統合医療日記

ここでの統合医療とは単に西洋医学と東洋医学の統合ではなく、病気を肉体と精神と社会及び自然環境の4視点から見ていきます。

神功皇后伝説その③日本の古代医学の謎を解く鎮懐石

2015-08-26 22:36:08 | 九州王朝

これは温泉水の自販機の横にいる掲示板に張っている説明書の一つです。


帆柱石郷土研究家で校長先生であった筒井氏が書いた古門の歴史書によると、熊井温泉近辺(古門)に神功皇后の軍艦の帆柱が石になった帆柱石というのがあったらしい。おおよそ10メーターなのでかなりでかい船だったことが分かります。後で述べるが神功皇后は石に関する話がとても多い。あるとき自販機の温泉水を汲みに来たお客がお腹にラジウム石らしきものを巻いていて、腕にも石のリングがあり、彼がこの文章を読んで「ラドン温泉なら神功皇后が出てきても可笑しくない」と家内に言ったとの事であります。私は神功皇后については良く知っているつもりでしたが、鎮懐石については恥ずかしくも知りませんでした。早速インターネットで神功皇后と石についてググリました。鎮懐石は月延石とも言って神功皇后が三韓征伐のときに石を腹に巻いて出産を遅らせ、勝利して韓国から帰り15ヵ月後に応神天皇を生んだという話です。首輪や腕輪は分かりますが、妊婦が何キロかの石を腹にまいて戦うことは考えられません。しかし身の回りか船室に石を置いていたことは十分考えられます。また神功皇后が神との交信にその石が必要だったからかもしれません。また妊婦である自分の精神的なイライラ等の体調を整えるために、自販機を汲みに来たお客が腹に巻いているような石を使っていたのかもしれません。彼はそのことを想像し、ここにはラドン温泉があるからラジウム石もあると考えたのでしょう。

脅威なる洞窟の石の力丁度その頃、長崎から漢方治療のためある患者さんが来ました。洞窟浴に泊まりたいと言うので、ムカデに噛まれても知りませんよというと「自分はテント一つで世界を回った」というので許可しました。「明朝色々検査しますが、あなた相当悪いと思いますよ」と予言して明日の朝診療することにしました。プライバシーのため詳しく書けませんが、何んと早朝の診察では、彼の症状および理学検査がすでに治っていたのです。これには患者も私も驚いたというところで取り合えず終わります。

 全身性尋常性乾癬そんなことで、温泉水を汲みに来た鎮懐石の男性と、他県からの患者さんの件と、インターネットの検索で、99才の母親の部屋に洞窟の石を3個持って行きました。と言うのは母親の足にあった尋常性乾癬が全身性となり、痒くてたまらず大学病院の皮膚科に入院させることにしていました。皮膚科学会で受診できず1週間後に受診の予定でしたが、石の効果を期待してラジウム放射線のできるだけ強いのを選りすぐり母親の周りに置きました。そしたら何んとか、ゆいかゆいと裸にまでなって訴えていた症状が消えたのです。1週間後には実際にかゆみも皮疹も改善しました。今では足に少し残して毎日の軟膏塗りも終了しました。









入院予定前に、全身に広がった尋常性乾癬、下の写真は1週間後


まず主病変の炎症が鎮火







せなかの赤みも取れる

ラドン洞窟の石を3個置いた1週間後の様子






なるべくラジウム放射線の強いのを選んで母親のベットの下におきました。


この強烈そうな石を部屋の真ん中に置きました。母親はこれを「お石様」と呼んでいます。>

お石(医師)様皮膚科医も専門医もダメ、もちろん私にも治せない。ステロイドも漢方もダメ。結局お石様が治してくれました。今でも主病変の足の皮膚炎はありますが、もはや全身にかゆみはありません。神功皇后は鎮懐石を身につけました。彼女の髪につけている櫛は石櫛です。薬石無効という言葉がありますが、それはクスリや石が効かないということです。この場合の石は石針です。古代医学では針灸の針は石針だったのです。要するに石には人間の気の流れを調節する力があるのです。薬と言えば皆さん飲みたがりますが、服薬という意味は薬を飲むことではありません。それは本来、薬を服につけるもしくは身に付けるという事なのです。漢字は紀元前に作られました。ですから紀元前の古代医学では薬石を身につけたり身の回りにおいて治療していたことから、服薬という言葉が生まれたと考えるのは不自然ではありません。

それでは次回最終章でグローバルな女王、神医、神功皇后が4世紀に滋賀、北部九州を中心に東は関東、西は帯方郡までを何故制覇することが出来たかを日本の古代医学の観点から述べてゆきたいと思います。





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神功皇后伝説その②神崎町と神崎神社

2015-08-16 23:32:36 | 語句の説明



お盆になり子供たちもふるさとに帰り、墓掃除と墓参り、家の祖先は浄土真宗と内村鑑三はのキリスタン。熊井家は秀吉の九州攻めにあい滅ぼされたキリスタン大名末裔。しかし祖父母は農業の関係もあって、「神を愛し人を愛し土を愛する」という内村鑑三の思想に感化されキリスト教になっています。


しかし私はどちらかと言うと今は神道に興味があります。何故かというと故郷鞍手が古代日本の伝説に満ち満ちているからです。この写真は古物神社の入り口にある猿田彦の看板石。猿田彦は天照大神の降臨に際してニニギノミコトを道案内した神様です。古物神社の祭神は天照大御神、日本武尊、仲哀天皇、スサノオの命、神功皇后、ミヤズ姫神、応神天皇、布留御魂神ですが、猿田彦の名前が至る所にあります。猿田彦は道案内の神様ですから全国に有るでしょうが、身体が大きくて天狗のように鼻が高く赤顔の猿のような様相だったということです。十氏族の末裔ではという想像はやや飛躍か?!
 また鞍手から3号線の赤間に出る山道の名が猿田峠といい古物神社の上の山を越えたところにあります。この古物神社はここ熊井温泉から500メートルくらいの近いところに有りますので、ちいさい頃からいつもここに行って、祈ったり相撲をしたりしていました。


1キロ先の神崎神社いつも古物神社行っていましたが、すぐ近くに神崎神社という神功皇后を祭っている神社があるのを知らず、65年目にして始めて訪れました。神崎町が神功皇后に関連した町であることは知っていましたが、ここもあらためて訪れました。と言ってもここは2回目ですが。いつも隣村なのによそ者が来た!という感じで町民に見られます。それほどここを訪れる歴史家もいませんし、町民も自分達の町に神宮皇后がいたという自覚はないようです。











まずは去年神崎町を訪れたときの紹介です。特に地元の人がお参りしている様子はありませんでしたが、比較的綺麗にしてありました。タイトルは皇母地蔵菩薩と書いてありました。反対読みなのでかなり古くからあったのでしょうが皇母が応神天皇の母、神功皇后であることは間違いありません。この時も神崎神社に行こうとしたのですが、結局分からず引き返したました。今年は地図を確認して神社の裏口から行くことにし、簡単に行くことができました。。














大体これが裏から入ったコースですが、神社の周りには大きな泉が二つもあります。中は鬱蒼としており少し不気味です。ふくろうが鳴いたときはびっくりしました。昔熊井農園でもふくろうやキツツキがいましたが、開墾していなくなりました。とにかく驚いたことは「広い!大きい!」に尽きます。古物神社よりはるか何倍も大きい。杉が茂っているので大きくは見えませんが、管理されていればとても大きいと思います。大昔は大神社であったに違いありません。まさに神功皇后を彷彿とさせます。しかし今では管理するものがいないらしく、古物神社の宮司が時々来るようです。

石を祭るどんな宗教も祭神というのがあります。キリスト教であればイエスかマリア。仏教であれば釈迦か観音様等々です。神道は色々ですが、古神道では太陽や月もしくは大木や石などの自然崇拝です。神崎神社も神功皇后、仲哀天皇、応神天皇等々書かれていました。しかし、周りに4つほどの祠がありましたが、みな石を祭っていました。あたりには無造作に古い石がたくさんありました。











不思議な文字or絵。?誰か読める人がいたら内容を教えてください


木月、上木月そして古月古神道ではほとんど自然崇拝であったのではないでしょうか。太陽と月と星と言えば占星術を思い残しますが、昔この神崎村の北に木月と上(神?)木月村があり、西に私達の古月村があるのです。月は陰陽で言えば陰を表し女性もしくは母をあらわします。太陽は文字通り陽で男性です。これから考えてもここ鞍手町の文明はきわめて古く、神功皇后がいたのはほぼ間違いありません。特に軍事地点の要所として神功皇后がいたのです。


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神宮皇后伝説、その①神功皇后上陸地点(古門、神崎説)

2015-08-03 00:53:50 | 九州王朝

福岡県鞍手郡鞍手町古門。熊井温泉のあるところです。地図は西暦3世紀ごろの地図で、クリックしてもらえば現在の地図に変わります。青の線は神功皇后が自分の軍艦から降りて掛津(かけず)を通り、古門を通り自分の在所神崎町に行った経路を描いています。神崎町の近くには大きな神崎神社があります。 神功皇后伝説 in 福岡福岡県には神功皇后にまつわる話がとても多い。私のふるさとの家すなわち熊井温泉から700メートルくらいの所に「梶屋ヶ崎」という地名があって神宮皇后専用の軍艦の梶を掛けていたと言われている。本来なら舵という漢字だろうが万葉集には梶という言葉が出てくる。梶掛けと言う言葉もある。昔は梶は木で作られていたので、軍艦が長期に停留する場合は、当時の精密機器の大事な梶は腐らないように船から外され、手入れされ何かに掛けられていたのではないかと考える。なぜ私が梶と掛けると言う言葉にこだわるかと言うと、この梶屋ヶ崎のある町全体は掛津(かけず)と言われていて、あたりが海だった頃は比較的深い海に突き出す半島のようになっていたのである。すなわち沢山の梶が掛けられた掛津と呼ばれていた半島には実に多くの軍艦が停留していたのではないかと考えている。    一方、熊井温泉のところ古門も「島内(しまうち)」と今でも呼ばれている(海が深い)。その南側は浪打(波内)とも呼ばれて、それより南は多くの貝塚地帯で遠浅になっている(海が浅い)。これに対して島内から東北側、すなわち梶屋ヶ崎側は深い海になり遠賀川河口や洞海湾出口(昔は)につながっている。私が考えるに、ここ掛津半島から神功皇后が三韓征伐(?)や熊襲征伐に旅立った可能性が極めて高いと思うのである。古門の北の虫生津から上陸したと言う説もあるが、虫と言うのは蟹のことで、渡り蟹が沢山生息していたと言うことであり、渡り蟹の生息水深は浅いのでここに軍艦が留められるはずはないと考える。また神功皇后在所からも遠い。
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