「鉄道王」の異名を持つ根津嘉一郎と根津記念館
万延元年(1860年)6月15日甲斐国山梨郡正徳寺村(現山梨県山梨市)の農家に生まれる。東山梨郡役所の書記、後に村会議員、村長を歴任。明治30年代には東京へ進出。東京では若尾逸平や雨宮敬次郎と知り合い、甲州財閥を形成。明治38年(1905年)には東武鉄道の社長に就任し、経営再建を行う。資本関係を持った鉄道会社は24社に及び、多くの会社において社長などに就任した。「社会から得た利益は社会に還元する義務がある」という信念のもと、教育事業も手がけ、大正11年(1922年)には旧制武蔵高等学校を創立する。特に山梨県下の全小学校へ200台にものぼるピアノ(後に根津ピアノと呼ばれる)やミシンを寄贈するなど、山梨県の教育文化振興に寄与した。山梨県名誉市民。根津記念館は根津家一族の【迎賓館】【地主経営の場】【居住】3つの空間として利用された大邸宅で、旧主屋や、三階建土蔵、長屋門は国の登録有形文化財指定。 (パンフレットより)
【長屋門】
青梅街道に面し、正面16間・側面3間あり、根津記念館の屋敷構えを構成する最大の付属屋で、昭和初期の社会情勢を反映した壮大な長屋門。
【旧主屋】
昭和8年に竣工。大地主根津家の地主経営の場を持つ近代和風建築。コンクリート布基礎、ボイラー設備、屋内消火栓の導入、電気配線の埋込など、当時の先端的な技術が盛り込まれている。
【土蔵】
木造三階建で高さ10.365m。三階建の土蔵は本地域でも珍しい。土蔵内では根津家に関する資料を展示する。
【大磯の松】
昭和8年に大磯(現神奈川県大磯町)にあった嘉一郎の別荘から移植された黒松。
【青山荘】
当時の図面をもとに復元された建物。根津翁の郷土山梨での迎賓館の機能を有していた。茶室『燕子花』や和室は利用ができる。
【展示棟『八蔵』】
『旧第八倉庫』の外観と内装を再現した展示棟。常設展示・企画展示室があり、「根津嘉一郎を想い、学び、そして次代に継承する」をテーマに根津嘉一郎の生涯をパネルで紹介している。
鏑矢・・・上棟式の際に邪を祓う縁起物として使用された。絵は棟梁が描いたもので、裏には「昭和8年2月11日」「建築主 根津啓吉」と記されている。
昇仙峡
昭和28年に国の特別名勝に指定されている。天気があやしくなってきたので・・急いで移動
羅漢寺縁起
当時は、開基八百余年を経ており、かつて羅漢寺山の中腹にあり花崗岩による雄大な渓谷美の中、北山筋の高野山と称され、往時の数多くの末寺を持つ真言宗の名刹でした。
羅漢峰と呼ばれる峰々は頂上に天狗与三郎権現を祀り原始的山岳信仰と仏教の密教的要素がまじりあった修験道の世界として有名になっていったと思われる。
羅漢寺山を三岳と号し、一の丘に阿弥陀、二の丘に釈迦、三の丘に薬師を祀る小堂を建て、山全体が修業の場であったと伝えられている。
昇仙峡という神秘的な立地にある羅漢寺は、その拠点となる修験道場であり、いくつかの銅の後は現在も残っていたが慶安四年(1651)の火災で焼失し、現在の地に移ったと言われている。旧寺院跡は現在の地より北西1キロほど山間に進んだ急峻な谷間に位置し、本堂も庫裏も立派な建物であったことが跡からも推測できます。
人里隔てた深山幽僻は、中国の仙嶺天台山に似ていることから天台山羅漢寺を三号として現在に至った。
開創はつまびらかではないが、古い位牌(1200年頃)に「権大納言征夷大将軍清和源頼朝入道神儀」とあり、開基としています。
「甲斐国社記・寺記」によれば、創建年代は不明ですが、開祖は天台座主(てんだいざす)・有金僧都(そうず)、大永年中(1520年頃)に俊屋桂彦和尚が中興開山として曹洞宗に改めたとしています。
当時は山中で田園が無い事から、武田信玄より托鉢することを許されて印鑑の頭陀枡(ずだます)を与えられ、人々も羅漢頭陀と称して施すものが多くあり、特別の檀徒を持たず多くの人の信仰と土地の住民に支えられてきた。
現在は、羅漢寺檀家による手厚い信仰により、羅漢寺及び五百羅漢像の保存がなされている。
当寺に安置されている五百羅漢は日本最古の木造の羅漢像で全て一本造りで、当初は彩色が施されており、弘法大師(775~835)の作と伝えられています。
羅漢寺の隆盛時には、三ケ所に安置されていましたが、火災や台風の出水、老朽により、現在は百五十四体が羅漢堂に奉安されている。