今日のテーマは、幸せに生きることを、邪魔をしているのは、誰なのか?です。それは、自分の心です。多くの方は、自分が幸せに生きられないのを、周りのせい、他人のせいだと思っています。それは、私も完全に否定はしませんが、やはり、自分以外の何者でもありません。他人のせいにした方が楽です。あいつのせいだ、こいつのせいだと、勝手に妄想しているのが私たちの心です。ここでいう幸せに生きるとは、自分の思い描いたとおりの生き方、ストレスのない生き方です。でも、これも、妄想です。そんな人生などありません。でも、本当に辛いなら、試してみてください、よく、他人を変えることは出来ないと言われますが、争うことを覚悟で、自分の思いをぶつけてみると、案外、上手くいくこともあります。もちろん、相手を怒らせ、嫌われる可能性が高いですが、嫌な相手に気に入られたらそれこそ悲劇です。どんどん、相手のペースで生きなければならなくなります。相手の本心は、自分が思っていたのとはまったく違っていたりします。そもそも、相手の気持ちは、見えないのですから、自分の想像でしかありません。自分の人生を、他人との争いごとをさけ、周りに気をつかい、自分が我慢して生きるのは、もったいないです。私の人生には限りがあるのです。一秒たりとも、無駄には出来ません。自分の人生を生きましょう、他人に合わせる生き方は今すぐやめましょう。人生は短いものです、周りや他人に邪魔をされ、無駄な時間を過ごしている暇などないはずです。
今日は、猛暑ではなく、涼しい一日でした。今日は、久しぶりに秋ミョウガをとりました。夏ミョウガに比べて、太いのが特徴です。でも、私的には、涼しくなるのはありがたいのですが、精神的には、夏の方が調子が良いのです。季節の変わり目は、どうも、精神的に不安定になるのです。特に、秋から冬へと変わる季節が一番苦手です。そんな時は、出来るだけ、身体を動かすことにしています。一番身近で、手軽なのが、掃除です。ほんとは、山に行くのが一番良いのですが、毎日、行くわけにはいきません。
さて、誠実な人、真面目な人、優しい人、仏様のような人と言われる方は、世の中にはたくさんいらっしゃいます。日本人は、特に多いのです。私は、ご葬儀をご依頼をされた際、ご法名の字を選ぶ際、ご家族にお聞きしますと、誠実な方、真面目な方、家族想いの方、自分を犠牲にしてまでも、家族に尽くしてくれた、大事にしてくれた、そういうお人柄をお聞きします。そういうお人柄だったからこそ、今の時代、葬儀をされない方が多い中でも、通夜・葬儀を勤めてあげたいと家族は思うと思います。浄土真宗では、救われる条件はありません、生き方は問われません。誠実な人になるべき、真面目にはたらくべき、親孝行すべき、良いことをすべき、悪いことはしてはいけない、嘘をついてはいけない。この〇〇すべきという事を、守れる方は救うという教えではないのです。真面目に生きたいけれど、出来ない、誠実に生きたいけど、出来ない。良いことをして、悪いことをしたくないけど出来ない。親孝行したいけど、出来ない。世の為、人の為に、役に立つ人間になりたいけどなれない。人に迷惑かけたくないけど、かけてしまう。そんな人間を、救いの目当てとしているのが、阿弥陀如来です。私は、昨日が誕生日でしたので、55歳になりました。私は、若いころ、思っていました。大人というのは、立派で誠実で、なんでも知っていている、わがままを言ったりしない。ところが、自分が、大人に成ってみたら、まったく、そうなっていないのです。相変わらず、思い通りにならないと腹が立ち、思いがけないことが起こると、あたふたして、冷静でいられない。プライドばかりは高いのに、少しのことで、悩み不安になり、心療内科に通う。こんなんで、よく、僧侶がつとまるなと思うのですが、何故か、つとまっています。たぶん、この先、60代、70代になっても、成長していない可能性が高いです。阿弥陀如来の前では、大人も子供も僧侶も同じ、救いたい、幸せになって欲しいと願われている存在です。日本人は、幸せを感じていない方が多いそうです。日本という国は、住みやすいし、誠に有難い国です。でも、何故か、幸福度は低いとの調査がよく紹介されています。皆さん、忘れないでください、私たちは、限りある時間を生きていることを、明日も生きている保証はないのです。思い出してください、今、この時も、愛する方とお別れをしている方が世の中には、たくさんいらっしゃいます。当たり前の反対は有難いです。今日も一日、感謝してお休みになってください。その積み重ねが、幸せな人生へと繋がっていくと思います。
皆さまの心❤️震える毎日を願っております。
昨日、毎月の税理士さんと会計担当の妻との打ち合わせが、法話会の後、ありました。私は、会計は妻に任せているので、立ち合いませんでしたが、今年の8月は、法徳寺では、過去最高益を更新したそうで、大変、有難いことです。私としては、どうりで、忙しい訳だと思いました。ここで、住職としては、喜んでいいのか、悲しんでいいのか、悩むところでもあります。お寺が忙しいということは、葬儀が多かった、亡くなった方が多かったということです。だから、私は、忙しいことは、嬉しいことではないのです。嬉しいよりも、自分の体調を万全にし、しっかりと勤めないといけないと緊張するのです。お布施を頂くのは、お寺を維持し、良い環境を整えるために使わせて頂いております。お盆が終わった後も、お寺の塀の耐震工事を頂いた浄財で出来ました。本当に、有難いことです。もし、歩行者や近隣の方々にケガをさせてしまったら、大変なことになるため、工事を行いました。私が住職になるとき、今後一切の寄付金は求めない経営をすると決めています。お布施は、宗教法人への収入いわば、会社のお金です。住職のポケットマネーではありませんので、どうか、お間違いのないようにしてください。頂いたお布施は、私のお金ではないのです。お預かりしたお布施を、私が自分のポケットマネーにしたら、横領になります。お布施は、すべて、お寺の為に使わせて頂いております。私の給料は、お寺から、毎月、一定額、頂いております、そこから、ちゃんと納税義務もはたしております。お寺の住職は、経営者でもあります。お寺をどう経営していくか、それは、住職が全責任を負っています。住職になって12年、私は、いつも、考えています。どうしたら、必要とされるお寺になれるかです。でも、思い出しました、私の先生から、「住職として頑張るのはいいが、阿弥陀如来様の邪魔はするなよ」と言われたのを思い出しました。経営者の前に宗教者でなくてはいけない、阿弥陀如来の救いを正確にお伝えすれば、お金は自然とついてくるものです。しかし、もう一人のご住職が発言されたのは、門信徒の方々が一番、知りたがっているのは、浄土真宗の教義よりも、お寺とお付き合いするといくらかかるかです。これを、明瞭にしないといくら素晴らしい教義でも、門信徒さんは、増えません。例えば、皆さん、いくらかかるか、分からない、工事をお願い出来ますか?と、どんな工事でも、見積もりをみないことには、不安でお願いなど出来ません。私は、その発言を聞いて、目が覚める思いが致しました。多くの僧侶が出席されていた会議の中での発言でした。私は、その住職に、拍手を送りたかったのですが、みんな、その後、口にを閉ざしたままでした。