。
36歳のデビューまで、その時その時を精一杯やってきたので、
音楽を続けられたこと自体が本当に幸せです。
(そもそも歌手を志されたきっかけは何でしょうか?)
音楽をやる最初のきっかけは、高校の学園祭でDreams Come Trueの曲歌って優勝したことでした。
そこで1つの手応えは感じていたんですけど、歌手を目指そうとまでは思わず、受験勉強をして札幌大学に入りました。
ところが、そこでクラブで歌う相方を探しているという子に出会って、
大学1年の夏ごろからステージで歌い始めたんですね。
するとやっはり反響がすごくあって、
歌う喜びも感じられて、雷に打たれたように、「これだ‼︎」って思ったんです。
それで秋には大学を辞めて上京を決意しました。
衝動的ではありましたが、意志はとても固かったですね。
(ご両親は何と?)
私は昔から飽き性で、一途に物事に邁進したことがなかったので、父は大反対でした。
いくら説得しても懇願しても許してもらえなかったため、
半ば家出同然だったと思います。
伝手もお金もないので、パン屋の住み込みのバイトを見つけて、東京に出ました。
19歳のときの熱量って、すごいって自分でも思うんですけど、
当時は不安ゼロでした(笑)。
不思議なほど自信を持っていて、東京に出さえすれば、
一躍いろんなところからオファーが来て、
テレビにも出られるというような、安易でおめでたい考えでしたね。
(上京してからどんなことを心がけて活動されましたか?)
その頃は、何一つ心がけている事はなかったです(笑)。
東京に出てきて右も左もわからない上に、初めての一人暮らしだし、
週6回、朝から夕まで働いて、余ったパンを食べながら生活していたので、
もうほんとに必死で、日々生きるのに精一杯でした。
そんな中でも、どうしたら自分の歌を聴いてもらえるかを考えて、
タウンページでレコード会社を調べでは、デモテープをつくって持っていっていましたね。
(どのようにして道が開かれたのですか?)
何か抜け道みたいなものがあって、一気に開けたというよりも、
本当に一個一個の積み重ねだったと思います。
レコード会社に行っても、特に何か広がるということはなくて、
クラブにデモテープを持っていって歌わせてもらうことを繰り返していました。
その期間が大体6年くらいあって、
その後6年くらいはライブハウスで歌うようになりました。
その間、CDを出してあげるとお金をだまし取られたことや、
才能ないから辞めたほうがいい、などと心ない言葉を浴びせられたことも多々あったんです。
その影響で、私はすべての活動を1人でやるようになりました。
(全部1人でやる、というと?)
公演会場のブッキングから、ポスターやチラシの作成・配布、CD作成などですね。
チケットの販売や事務作業も全部自分でした。
2013年、32歳の時から全国各地のショッピングモールを回り始めて、
これまで200カ所以上行ったんですけど、これが大きな転機になりました。
ショッピングモールでの公演は、私の音楽を聴きにきたわけではなく、
たまたま買い物にきている家族だったり、
通りすがりの人たちの足を止めるというハードルがまずあり、
そういう方の心に私の曲を届けるにはどうしたらよいだろう。
どのようにポスターを貼って、どのタイミングでアナウンスをするのはいいか、
座席の配置は何がベストなのか。
そうしたことを一つひとつ計算しながらトライし、毎回試行錯誤していました。
(まさに路上ライブのような感じですね)
そうだと思います。ライブ後のサイン会では、皆さんいろんな思いを打ち明けてくれるので、
私自身の心のあり方や作る曲が変わるきっかけになりました。
というのも、上京当時の曲は自分の気持ちを歌ったものがほとんどでしたが、
お客さんの言葉を受け取ったり、言葉の裏にある思いを汲み取る力がついたことで、
自然と誰かの気持ちに寄り添うように曲を書くことが多くなりました。
そして最近、自分の弱みだと思っていたことが、実は強みだったと気づくことができました。
(どういうことですか?)
よくどこにも所属していないとメディアに出にくいとか、
販売網がないとか言われるんですけど、
私の場合、それが強みであり財産だったんです。
自分で直接やり取りするので、
一人ひとりの結びつきがすごく強くて、人一倍、応援をしていただけました。
(音楽業界では誰もが憧れる赤坂BLITZ(ブリッツ)という1,000人規模のライブ会場で、
2014年から3年連続でチケットを完売されていらっしゃいますね)
本当にありがたい限りですね。
赤坂BLITZでの公演を決めたのは、ある時、自分のプロフィールに書けることがないって気づいてしまったからでした。
別に何か賞をとったわけでも、オリコンに入ったわけでもないですし、
「心に響く歌声」とか書いても実際に聞かないとわからない。
プロフィールで目を引いてもらうってすごく難しいんですけど、
赤坂BLITZの名前があるとプロモーションになると思ったんです。
実際、1年前に会場を押さえて、「1年後に赤坂BLITZでやります!」ってチラシに大きく書いたら、
オファーの内容も格段に変わりました。
結果的に3年連続でチケットを完売でき、一回挑戦して終わりじゃなくて、
定期的に大きな会場でできる実力のある人なんだって思ってもらうことができました。
後は、出逢いに支えられたことが大きいですね。
(詳しくお聞かせ下さい)
笑福亭鶴瓶さんはラジオで私の曲を流してくれたりと心強い応援をしてくださっています。
実は鶴瓶さんとご縁をいただけたのは、
私が鶴瓶さんなら絶対に私の音楽に共感していただけると思って、
出逢えまで待ち続けたからでした。
今私のPVを作成してくださる半崎信朗さんも、Mr.ChildrenさんのPVを手がけるなど、第一線で活躍されている方なのですが、
絶対に半崎さんに私のPVをつくってほしいと強く思っていたので、その気持ちを直接伝えました。
同性などで親族かもしれないという気持ちもありました(笑)。
(他の人が簡単に真似できない行動力です)
断られたら傷つくし、なかなか行動できないって人が多いと思います。
でも、断られてもダメ元でいいんです。
私もうまくいかなかったことの方が多いんですけど、
失敗も含め、一つひとつが活動の肥やしになっています。
それに、私は自分自身と自分の曲を信じて疑ったことがなかったので、
それも活動を続ける上では大きかったかもしれませんね。
(自信をしなった事はない?)
もちろん挫折感を味わったことは数え切れませんし、
2014年まではバイトも続けていたので、
何とでこんなことをしているのかと虚しくなったこともあります。
でも、私は悔しさをバネにするタイプだったので、
傷つきはするんですけど、
むしろ「今度絶対に見返す!」と燃えていました。
それと、そんな中でも私の歌を泣きながら聴いてくれる人や、
応援してくれる人がいたことが支えで、
だからこそ自信をなくさず活動できました。
結局、誰の言葉に耳を傾けるかだと思うんです。
(誰の言葉に耳を傾けるか)
全員が全員、私の曲が好きになることはありえないので、
そこに振り回されるのではなく、
私に価値を見出してくれて、必要としてくれている人たちの言葉に耳を傾けることです。
それで、人生は全く変わってくると思います。
(創作活動を続けられる中で、思い出に残る曲はありますか?)
2015年にリリースした「明日へ向かう人」という曲は大きな出逢いであり転機でした。
あるショッピングモールで伊原さんという家族に出逢ったんです。
ライブ後に泣きながらCDを買いに来てくださって、
その後にお手紙もいただき、事故で大切な息子さんを亡くされていることを知りました。
そのお手紙をいただいてから、私は伊原さんご家族へ「明日へ向かう人」という曲を書いて、
1年間後にまた同じショッピングモールに行ったんです。
私から連絡の取りようがなかったんですけど、
伊原さんは見に来てくれてサイン会に1番に並んでくれたんです。
お互い手を取り合って泣きました。
(感動あふれるお話ですね)
私は音楽以外の事は溝(ドブ)に捨ててもいいと思ってこれまで生きてきたので、
周りの人もびっくりするくらい、音楽への熱量は一際(ひときわ)高かったと思います。
父も結局、私の本気度や努力を認めてくれ、
7、8年経った頃にはすごく応援してくれるようになりました。
音楽に人生を懸けると覚悟を決めたから、
多くの応援をいただけて今がある、
そう思っています。
私の願いは「自分よりも自分の歌が長生きすること」で、
教科書に自分の歌が乗ることが1つの夢です。
ですので、今年の春に、「お弁当ばこのうた〜あなたへのお手紙〜」がNHKの「みんなのうた」に選ばれたことはとても嬉しい事でした。
今後も人々の生活に根づいた音楽、
後世に歌い継がれるような歌をつくり、
出逢いや機会に感謝しながら活動を続けていきたいと思います。
(「致知」12月号 歌手 半崎美子さんより)