さて、気になる記事があったので、ごく簡単に。
本当に短いモノですが、実は今、大変忙しくてヒマが全然ないんです……。
最近、またフェミニズムが勢力を盛り返しつつある気が、ぼくにはします。
民主党がおわコンで、反原発がおわコンで、もう担ぎ上げるネタが何にもない、彼ら彼女らの深刻なネタ不足が原因であるように、ぼくなどからは見えてしまいます。
例えばですが、塩村議員の騒動など、そんな感じですよね。
7月5日の『東京新聞』ではその二匹目のドジョウを狙えとばかり、自民の大西英男議員が維新の上西小百合議員にセクハラヤジを飛ばしたとして一面と社会面、計3pで大キャンペーンを張っていました。1p目には
女性蔑視やじ また自民
とあり、その意図は明らかです。
「ヤジはよくない」という一般論自体は賛成できますが、同記事では「身体的問題で子供を産めない女性」をいきなり担ぎ出し、「我々への配慮に欠けた発言」と言わせるなどしており、もうわけがわかりません。別に塩村さんや上西さんが子供を産めない女性というわけでもないのに。
そもそもそんなことを言い出したら、「少子化対策一般」自体が「女性一般」への攻撃にすり替えられかねません。むろん、去年あった女性手帳への過剰反応などを見てもわかるように、フェミニストたちの目的は最初からそこにあるのですが。
本当に女性への差別を悲しむなら、こんなふうに女性を「人権兵器」にするのはやめてあげた方が、と思うのですけれども。
どうもここしばらく左派の中で「やっぱりフェミという大ネタを捨てるのはもったいないのでリサイクル」という判断の人が増えたように見えます。
ずっとフェミニズムの信奉者で居続けた人たちはまだ一貫していますが、彼らの振る舞いからは、塩村議員を担いで自民党を倒すためには、「フェミが正しくなければならない」ので、急遽やっぱり「正しいこと」にし出した、そんな裏事情が見え隠れします。もちろん、本人たちに聞いても絶対に認めないでしょうが。
さて、そんな人たちの一人(あくまで「女性を人権兵器化している」だけで、リサイクル派かどうかは存じ上げませんが)、田岡尼師匠がぼくの著書を採り上げてくださいました。
「セクハラやじ騒動にネトウヨ猛反発! いまの社会は女尊男卑か?」。塩村議員騒動の文脈で、いわゆる(彼ら彼女らが言うところの)ネトウヨの、男性差別クラスタをdisろう、という意図の記事です。
田岡師匠は竹田恒泰氏の「自分も田嶋陽子師匠に『結婚しろ』と言われたぞ」との発言を持ち出します。「なるほど女性側にも問題がある」という結論を導き出すのかと思いきや、どうもそういうわけでもないらしい。
エピソードを紹介するだけで、特にそれを評価することもなく他の話題に移っているのですが、(竹田氏に続き田母神さんの発言を紹介したりしているその文脈から推察するに)、どうも田岡師匠的には「保守派どもがこんな間違ったことを言っていたぞ」と言いたいご様子。
むろん議会とバラエティという場はまた違うとは言え、どうにもアンフェアな話です。
ちなみにこの件については、田嶋師匠自身も弁明していました。その主旨は「私は結婚そのものに否定的なのでこのようなことを言ったとしても結婚をよきものとして言っているはずがない」というもので、それをフェミニストたちが「さすがだ」と賞賛していました。発言者の意図によってセクハラがセクハラでなくなるのなら、「元気を出してもらおうと思って」女性の尻を触ることもセクハラではなくなるはずなのですが。
拙著についても、こちらの記述を恣意的にねじ曲げて紹介するというお約束通りの手法が使われています。
ぼくの、痴漢冤罪についての記述に対し、
当然ながら、起訴されると有罪率が99.98パーセントという検察の異常さは、ここでは批判対象ではない。どうやら女は検察庁まで牛耳っているらしい。
とありますが、ぼくは有罪率の異常さをこそ批判しているのだし、検察が「女性の証言」を鵜呑みにすること(つまりこれはまさに「女は検察庁まで牛耳っている」ということです)こそが問題だと指摘してもいるのですが。
男女の犯罪について、ぼくが「男性が加害者になりがちであること」については認めつつ、それは両者の身体能力に還元されるのでは、との意図で「子殺しは女が多い」と挙げたデータへも
なぜか子どもへの虐待による死亡事例を引っ張り出し、70パーセント弱が女性が加害者ではないかと力説。
と反論なさっておいでで、こちらの意図を理解できないご様子。
また、北原みのり師匠が「女ばかりが男に殺されている」という明白な嘘を述べていることへの反論として挙げた件についてもそうした文脈を隠したまま、
さらに殺人事件での女性被害者の割合が30~40パーセントに留まっている数字を掲げ、〈圧倒的にオトコの人だけが殺されすぎています〉と胸を張る。……「それ、男が男を殺してるってことじゃん」なんてツッコミは、もうすでに野暮というものである。
とドヤ顔です。
一貫して、文脈をねじ曲げるという戦略が取られ……あ、いや、単純にぼくの書いたことの意味が理解できなかっただけでしょうか。
いわゆる男性差別クラスタには「女モー」派とでも言うべき人々がおり、こうした人たちは田岡師匠が誤読した通り、女性の子殺し率などのデータを挙げただけでドヤ顔だったりも、確かにします。
しかし本書におけるぼくの主張は「女性の、被害者というスタンスの加害者性/男性の、加害者というスタンスの被害者性」を指摘するところにあり、師匠がそこを全く読解できなかったのは、非常に残念でした。
師匠は恐らく「男が男を殺していること」を指摘した時点で満足して「どうだ、女は悪くないぞ」とガッツポーズになってしまったのでしょうが、そんな指摘をしたところで、男の弱者性に変わりはないわけです。
しかし、今までぼくに対する誹謗中傷をしてくる連中というのは「読まずに全否定」がお約束だったので、こんな絶版になって久しい本を読んでもらえただけで(内容の理解はおぼついてないとしても)ありがたい話ではあるのです。
また、フェミニストというのはもはや、明らかな嘘を並べ立てて相手を誹謗中傷するやり方がスタンダード化しており、その意味で田岡師匠は「文脈の意図的なねじ曲げ」で終わっているのですから、それに比べれば非常に良心的と言えましょう。
さて、師匠はその後
保守系の政治家や論客が「男女平等」を目の敵にし、猛烈なジェンダーフリー・バッシングを巻き起こしたのは06年、第一次安倍内閣時だった。こうした“女尊男卑”思想がネットを中心に蔓延るようになったのも安倍政権の復活が引き金になっている──そう見る向きもあるらしい。
と続けます。
師匠の意図は明らかですが、これは残念ながら事実と違うように思います。
ネットでは――これは「大衆」と言い換えていいと思うのですが――ずっと女尊男卑に、フェミニズムに憤る声が溢れていました。ただ、彼ら彼女らが血眼で安倍さんを叩く口実を探していた折に、こうしたトピックスが浮上してきた、と言うだけのことです。
しかし、上に師匠が書いている通り、ゼロ年代半ば、フェミニズムはその欺瞞を保守派によって暴き立てられ、かなり勢力を縮小させました。調子に乗っていると(?)また、手痛いしっぺ返しをそろそろ食うんじゃないかなあ……という気もします。
さて、上に続き、師匠は続けます。
だが、そうした遠因よりも、ネット上の書き込みやこの本を見ていて感じるのは、社会に押しつけられた「男らしさ」に絡め取られることに息苦しさを覚えながらも、どうすればいいかがわからないという“足掻き”だ。
何だかため息のでる文章ですね。
これはフェミニストが(まさにドヤ顔で)この種の「男性差別クラスタ」にぶつける、お決まりのフレーズであり、ここだけすくい取れば、取り立てて間違ったことが書かれているわけではありません。そもそも近いことはぼく自身が拙著にも、このブログにもさんざん書いている通りです。
しかも、フェミ発の「ジェンダーフリー」が「使えない」という指摘は、前回の『男性権力の神話』にも述べたばかりですよね。フェミニストの言説は常にこちらの二周、三周遅れをどたどた走っているのです。
いや、しかし、そもそも、そこまで田岡師匠が「男らしさに絡め取られた男性」に対して深い理解を示していらっしゃるのであれば、上にある田嶋師匠の発言の「セクハラ性」を認めるべきだという気が、ぼくにはするのですが。
ぼくはここしばらく、「左派は弱い者いじめばかりしている」と書いてきました。
しかし彼ら彼女らは、そうした自覚が恐らく、夢にもない。恐らく、死ぬまで一生、自覚のないまま終わる。
そのメンタリティを、田岡師匠の記事は見事に現している気がします。
それは
近所のガキをカツアゲし、そのガキが「おこづかいがなくなった」と泣き出したのを見ておもむろに、「ならばお前も、今俺がこうして努力したように、がんばってカネを稼げ」と心優しくアドバイスをする。
といったものです。
ちなみにこの田岡師匠、ググってもこの記事以外、同サイトの別記事、「秋元康の五輪演出にあの小説家がNO!「AKBは児童ポルノ」」しかヒットしません。
ここではオタクに敗北したルサンチマン(と、師匠同様の「ネトウヨ」への憎悪、弱い者への嗜虐心)から『嫌オタク流』というウルトラトンデモ本を出した作家・中原昌也を持ち出し、表題通りの主張を展開しています。
きっと萌え文化など児童ポルノ扱いなのでしょうね。
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