『空也上人がいた』山田太一著 を読んで来たかったところ。
六波羅蜜寺は空也上人の創建になる。 平安時代中期のことである。
寺伝によれば空也上人は醍醐天皇(在位897~930)の第二皇子として生まれたが、これにも諸説があり、また上人は父母のことも郷里のこともいっさい口にしなかったというから、確かなことは分からない。ただ若いころから優婆塞として諸国をめぐって苦修錬行しながら、道を直し、川に橋をかけ、野に捨てられた屍があれば阿弥陀仏を称名して供養するという生活をしていたらしい。21歳のころ、尾張国分寺にて出家し、この時以来、『沙弥空也』と自ら名乗り、生涯変わることがなかった。
出家の後も奥州や四国などで自らの修行と民の教化を重ねた空也上人は、天慶元年(938)、京に上った。ここでもまた、道を修復し、橋を造り、井戸を掘りながら、病人や貧者に施しをなし、さらに都の市に立って称名念仏を説いた。その姿は、粗末な衣を身にまとい、左手を鹿角をかぶせた杖を持ち、右手に撞木を持って、胸に下げた鉦を打ちながら阿弥陀仏の名号を唱える空也上人立像に、見事に写し出されている。これもまた、踊躍念仏のありさまを伝えてもいる。都人は、そんな空也上人を『市聖』とか『阿弥陀聖』と呼んで敬慕したという。
空也上人が市の門に書き付けたという歌が「拾遺和歌集」に残されている。
ひとたびも南無阿弥陀仏といふ人の蓮の上にのぼらぬはなし
現在の本堂は1969(昭和44)年に解体修理されたもので、その時には、創建当時のものとおもわれる梵字などが書かれている瓦や、『今昔物語集』などにもしるされている多数の泥塔などが出土しました。
六波羅蜜寺は、源平両氏の興亡、北条・足利とつづく時代に、戦争による火災によって、本堂以外は焼けてしまった。
貴重な文化財も多く、平安・鎌倉期の美術品の宝庫ともいわれています。重要文化財に指定されている空也上人立像は運慶の四男、康勝の作です。左手に鹿の角のつえをつき、念仏をとなえる口からは、六体の阿弥陀仏が姿をあらわしています。
空也上人立像の足の指に感動しましたが、清盛座像の玉眼をはめた目に圧倒されます。なんで重要文化財にならないのかと思ってしまうほどです。
丸久 小山園 西洞院店
当店が丸久 小山園さんの抹茶を販売しているので、ここのお店に行ってみたかったんです。