南無阿弥陀仏の南無は任せよ、阿弥陀仏は、本願成就をあらわしております。阿弥陀仏とは名前ではなく、既に法蔵菩薩はご修行を終えられ、救いは完成したことを示しています。南無阿弥陀仏は、法蔵菩薩が、阿弥陀仏となって、あなたをそのまま救うとはたらき、私に告げてくださるのであります。お寺というのは各宗派によって、存在理由があるのです。浄土真宗は先祖供養の場ではないのです。阿弥陀如来のはたらきを皆さんにお伝えすることが、第一の存在理由であります。考えてみると、今、私たちは人間に生まれることができました。そして日本という大変素晴らしい国に生まれることができました、そして、親鸞聖人の残してくださった教えに出会うことができる時代に生まれることができたのです。このチャンスを逃しても、また次があるだろうと思ってはなりません。もう次はありません。私は、少なくとも、次の生には、また人間に生まれることはできません。たとえ、人間に生まれても日本に生まれることができるかどうかはわかりません。そして、親鸞聖人に出会うことができるかどうかもわかりません。私にとっては、この人生は、阿弥陀如来に出会えるラストチャンスであります。この人間に、生まれた本当の目的を、皆さんにお伝えするのが、浄土真宗のお寺の住職の最大の勤めであります。それ以上の勤めは何もないのでございます。どんなにお寺が、大きくても、立派でも、南無阿弥陀仏の救いを伝えてなかったら、浄土真宗のお寺の存在意義は無いのであります。本願寺 第8代目の蓮如上人は、浄土真宗を日本の各地に伝えてくださった大きな功績がございます。法徳寺も約500年前にこの地に誕生いたしました。ちょうど蓮如上人の時代に重なります。私は若い頃、蓮如上人のおかげで、浄土真宗の教えが多くの方に広まったと教えられましたけれども、正確には、浄土真宗の教えを正確に皆さんに伝えたからこそ、広まったのであります。浄土真宗のお寺の存在意義と言うものをはっきりと、されたのであります。それは、先祖供養ではなく、南無阿弥陀仏の本当の救いを聞いて、生きておる者が仏とならせていただく救いを解かれたのであります。お寺は、死んでから用事があるところではないと言うことを、はっきりとされたのであります。