Wake Up !

一人のヒーラーさんとの出会いから、私の世界が変わっていきました。

2008年5月津軽十三湊と十和田湖

2011-05-24 21:47:34 | 神社 エネルギースッポトを巡る旅

2月のある日、津軽の十三湊と十和田湖へ5月に行くと連絡が来た。その周辺の神社と安東氏の事を調べて欲しいと言われた。

偽書扱いされている東流外三郡誌によると室町時代に貿易で繁栄してた安東氏の十三湊は一晩の大津波で消滅し、その後南部氏に追われ蝦夷に逃れたとある。結局神社と言うよりも、アラハバキの神の遺跡と安東氏の城跡めぐりになった。

東流外三郡誌によると義経一行が1週間位滞在したと書いて有るらしい。ノワタリさんが数年前一人で北海道を旅された時、義経神社と言う所がありアイヌの人達にいろんな事を教え、感謝され祀られたと言うことを聞いた。そんな事もあり私はそれを信じている。知り合いの中村さんのご主人はジンギスカン=義経を信じたいと言っていた。源義経の音読みがジンギスに似てるからと言う。でもちょっと苦しい。

ノワタリさんが選ばれたのは安東氏にゆかりのある神社ばかりで、そのうち2つは落城後に神明社として今は天照大神が祀られている。

2月中に計画をたてチケットを取り宿を予約したが、私の首はとても頭が重たくて苦しい。着せ替え人形のようにスポット体から首を外し、横に頭を置きたいと思うくらい重かった。

その事をノワタリさんに告げると、「あら~!憑いてる。首を切られているわ。それも普通の斬り方じゃないみたい。」と言われ、祓って頂いた。下調べしている内に憑いたらしい。その2,3日後、偶然NHKの「その時歴史は動いた」で藤原経清が首をのこぎり引きされた事を知った。安東氏にゆかりのある人からだろうか?

5月16日に私は上京し、翌日ノワタリさんとハヤシさんと三人で青森へ向かった。今回もまたの中の雑誌に洞爺湖が出ていて、「あ!此処へ行くみたいですよ。」とノワタリさんが言われた。それは9月だと言う。

今回もで出発、しかし、私の運転なので心もとない。高速を降りると、りんごの花が白く咲き、田植えの真っ盛りみたいだった。危惧した通り、亀ヶ岡遺跡になかなかたどり着けず、つがる市縄文土器展示資料館へ行ってしまった。駐車場で気付き外へ出た途端、「ねえ~、誰かしら赤いほっぺのおかっぱ頭のちゃんちゃんこを着た女の子がニコニコ笑って走って来たわ。待っているみたいよ。」と言ったが、誰も思いつかない。後で正体は分かるのだが…

町外れのコンビニで休憩をし、お清め用の水や酒、塩と菓子を幾つか買った。

そのうちに出会うことも余り無くなりナビに遺跡が出てきた。其処でもまた間違い資料館のような所へ行ってしまった。やっと亀ヶ岡遺跡に付いた時は、子供達が大きな射光器土偶の前でのんびり遊んでいた。まるで宇宙服を着ているみたいと言うのが感想。

その後ひたすら十三湊へむけて走るが確かメロンロードと書いてあり道路沿いにはビニールハウスが並んでいた。もうはまったくいない。スピードを出しそうになるがこんな所でネズミ捕りをしているのではと思い慎重に走った。やっと日本海が見え出し、もう近いと思ったら安心した。土地勘の無い道は不安だった。

 

中ノ島の橋を渡、資料館でその当時の町並み地図や出土品、その後の安東氏の事が書いてあるのを見た。もう当時の面影は全く無く物悲しい。

近くのお店で昼食にうに丼とシジミ汁を頂いた。客は私達だけだったが、とても美味しくおまけに安く2千円しなかった。

まず最初に近くの荒磯神社にお参りした後、神明社へ向かった。

 

神明社 市浦村相内

この神社は福島城址の鬼門にあたる事から館神として祀られ、古代安日彦、長髄彦の遺骸を再葬した墓地でアラハバキ神社とか長髄彦神社とか言われていたらしい。その後」安倍神社となり福島城と共に焼き討ちされたが、後年神明社となったと調べたら書いてあった。変った石が祀られロウソク立が有ったがその墓の名残だろうか?私達は鳥居から清めて行き、祝詞をあげ、ノワタリさんは歌われた。とても静かだった。

 福島城址

山王坊遺跡

福島城址、今は日吉神社となっている山王坊遺跡を順序は前後しているかもしれないが周った。

 その神社でさっきの赤いほっぺの女の子の正体がわかった。かわいいお地蔵様だった。ジュースの他菓子やお饅頭を一つ、一つ供えた。

その神社は広くて大きく杉の林の中にあった。お社を清め、私達は祝詞を上げ、ノワタリさんは歌われた後、社殿の後ろに小さな祠があり、幾つかの男性の人形が中にあった。武者であったり、公家風の着物であったりしたが、お顔は厳しかった。

お地蔵さんの所まで帰ってくると、お供えは菓子くず一つ無く、跡形も無く無くなっていた。箱の紙の上においていたのが、紙はちっとも汚れてなく、カラスに荒らされたのではない。ジュースもひっくり返ってはいない。不思議だ。喜んでいただいたのなら良いことだとみんなで話した。

その後、唐川城址の展望台に行こうとしたが、お水にお酒が切れてしまい、あちこち探すが、目にするのはべこばかり...私達は集落の反対に出てしまい店が無い。やっとお酒を手に入れたのは道の駅で土産用の地酒であった。

唐川城址展望台より

唐川城址の東屋では先客がいて、地元のおじさん二人が東屋でのんびりとを酌み交わしていた。そして中年の夫婦が来たが、その人達はすぐに立ち去った。とても眺望が良いし、何故か懐かしく落ち着く感じがした。こんな所で戦があったのかと…

その事を話すと、「あ!今槍を担いで前を通り過ぎるたわ。あれ、あなたよ。」と言われた。又、私の前世は戦場で戦っている。綺麗なドレスも優雅な着物姿も現れてこないし、浮かばない。たぶん、今回も敗れた方だと思う。

「安倍安藤氏」と彫ってある石碑の前に立ち撮ろうとしたら、ノワタリさんは「ここで自害してるわ。」と言われた。叔父さん達に「此処をお清めします。」とお断りしてその周辺と東屋を清め、歌われた。

「今日は霞んで見えないけど、あの方向に岩木山が見えるんだ。」と指差しながら、叔父さん達はいろいろと説明してくれた。

ノワタリさんは「あの人達が静にあそこでを飲んで話す事が本当の慰めだよね。」と言われた。もっとその場に居たかったが、小泊まで行かないといけないので、出発した。でも、叔父さん達は軽トラに乗って来ていた。「また、あれに乗ってかえるのかな~。」とみんなで笑いながら話した。

安東氏が南部氏に攻められ、最後の城がこれから行く柴崎城址だ。日本海の濃い海の色と荒波を見ながら、走っていくとがあった。雄乃湯温泉だと言う。もう大分日も傾いてきたので急がねばならない。

やっと小泊港に着き神社を探し、ずっと港の端まで走った。其処はひなびた漁村の風景だった。を降りると、磯野の匂いとイカを干していたり、民宿の看板が見えた。この集落では外で仕事をしているおじいちゃんやおばあちゃんの姿があった。何処も漁村は年配者が多い。

此処も神明社だった。鳥居の前にをおき石段を上って、家々の裏を通り、細い山道を進むと又、鳥居があったのでもうすぐだろうと思ったが全くそれらしきものは無い。おまけに街灯もなく、港の方でなく日本海側に出て来たとき、ノワタリさんが立ち止まり「残念だけどもうここで帰りましょう。これ以上進むと危ないと言っているから。」と言われ、お社まで行かず引き返す事にした。たぶん5時半頃になっていたのではと思う。

私の運転でもたもたした事が残念だ。お水やお酒を撒きながら降りた。鳥居を出た途端、空気が変り幾分ほっとした。落城した所はやはりきびしい。

私達はその夜の宿である弘前目指して339号線を走った。


2008年1月霧島 日向 Ⅱ

2011-05-22 15:07:02 | 神社 エネルギースッポトを巡る旅

狭野神社外拝殿

二の鳥居より

翌朝、妹に迎えに来て貰いまず最初に今年火山灰で被害を被った高原町の狭野神社へお参りしした。

国道横の案内版に従い駐車場に入り参道の途中から境内に入ったが、境内はとても広い。小雨の中清として気持ちよい。杉並木の参道を進むとどっしりと落ち着いたお社があった。神武天皇の幼名にちなんで狭野神社と言われると言う。拝殿でご挨拶すると、中で御祈祷を受けておられる一行がいた。邪魔をしないよう静かにした。

それから宮崎市内を通り越して日向に向かったが道は単調で長い。運手している妹以外は

やっと日向市内に入り大きな「大御神社」の案内板を目にすると、みんなシャキッとして張り切った。

 

柱状節理

大御神社の拝殿にお参りした後、私達はそれぞれ岩場や砂浜に降りてお清めをした。その間ノワタリさんは祈られ歌われていた。寒いのに最後には海の中に入られていた。とても波は荒く岩場に打ちつけしぶきを上げていたが、良く見ると遠くに頭のような物が見える。サーフィンをしているらしかった。

さざれ石 神座 ニニギノ命がこの上から海を眺められたと言う。

この神社の社後の柱状の岩やさざれ石と変った形状の岩が多かったが、昔この場が浅瀬で川が運んできた石が粘土や砂に混じり大きな石になったのがさざれ石で火砕流と礫岩の上に堆積下のが柱状節理だと調べると書いてあった。

ここもとても良い気が満ちていたと思う。

神社前のお店に入り、昼食を取った。若いご夫婦がされていて、サーファーの人たちが来る店らしく、アメリカの古着が山積みされ売られていた。

その後は西都市の方に入り佐土原の巨田神社へ向かった。

巨田神社は静かな田園の中にあり、社務所も無く、前に集会所のような所が在って氏子さん達が守っておられるような所だった。ご祭神様は天太玉命、魂誉田別命、大帯姫命とだった。

私達はそこでもお清めしてノワタリさんは歌われると、境内が明るくなった。

初めて、金比羅さんでノワタリさんにお会いした時、「あちらこちらの神社のお清めをしています。」と言う言葉を実感した。その時はお清めという言葉を清掃して周られていると言う風にとり、何と奇特な人だと思ったが

そこで今回は終了。宮崎空港に戻り、妹家族と夕飯を取りその後お茶を飲んでいると、信長ファンのハヤシさんに「ゆうべ夜中に髪の長い女の人があなたの体から起きてきたの。信長の側室だったみたいね。でも喉に傷もないし、自害はせず、尼さんにでもなったのね。」と言われた。

信長が大好きなハヤシさんは大喜びだった。

そこでお別れして、私は妹宅で休憩し、真夜中の日豊線でに乗り朝帰宅した。

 

 


2008年1月霧島、日向

2011-05-21 14:47:13 | 神社 エネルギースッポトを巡る旅

この年、1月に霧島、日向、5月津軽と十和田湖、7月ローマ、フィレンチェ,9月洞爺湖周辺、11月千葉、富士山、江ノ島と周った。前年よりは少し少なくなった。早めに予定が分かったので計画をたてたり、チケットの手配は大分助かった。

大浪池と韓国岳

今年新燃岳が噴火した。そのニュースを耳にした時、この旅の事を思い出した。

新燃岳に大浪池も霧島も狭野神社も近い。

前回の2004年は大浪池のお浪さんに呼ばれ行く事になったが、2008年の1月も大浪池、高千穂河原、霧島神宮、狭野神社、巨田神社と後がその時点で不明だった。幾つかの宮崎市周辺の神社と霧島周辺に掛けて調べて送ったが、その中には無かった。

19日の朝、宮崎空港へ迎えに妹と行った時、ノワタリさんと林さんはの中の雑誌に出ていた「宮崎のお伊勢さんと呼ばれる大御神社」の写真を私達に見せて、「此処にも行かねばなりません。」と言われたが、霧島とは全く方向が逆である。

前回、大浪池に来た時は登りは道が雪が氷っていて滑らずに歩くのに往生した。しかも視界は悪く雪と霧で池に降りる道も分らず、ただ池の周辺を右往左往しやっと、お供え物を背中に背負い、命がけで木の根に掴りながら沢伝いに下り、頭は霧氷状態でパリパリ、靴は濡れてグショグショになった。

今回は気の抜けるほど、あっさりと池の見える所まで登り、池の側まで降りる道も簡単に降りれた。手分けしてみんなで清め、ノワタリさんが歌いながら祈ると、池の水面に大きな龍の体のような影が現れた。その日は曇り空で山影などは写るはずは無かった。

大浪池近くより

みんなでその影を見ながら、不思議だねと言い合った。

古宮址

その後、高千穂河原の古宮址でノワタリさんが祈られた。ここは今でも天孫降臨神火祭が行われるそうである。しかし、参拝者は少なく私達が鳥居をくぐる時に一組、祈りを終えて石段を降りる時に一組が来たくらいである。おじいちゃんん一人がやっている売店で軽い食事を取ると、みやげ物以外に軍手やロープがるのを目にした。これは登山者が買っていくそうである。

霧島神宮展望台より

霧島神宮の駐車場に着いた時はもう3時を過ぎていた。それでも正月月参拝者は先の古宮址と違って多く、きらびやかであった。お参り後、参道沿いのお店に入り、菓子を買い、裏の喫茶で一休みした。その棟続きに所の焼き物などの物産品が沢山あった。

 夕暮れ ホテルの窓から

その夜は霧島温泉郷のホテルに泊まった。そこで妹とその友人はで帰り、翌日また、妹は迎えに来ることとなった。その宿には大きなプールのような風呂、露天の他幾つかのがあり、朝に晩に楽しんだ。食事も美味しく私達は温泉宿に来た事を実感した。

そのホテルに龍馬が新婚旅行に来た写真などが展示されていた。この新燃岳の噴火からどうなっているだろと気に掛かる。


昭和の日の事

2011-05-19 23:53:09 | 日々のつぶやき

今年はいつまでも寒い、やっと昼間は暑くなったが朝晩はまだ冷たく体の弱い母は3月からずっと風邪が治らない。

みかんの花の香りもいつもなら連休頃から匂出だすが、10日ぐらい遅かった。昨晩、外へ出るとみかんの花に混じり草の青い匂いがした。

ちょっと遅くなったが先月の29日、プールで一緒だった友人に誘われて歩け歩け大会に参加した。子供達に混じりせっせと歩いた。ゴール近くのゴミ焼却場前に小学生が5,6人今回の震災の為の募金を集めていた。みんな立ち止まり、募金をしていたが千円札を入れる人が多かった。

子供達は喜んで大きな声でお礼を言っていた。私達もそこで千円と財布に有った硬貨を全部入れたが、ゴールで又、女子中学生たちが募金を募っていたが、今度は入れる人が少ない。その付近には屋台や出店が出てお弁当やサンドイッチ、クレープ、焼き鳥、ジュース、うどんなど食べ物を売っているので、何度もその前を通過した。

私達が何度もそのまま通り過ぎるので中学生達は声を荒げて「今回の被災した人の為の募金です~」とわめくように叫んでいた。

どうせなら1箇所でして欲しい。

無農薬のお米のおにぎりと、手延べうどんを食べ、マウンテンバイクのレースを見た。その山道をぐるぐると6週するという。

自転車と言えど近くで見るとスタートは迫力あり、ユニフォームはそれぞれ鮮やかで綺麗だった。

帰りは違う山道を降り遠回りして友達の家まで行った。

そこで友人が万歩計を見るとなんと2万6千歩以上歩いていた。どうりで股関節から足が外れていきそうな感じになっているはずだ。運動不足であることを痛感したが、今でも泳いでいる彼女は平気そうだ。

その後、日本で最古だと言う自転車が市内の旧家の蔵から見つかったと言うことでその他の古い自転車を数点集めて展示されているので其処へ見に行った。

20人くらいの人が来ていたがボランテアの人が、自転車だけでなく持ち主だった人と建物と中庭の蔵の説明された。この町は明治の時大阪へ船を出しとても勢いがあり元気で栄えていたらしい。

その日、妹は阿蘇の幣立神宮と国造神社へ行き、翌日は坊がつるに登った。

後日、「幣立神宮は本やブログに書かれてるらしく今までに比べてとても人が多く、ご神水を頂こうとペットボトルを持ってきた人が沢山いたが、2つともポタポタとしか水が出ず、諦めた。」と言った。その頃こちらも宮崎も雨らしい雨はなく、水不足で困っていたが、先の台風1号でどうにか一息ついた。

でも、幣立神宮の東御手洗社の湧き水がほとんど無いのは単なる雨不足でなく阿蘇の地下水に異常があったのではと思った。考えすぎだろうか?

そして「坊がつるも強風で吹き飛ばされそうで怖かった。」と妹は言った。


2007年11月玉置神社と京都

2011-05-16 22:25:44 | 神社 エネルギースッポトを巡る旅

浄瑠璃寺

翌朝は6時に起床し、もう一度サウナに入ってから出かけた。浄瑠璃寺に向かってで出たが、途中朝食を取ろうとお店を探したがあいていなかった。運転はヒラサワさんだったのでどの辺かは良く分からないが大規模な造成地がありショッピングモールで出来るのだろうか?囲いがしてあった。それ以外にもモデルハウス群のような新興住宅地とまだ民家の疎らな造成地が目に入った。

そして昔からの農村の細い道を上がっていくと浄瑠璃寺に着いたが、結局早く着きすぎてお寺もまだ開いていなかった。しかも周辺にも食事のできる所もなかった。

ノワタリさんのお目当ては吉祥天女像を見ることで、その写真が表紙になっている本を持っておられた。

やっと9時に戸が開き、駐車場で待っていた人たちと入ったが仏像だけでなくお庭も紅葉が綺麗で皆さんで撮影されていた。

西方九体阿弥陀堂は人でいっぱいになり、撮影禁止のはずだが、の音がしていた。

吉祥天女様は鎌倉時代の物だと言うが色鮮やかで福与かなお顔をされていた。コンガラ童子トセイタカ童子を従えたお不動さんも威厳があり、母が信奉している事もあり写真を買った。それぞれ好きな像の前で堪能するまで見て出た。

そこでやっと朝食にありついた。人家の疎らな団地の角に小さなパン屋さんを見つけ、駆け込み一息ついた。

その後、京都市内まで帰り、太秦の広隆寺でまた弥勒菩薩像の前は人だかりが出来ていた。しかし、先程もそうであったが、館内に入ると頭がシ~ンとしてすっきりする。順番にそれぞれの仏像を見てそこでゆっくりその場の空気を楽しんでお庭を歩いた。ここも紅葉が綺麗。

その後、下賀茂神社にご挨拶して、崇道神社へ行った。

崇道神社

小野神社

湧き水

今回神社の入り口付近は工事の人が出入りしていた。前回、ノワタリさんの好きな神社だと言って連れてきてもらった時は寂しく、暗くいかにも早良親王の怨霊を鎮めるために造られた神社と言う雰囲気がったが、今回はそんな事全く感じず、穏やかで落ち着いていた。

そこもお清めしてお参りした。境内にある小野神社と伊多太神社にお参りした。小野神社は小野妹子の子の小野毛人が祀られていて上にその一族の墓があると言う。

その後、今日の最後になる亀岡の大本の天恩郷へ向かった。しかし、私達はそこで気付いた全く渋滞に巻き込まれなかった事を。

この連休、観光客でごった返しているのに不思議な事である。

万祥殿

宣霊社

高速を降りて、亀岡市内へ向かっている途中道が分からなくなり、前回運手したウチダさんに連絡を取った。その後、の中でノワタリさんが「何か一つだけお願いをして良いそうよ。」と言われた。

それまでもノワタリさんの所には度々出口なおさんがニコニコ笑って出て来られていた。

願う事は一つ病気の叔父の事だけである。しかし、叔父の写真は持っていないと思っていたら前回の大分の旅の後立ち寄った時に写した写真が1つだけ動画になったものがに残っていた。静止画はフォーマットして消えてしまっていたが…

無事着き事務所の方に「信徒ではないが、お参りさせてください。」と了解を得て万祥殿に案内された。

ここの万祥殿も工事をされていたが、もう夕方で終い支度をしていた。

ご神前に座り、ご挨拶をした後、叔父の姿の映っているを手に持ち、手術が成功して元気な姿をイメージしてお頼みした。

ヒラサワさんはお願い事が済むと、「新興宗教は嫌いだ。」と言ってさっさと出て行ってしまった。

明智光秀の居城だっただけにとても広く、城跡らしい石垣や茶室やお社があった。ここも紅葉がとても鮮やかである。私達はしばらく散策して駐車場にいるヒラサワさんの所へ行った。

それで今回の旅のお参りは終わりである。翌日はゆっくり観光となる。こんな事は初めてだ。「2日間はがんばれ、後はゆっくりさせてやるぞ。」のお言葉通りだった。

その夜の宿は亀岡市内のビジネスホテルである。丁度隣にあるディスカウントの酒屋に行き、ビールや酒とツマミを買ったが、ノワタリさんは土産にする清酒を買い求めた。

部屋は10畳ほどの広さだったが、普段使われてなかったらしく、布団部屋として使われてたみたいで、畳にその跡があった。おまけにポットと急須は用意されていたが茶葉は無かったので白湯を飲んだ。翌朝、朝食時見回すと、私達のように市内に宿が取れず泊まった若い子達のグループを見かけたが工事に来ている人の宿なっているらしく作業着の人が多かった。翌日はヒラサワさんと三嶋亭で合流するまで別行動で京都の紅葉を楽しんだ。その事は京都の休日http://blog.goo.ne.jp/husigi1019/e/385dc034d008a9f089f2ccc45a03a0f8に書いている。

その後、ヒラサワさんは亀岡のホテルの部屋で撮った写真に電源の入っていないに何か文字が写っていたと言う。それは先祖からの物だったと聞いた。

その半月後の12月に叔父は今度は大学病院で手術をしたが、母と隣町に住む叔母は喪服を持参して行ったが、その当日ノワタリさんから「上から、ゴーサインが出たから、手術時に遠隔するからね。」と頂いた。もう安心だ。

背中から、切って気道の縁に付いた腫瘍を取り除く手術だった。終了前に先にノワタリさんから連絡が来て「もう大丈夫よ」と言われた。

その後母から「予定よりもずっと早く手術が終わり成功した。」との連絡が来た。年老いた姉達はさぞかし安堵しただろうと思う。

後で分かった事だったが担当医は叔父が懇意にしていた人の息子さんだったこともあり、とても気をつけていただいた。

叔父は今も元気である。しかし、そういう事があったことを話しても分かっているのかどうか分からない。