Wake Up !

一人のヒーラーさんとの出会いから、私の世界が変わっていきました。

訂正

2011-05-16 07:57:29 | 神社 エネルギースッポトを巡る旅

昨日の玉置の三柱神社のおキツネさんは黒と書いたが誤りで、赤色で三柱なので3匹出てきたと言う。

そう言えば、初めてお参りした夜 泊まった勝浦のホテルで出てきた綿帽子を被いた花嫁姿のおキツネさんもその色だったと言う。


2007年11月玉置神社と京都

2011-05-15 21:40:42 | 神社 エネルギースッポトを巡る旅

別府に泊まった夜、なぜか京都に行きたいなと思っていたら、ノワタリさんから「来月23日から京都に行きましょう。」と言われたが、もう絶対この時期では宿は取れないだろうと思ったが、玉置神社にご挨拶してからとと言われた。しかし、あと1ヶ月では宿は無理だ。

帰宅すると直ぐにネットで宿探しをした。十津川村に宿を取り、2日目は問題の京都!市内は駄目だった。東西南北周辺を探してやっと亀岡のビジネスホテルを予約した。

しかし、1日目は玉置神社をお参りして地元に泊まり、翌日京都に出るプランを立てたが、その日のうちに京都に入らないといけないと言われた。そんなの絶対無理、無理、無理と思った。しかし、京都に良く行くヒラサワさんに宿の事を尋ねると「自分も行きたい」と言い出したので相談すると、「高速を使うと出来るよ」と言われた。

私は高速を使うルートは全く考えてなかった。「じゃあ、宿が取れないんだけど」と言うと、「24時間営業のサウナに行けばいいよ。」と言われ、そのようにする事に決めた。

ノワタリさんがおっしゃるには「始めの2日間は忙しいぞがんばれ!最後の一日はのんびり過ごせるぞ」とメッセージを受け取られていた。

11月23日の始発で出てきたでノワタリさんとヒラサワさんと新大阪で合流し、そのままJRで田辺駅まで行き、其処からレンタカーで玉置神社に向かった。

玉置神社は始めてお参りした頃からすると、大分雰囲気が変わっていた。

 

まず、駐車場には出店があり、名産の柿の葉寿司などを売っていた。ほとんどを見る事は無かったのに連休のせいか8部方埋まっていた。

境内の参拝者は若い人が多い。おまけにご神水は出ないようになっていた。「山岳なので水は貴重です。」そのような事が書いてあったと思う。

何かで「玉置神社はこの世が終わる時表に出るハルマゲドンのような所と読んだ事があるが2004年の6月の台風で境内の御神木である杉の木が倒壊したとNHKのニュースに出たのを母が見た。それがそうなのかもしれない...しかし、最近この神社は有名にもなっている。

三柱社、(ここのお狐さんは白でなく黒だとノワタリさんは言われていた)玉石社とお清めしてお神酒をお供えしてお参りし、山頂へ行ったが、そこでも降りてくる一行がいた。

 

山頂でお清めしてノワタリさんは祈られた。

11月下旬の日暮れは早い、大分傾いた日の中を大急ぎで竹筒の高倉下命様の祀られている神社へ向かった。途中、龍神様でご神水を頂いた。

この神社は廃校になった学校の裏の森の中に前回来た時と変らず静にひっそりと佇み、所のもの以外は分からないだろうと思う。

お参りした後、時計を見るともう午後4時半であった。高速を使っても日付が変わらないうちに着くだろうかと思いつつ、出発した。

田辺市内に入った頃はもう真っ暗だった。田辺かみなべかはっきりしないが高速に乗った。其処から高速を乗り継ぎ走ったが、所所で渋滞に遭ったが、上の配慮のおかげかさしたる事もなく京都市内に8時半過ぎには着いた。

祇園近くの駐車場にを預け、私達は夕飯を取りに居酒屋へ行った。安心からを飲みくつろいだ。その後サウナに行くと、11時頃になりもうシューズボックスはいっぱいだった。ヒラサワさんに聞いたように貴重品をフロントに預け、風呂に入ったが、同じように宿代わりにする人が多いのでもう休息室も満杯だった。レストランや通路の椅子に寄りかかって休んでいる人の姿があった。

マッサージを頼むと順番が来るのは1時とか2時前であったので止めた。レストランの椅子で休んでいたら食事をする人が入ってきたので出されてしまった。昼間の疲れがどっと出て仕方ないのでまた、マッサージを頼んだ。

ノワタリさんが先に行き、その後私もマッサージが済んだ後、私達が「最後ですのでそのままお休みください。」と言って頂き、そのまま暖房の効いたマッサージ用のベッドで休ませて頂く事になった。もうその頃には夢うつつになっていた。

翌朝目が覚めると、8個ほどのベッドに休んだ人以外はカーテンの向こうの床の上に毛布を敷いて休まれたらしい。

なんと、休息室の椅子よりも寝心地のよいベッドで私達は休ませて貰ったのだ。なんと有り難い事だと感謝した。

 


疲れた…憑かれた

2011-05-12 23:30:57 | 日々のつぶやき

月曜の深夜、もう日付は10日になっていたが、1時前に目が覚めた。間の悪い事にその日はメンテナンスの関係でラジオ深夜便はAM放送で終了していた。

中学生の頃から金縛りにあっていたのでその頃から始まった深夜放送のラジオをつけっ放しにする習慣になっている。眠れないので本を読んだりしていたが、1時半過ぎブルンブルンと言う重いエンジン音…10分足らずでまた聞こえた。北東から南西の方向に向けて飛んでいる。

その方向には岩国基地がある。何でこんな時間に…。母から戦時中ののエンジン音を聞いていたがあれは爆撃機のような音だと思う。

その晩は結局眠れず、3時になりオールナイトニッポンをかけプレスリーが気持ちよさそうに「好きにならずにいられない」を聞きながら眠りに付いていたが、5時には起床した。でも、あれは空耳ではない。

今月に入って不思議な事が続く、お1日はご神前の灯明が風も無いのにお社やお三宝に煤を振りまき、点々と黒い模様をが付いた。

ご飯粒でどうにか除けたもののこんな事初めてで気持ち悪い。

5日の日にプールから父が憑き物を憑けて帰り、ソファーの上でぐったりしていたと思ったら、その晩私に憑きやたら背中が思い。

自分で祓ってもうまくいかない。連休中にお風呂場のタイルの目地塗りをしたら、仕上げに拭いた雑巾バケツの水左口元に飛び散ったり、メガネを外した途端、目に散ったり散々なことが起きた。

目も、顔も水で洗ったものの、目には違和感とかゆみ、顔はヒリヒリ熱い。腕にしていたヒスイのブレスはカビとり剤とペンキが付き、ボロボロになり、輝きを無くしていた。

目薬で少し治まったものの、ノワタリさんに憑き物を落としていただいたら、口の中が薬で苦くなった感触になり、男の呻き声が出てきたと言われた。

しかし、6日の日は体が重くてとても辛く、「椅子に座るたび『ふ~っ、しんどい』と一日中言っていた。」とチエさんが言っていた。

その晩もノワタリさんにお頼みすると、「あれ、口の左側が麻酔した時みたいに痺れてる。」と言われた。炎症が口の中まで来たみたいだった。セージの葉で数珠をいぶし、それを口元に当てたり、部屋にもセージを焚きこめ、布団の4角には盛り塩して休んだ。

「しつっこいわね~。変ね~。」と言いながら、6日の夜と7日の朝、遠隔で祓っていただいたが、先日の物とは又違う物みたいだった。

慣れない事をしたからかしら?

 

 


2007年10月大分の旅 Ⅱ

2011-05-11 20:57:38 | 神社 エネルギースッポトを巡る旅

別府湾

翌日は早く起きて瓜生島の慰霊から始まった。

別府と大分の境の海岸へ行き、ノワタリさんの指示に従いお清めをした。ノワタリさんは海に向かって歌われた。この沖に5000人の人の住んでいた島がほんの400年前まであった事と、中央構造線がこの湾を抜けて阿蘇へ伸びている事を思うと、今何があっても不思議ではないと改めて思う。

その後、西寒多神社へ行った。朝日が差し、とても穏やかで気持ちが良い。

そこで奥宮があり昨日そのお祭りだった事を社務所の方に聞き、行き道を教えてもらい奥宮のある本宮山へ向かった。しかし、道幅はとても狭く悪路であった。途中でやっと広い道に出たがつかの間で又狭く急な坂道であった。いつものヴィッツであるから良いものの途中対向車が来たらと内心ヒヤヒヤした。

奥宮のイワクラ

テレビ塔のある所で車を置き、登と、何処からか子猫のニャアニャアと鳴き声がしてきた。お清めしながら歩いていると私達の足元にじゃれ付いてきた。私の好きな赤ネコだった。なんでここに子猫が?と思いつつ、今は飼うことが出来ないので出来るだけ知らん振りをしてきたが...やっぱりだめである。

子猫はまだ生後2か月くらいのオスで首に紐を編んだような首輪をしていた。一晩一人で心細く過してお腹もすいていたので必死でまとわり付いた。

お参り後、に乗せて一緒に下山した。社務所の人が言うには信者さんに着いて行き、山で分らなくなったそうだ。膝や肩に乗りゴロゴロ言いながら顔を舐め甘えた。別れが辛い...

「何か食べ物はありませんか。」と言うと、「鯉の餌しか」と言って鯉のえさとお弁当のおかずを少し頂いた。ネコは少しお腹の足しになったのかひとりで境内を遊んでいた。

その間に私達は鳥居を出て橋を渡った。後ろから悲鳴のような悲しい泣き声が聞こえた。

一人であれば、近くのホームセンターにえさを会に行き、つれて帰ったであろうと思うが、まだ回る神社もあり、ぐっとこらえて立ち去った。今でも思い出すと、辛い。

その後は雄城高校の横にある雄城神社にお参りした。ここも八幡様だという。そして此処に築城したのが小学生の頃読んだ本の主人公の「椿説弓張月」の弓の名手の源為朝したのでその霊も祀られているとの事だった。

そのまま町に出て昼食を取る店を探した。店内にいけすのある郷土料理の店に入った。それぞれ好きな物を頼んだが、 どれも美味しく満足した。川沿いの住吉さんにご挨拶をした後、最後の天満社鬼神社という変った名前の神社にお参りした。その神社は天満様と鬼神社が拝殿が区切られてその奥にそれぞれ本殿があったが、鬼神社の方は鬼のお面がいっぱい掛けられていた。拝殿から外を覗くと、其処から下はずっと低くなっていて変った地形だった。近くのおじさん達が数人お掃除に来られていたが、他所からお参りする人も珍しいのであろうと思うが御礼を言われた。

鬼神社は元々は大己貴命を産土神として祀ったという。

 

今回はこれで終了。別府駅でお別れしてノワタリさんとウチダさんは空港へ向かった。妹と一休みして別れ、叔父の家に向かった。その頃は抗癌剤治療をしており自宅にいた。

その翌月、1回目の手術があり出血を起こすと気道が塞がれ窒息したら危険と言われていたが、冷淡だった叔母が「奇跡よ!一滴血は出なかった。」と大喜びでして来た。その時は気道を塞いでる腫瘍を取り除いたが、縁に付いた部分はもっと体力をつけて12月に病院を替え、大学病院で又手術をすると聞いた。ひとまず一安心した。 

 その旅の数日後、妹は乳癌検査の結果が出ており、やはり癌であった。マンモでも見つからなかったのが又片方にも見つかり、早期発見と言うことで手術をせずに治まった。

ノワタリさんが胸の異変にホテルので隣に座った時、「何か変だな?」と気付いていた。

宇名岐日女神社でノワタリさんと妹の写った写真の顔は何処となく妹の顔でなく変に写っていた。

1ヵ月後、一緒になったヒラサワさんに見せると「これ!彼女の顔じゃないよ。おばあさんの顔だ。死相が出てるよ。」と言われたが、早かったので事なきを得た。本当に有り難い事である。


叔父の病気

2011-05-11 06:26:01 | 日々のつぶやき

普通ならば引き続き大分の旅と行く所だが、その前にこの事をかかねばならない。

きっかけと成った墓参りの時、叔父はよく咳をしていた。その時は余り気にもしていなかったが、その後母とのでもよく咳をするので母が心配して早く病院に行くように言ったが、叔父は「熱は無いから大丈夫」と言っていた。

しかし、何故か9月の初旬気になった母が叔父に連絡を取ると、気道の癌で3日前から入院していた。母は泣き崩れた。小学校4年で祖母が病気になり母親との縁の薄く母と20歳も違う叔父のことがとても不憫でならないらしい。

本来なら母が行く所、夏ばてでその体力が無い。ノワタリさんに連絡を取ると、「残念ながら私には手が出せない。」と気の毒そうに言われた。「でも、あなたがすればいいから、早く叔父さんの所へ行くように。」と言われたが、ノワタリさんが手を出せないという事はかなり悪いと言うことだろうと思った。すぐに妹に連絡を取り仕事を休み出かけた。幸いにも、左手首の骨折は腕の添え木と三角巾は8月の下旬には取れていた。

国立病院に見舞いに行くと、5月に在った時と大分変り叔父はとても小さくなっており亡くなった祖父に良く似ていたが、影が薄く叔父とは一瞬気付かなかった。

気道に腫瘍が出来て話すと喉の奥からヒューヒューと風が吹いているような音がした。でも、私達が行った事をたいそう喜んでいるみたいだった。

大変珍しい癌で担当医も本で読んだことはあるが初めての事なので母校に問い合わせながらの治療だと言う。同じ呼吸器系の患者の3人部屋は重苦しい雰囲気だった。叔父の家庭もうまくいっていない事もあり、叔父はもう人生を捨てていた感じであったのだろう。

久しぶりに会う妹と世間話をした後、朝日を日拝する事と腹式呼吸をする事を伝えた。

夕方になり叔母がやってきて私達を街までで送ってくれると言う。叔父は名残惜しそうに玄関まで見送ってくれ、私達の姿が見えなくなるまで手を振っていた。

の中で叔母は病気の経過を話した。7月に結婚する予定の長男の相手の家族と顔合わせをする為に上京し、その後、叔母が信心している日蓮さんをお参りするため、身延山まで行ったけど叔父は動けず麓にいたと言う。よくそんな体にになっているのに叔父を厭う事もそんな状態までほっといた事にも腹が立った。

8月には本当に体力が無くなり仕事から帰るとすぐに横になっていたという。「病院へ行ったらと何度も勧めたんだけど、聞かなくて。でも、お友達が病院に予約したからと言って、家まで迎えに来て強引に連れて行ったのよ。其処では手に負えなくて『大きな病院へ言ってください』といわれてね~」と笑いながら叔母の話は続いたが、それはお友達でなくあなたがすべきでしょと言いそうだった。

「それでも行かなくて、その友人が国立病院までで乗せていったのよ。」と言う。何と有り難いお友達、命の恩人だ。

でもその国立病院は家から徒歩でも10分掛からない。聞いているうちに、叔父は生きる事に投げやりになり、病院にも自分からは行かなかったのだろう...叔父の空虚感と寂しさを思うととても辛く、笑いながら無神経に話す叔母に腹が立ち、途中で信号が赤になった所で妹と降りた。

以前から叔母が叔父を軽んじていた事は知っていたが妹と暗く沈んだ気持ちで夕飯をとって別れた。母にどう伝えようかと重い足取りでに乗った。

しかし、危惧に終わり叔父は見舞った後、元気付いたのか明るい声で母にして来た。

半月後、数冊の本を持って見舞いに行くと前回と変り表情も明るく、良く話した。人の好い叔父なので友人達が見舞いや本や差し入れに入れ替わり立ち代りやって来て話して帰った。

毎朝、廊下で別府湾から登ってくる朝日を拝み腹式呼吸をしている事を行った。丁度廊下の先には海が見え松の木が数本海岸にあり、其処を指差した。

放射線治療をしているのだがそれだけでもう用が無いので本を読んでいると言う。叔父の胸には+の印が書いてあり、やけどをしないようにする為、日替わりで焼き鳥の串のように正面、背中、右、左と回りながら当てると言う。

しかし、それでも同じ部屋の人は喉を火傷して、熱い物も冷たい物も飲めないと言う。

隣家の人が同じ頃オートバイの交通事故で入院しているが、一度覗いたら部屋の雰囲気が全く違って明るかったと叔父は言った。病気と違い怪我は日数が経てば良くなるので希望がある。

しかし、前回と違い叔父も明るくなっていたのでほっとした。

その後叔父は火傷にもならず、抗癌剤治療に移った。