私が35年以上肌身離さず持ち歩いています。しかしすでに暗記しているのでよむことはないのですが。。。表紙には”心経”の「祈願文と書いてあると思います。」
知る人ぞ知る伝説の宗教家”高橋信次”
高橋信次を絶賛する精神科医医師会誌の投稿である病院の院長で、比較的高齢の精神科医が高橋信次のことを絶賛していましたので、私は「彼はきっと信次先生に会ったことがあるに違いない!」と思いました。と言うのは高橋信次のことは会ったことのある人でないと決して分からないからです。私は去年の12月の医師会の忘年会では、その精神科医に会って高橋信次のことを話すのを楽しみにしていました。
そこで忘年会のときに早速彼と信次先生のいきさつを聞いたところ「自分はあった事はない。ただ彼の教えがとても素晴らしいと思ったので医師会誌に投稿しました」とのことでした。さすが一流のベテラン精神科医ともなるとその真髄が彼に会わなくても理解できたのでしょう。
誰も知らない私の真実すでに今年の1月に10万アクセス(すでに11万超えました)を超えていたので”祝10万アクセス”のタイトルで特別なことを書こうと思いつつ6月になってしまいました。しかし、1ヶ月に1回アップするかしないかの日記ブログにかくも多くの人がアクセスしてくれたことに感謝して、特別なことを頑張って書きたいと思います。
話の内容が奇妙で、正面から話すととても分かりにくい話ですので、きわめて簡略化したドキュメンタリー風に書きたいと思います
久しぶりの東京医局の人事で地方の病院に出向する前に数日の休日が取れたので、私は米子から伯備線に乗り岡山で新幹線に乗り換えて東京に向かった。まだ東京を離れてそんなに経ってはいなかったのであるが、久しぶりの東京のような気がした。山陰が田舎過ぎるのか東京が都会過ぎるのか何か大きなずれを感じる。それだけに新鮮だ。
私はいくつかの用事をした後、浅草の八起(やおき)ビルに向かった。当時のGLAの本部である。川崎の病院で働いていたときにGLAの研修会で友人になった友達がGLAの事務局で働いていたので、彼に会ってその後のGLAの様子などを聞こうと思ったのである。
八起ビルは信次先生が磁気テープを発明し大もうけしたてたビルと聞いていた。その会社のビルにGLAの東京本部があったのである。
予測しなかった信次先生との出会い私は友人に事前の連絡もしなかった。彼がいなければカセットテープでも買って帰るつもりでいた。彼は事務局にいた。彼は私の顔を見るとすぐに
「おい!信次先生が来ているぞ!といきなり私の腕をつかみ、彼のところに連れて行ったのである。
これは私にとってとても予測できないことであった。何故なら、信次先生は現在入院していて、周りでは「信次先生は自分の予言どおりに48歳で亡くなるのだろうかと」それぞれ心配し落胆していたのである。
私も早くから東北の霊友に「早く信次先生に直接会いなさい」と言われていたが、「私などが信次先生のお時間を割くには恐れ多い」と遠慮していた。今となってはもはや会うことができないと思い、会うことさえ意識していなかった。それが今目の前にいたのだ。亡くなる3ヶ月前の外泊中であったのである。
観自在菩薩の奇跡観自在菩薩とは過去未来現在を瞬時に見ることのできる人のことである。そして話さなくてもその人の心が見える人。信次先生はまさにそういう人であった。
彼は私が相談を持ちかける前に「患者の診療にもっと自信を持つこと」「教授のお気に入りだからしっかりやりなさい」と言って励ましてくれた。私は下手に宗教心が強かったので実は卒業後は患者の生死を自分が扱うことにとても緊張感を感じ苦しんでいた。無論多くの若い医師は多かれ少なかれそういうものだが、私はそれで少し鬱状態であったのだ。
信次先生はそれを自在に読み取り私しか知らない状況のことを話したのである。これには本当に驚いた。さらに彼は私の病気のことにも言及した。
彼は「あなたは急に心臓が打ち出すのですね!」と私に言った。そうなのだ私はWPWと言う心臓の伝導障害である。高校生のときから、1分間に60回くらいの脈が突然脈が160位になるのである。それは急にまた元に戻り、私は当時はそれで不自由を感じたことはなかっあので、それを誰にも言ったことはなかった。もちろん信次先生がそれをあらかじめ知っているはずも無い。
本当の「手当」ての意味昔の昔その昔、医者の治療は患部に手を当てるだけだった。手当てと言う言葉は本来そこから来ている。
信次先生は私の手をとり「どうですか感じるでしょ」と言いながら私の手のひらにパワー(ここではそう呼ぶことにします)を入れた。
私が「特に感じません」と言うと、少し頭をかしげながら、次に私の左胸を両手で挟みパワー入れた。相変わらず私は何も感じなかったが、何か引き去るような動作をして心臓と思われる手当てを終えた。
「左ひざも悪いね」と彼は言いながら私を応接台のほうに移動させ座らせた。再び彼の両手を私の左足の膝にしばらく当てた後、また両手を引き去るような感じで手を下に引き下ろした。だがしかし、このとき信次先生は応接台でひどく右手を打ってしまい申し訳なかった。
左膝そのとき症状は無かったのですが、大学生のとき大学構内で原チャリに乗っていて車と衝突してはねられ、身体が空を飛んだことがある。しかし中学生のとき体操部でマットの花と呼ばれており、アスファルトに落ちる直前で首を曲げ込み前方転回、東部打撲の難は逃れたが、回転は右足でも止まらず、次に利き足の左足で思い切り踏ん張ったが叶わず左膝を思いっきり打ってしまった。
激痛とともに「完全にパテラ(膝蓋骨)が割れたな」と思いつつ大学の救護室に顔が青くなって運ばれたことがあったのです。幸い骨折はありませんでしたが、このときの後遺症が残っている可能性は十分ありました。 続く・・・
農園の石楠花が咲きました。梅雨になる前の石楠花が好き!