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――さて、続きです。
始めて来られた方は、前回記事をお読みいただくことを強く推奨します。
(以降も本稿で「前回」と書く時、「風流間唯人の女災対策的読書」ではなくあくまで(その1)の方を指します)
前回は本書の著者、斉藤師匠の「認知の歪み」を見ていただき、師匠がフェミニズムに帰依しているがため、子供たちが救われないことになっていると示しました。
今回は「表現の自由クラスタ」との関係性を見ていきましょう。
同じくリベラルである師匠と表現の自由クラスタ、まさに両者はあわせ鏡のような関係にあるのです。
・斉藤師匠の認知の歪み2
前回にも書いたように、本書では漫画なども徹底して「児童ポルノ」と呼称しています。
第4章「児童ポルノ――加害の引き金になるもの」では「ネットにアクセスすれば容易に児童ポルノを見られる(大意・105p)」と強調されますが、これもエロ漫画などの二次元メディアを指しているのではないでしょうか。
児童ポルノの被害に遭う子どもと聞いてまず思い浮ぶのは、タレント活動をしていて肌の露出度が高い衣装を着せられ、性的なことを連想させるようなポーズを取らされる子どもたちではないでしょうか。
(107p)
(107p)
とも書かれ、(実写の)きわどいイメージDVDの類もまた、児ポだというのが斉藤師匠の考えです。
いえ、こうしたものを、ぼくも好ましいとは思えませんし、できればなくすべきとは思いますが、これをポルノというのはどうなんでしょう。また、これを法で禁ずるとなると「子供の水着は表に出すことはNG」になっちゃうし、やっぱり宗教とか、法律とは別口のルールって必要だなあ、と。
いえ、問題はそこではないのです。
師匠は真顔で以下のようなことを言います。
これまで私が直接的、間接的に関わってきた子どもへの性加害者らはほぼ全員、児童ポルノから何らかの影響を受けています。まず、これまでクリニックに通院した者117人のうち112人に児童ポルノ動画や画像を見てマスターベーションをした経験があります。児童ポルノに触れたことがないという加害者のほうが、稀なのです。
(114-115p)
そして先述したように、当院のデータでは加害経験がある者の100%近くがなんらかの児童ポルノを見ているという事実があります。
(119p)
(114-115p)
そして先述したように、当院のデータでは加害経験がある者の100%近くがなんらかの児童ポルノを見ているという事実があります。
(119p)
この後も、何か海外の刑務所の「接触犯罪」を犯した者の高確率が児ポを見ていた、とかいうデータを採り挙げて大仰に驚いてみせる箇所もあります(124p-)。何で犯罪者を母数にするんだ、そんなこと!
これには表現の自由クラスタもお得意の、「性犯罪者は全員パンを食べたことがある」というネタを持ち出さざるを得ないんじゃないでしょうか。まさにつまらぬ詐術なのですが、しかしツッコミどころはそこに留まりません。
師匠がエロ漫画やイメージDVDも児ポにカウントしているというのは、言い換えれば、本書で「児童ポルノ」が語られる時、そこで問題にされるのは「ペドフィリアに対する悪影響」というその側面のみである点なのです。
……いえ、「のみ」ってことはありません。一方では「(実写の)児ポは製造されること自体が被写体への加害であり、また、それを視聴することもまた、被写体への加害である、よって存在を許されない」といった視点にもちゃんと言及があります。だからこそ「児ポの単純所持もまかりならんのだ」というのが師匠の主張であり、そこは頷けます。
しかししかる後、師匠はこんなことを書くのです。
「現実とファンタジーの区別はついている。児童ポルノを見ても、実際の子どもに手をかけるなんてことはない」というのは、典型的な認知の歪みのひとつです。自身が子どもに加害行為をしてなくても、それに加担している事実に蓋をしています。
(118p。アンダーライン原文ママ。以下も同)
(118p。アンダーライン原文ママ。以下も同)
ここには斉藤師匠一流の「認知の歪み」がいくつもいくつも見られます。
まず、「(実写の)児ポは観るだけで加害だ」はまさに正論です。
しかし、だからと言って、「観た者が実行に及ぶ」かは別問題です。
「視聴そのものが加害」という論点と「実行に及ぶやも」という憶測が、ここでは雑にごっちゃになっているのです。
そしてまた、ここではエロ漫画など虚構の表現と実写の表現の区別がなされていません。「ファンタジー」というなら、虚構の表現が前提になっているようにも読めるのですが、判然としません。
虚構の表現がここに含まれているとするならば、仮に「児ポの影響で実行に及ぶ可能性が高い」が真だとしても、「観ることが加害だ」は真ではない。そこを師匠は分けないまま論じているのです。
はっきり言えば師匠は虚構の表現をも禁止したい、しかしその口実が見つからないため、要所要所で両者を混同して語ることで、いっしょくたに否定している……と、ぼくにはそんなふうに読めてしまうのです。
確かに、漫画やアニメをちゃんと実写の児ポと分け、議論している部分もあります。
いずれも現在の法律では、「現実の子どもが被害に遭っているわけではないから問題ない」とされてしまいますが、やはり大なり小なり見る者の認知に影響を与える可能性が高いといわざるをえません。
(122p)
(122p)
正直、反論に窮しての苦し紛れ、という感じではないでしょうか。
しかし同時に、こんな記述も。
そして児童ポルノを通して彼らは「子どもは性的な存在である」というメッセージを受け取り、認知をゆがめていきます。
(120p)
(120p)
はい、お疲れー。
ペド的欲望など、本来ないものなのに、悪者がぼくたちに植えつけていることが判明しましたー。
専ら、「児ポ(虚構含む)には悪影響がある、ペドフィリアの犯罪のトリガー足り得る、だから好ましくないのだ」というのが師匠の主張です。
それが本当に本当なのか、ぼくにはそれを判断できるだけの知見がないので、まず、そこは「正しい」と考えることにしましょう。
「ポルノを見て性的に興奮をする」ことは事実だし、もしそうでないならそもそも誰もポルノなど買わない。そして、それがトリガーで性犯罪に及ぶというのは、まあ、(ほとんどの人間は理性で制御しているとは言え)わからないではない。
繰り返すように、ペドフィリアには「認知の歪み」を持つ者が多いのは事実。だからそれがポルノで強化されることは大いにあり得ます。
そうした「トリガー」論においては、エロ漫画など虚構メディアと実写メディアの差はないのかもしれない。しかしそこを強調する師匠の筆致は、結果、実写メディアがそれ自体、犯罪性、加害性を持を持つことを、どこか軽視してしまう結果になっているのです。
臨床の場にいる師匠にしてみれば、虚構であろうとも子供を対象にした性表現は危険だと感じるのでしょう。それはわかります。しかしだから規制せよでは包丁による殺人が起きたから包丁の販売を禁ずる、アル中で死んだヤツがいるからビールの販売を禁ずるというのといっしょで、頷けません。アル中の方でビールに近づかないようにしていただかないと、多くの人に迷惑が及びます。
いえ、そんなリクツをこねる前に、そもそもロリコン物のエロ漫画が出てきたのがこの四十年のことである以上、ちょっと調べればそれがどれだけペド犯罪に影響を及ぼしていないかは、自明になるはずなのですが、そんなデータは示されません(ペド犯罪の増加率については、この十年ほどの、「微増」と思える程度のデータが示されるのですが、街中の萌えキャラの、ネット上の萌え系のエロ画像の増加は「微増」どころではないでしょう)。
「エロ漫画はペドにとってはトリガーになり得る」は真だとしても、ほとんどの人間はエロ漫画を見て性犯罪に手を出していないと、もう結論は出ているのです。
しかし、師匠は(一番大事であろう)そうした数字を挙げることがありません。
それは、何故か?
理由は、前回にも述べた師匠のフェミニズムへの帰依ぶりを鑑みた時、明らかになります。
「この世の男尊女卑はメディアの影響であり、そうした価値観はジェンダーフリー、即ち自分たちの強制リセットで正されなければならぬ、そうした世直しの一環としてのみ、ペド犯罪問題もある」というのが、師匠の世界観だからです。
・表現の自由クラスタの認知の歪み
本書の第3章ではまたしてもペド犯罪者がロリ系エロ漫画を読んで、転落人生を歩む様を描写した後、こんな主張がなされます。
小児性愛障害については、治療を受けなければ被害者が出ます。本来なら、治療をしないという選択肢はないと私たちは考えています。
(101p)
(101p)
いかが思われたでしょう、みなさん。
「ペドフィリアは病気である」。それは事実です。
アメリカ精神医学会の精神疾患のリストにも載っています。
「病気なら、治療すべき」。
これも正論です。だから、師匠の言っていることは何ら間違いはないのです。
ただ、上の師匠の言葉は、「治療を受けなければ被害者が出ます」と言っている以上、恐らく、犯行に及ばない小児愛者をも含んだものだと思われます。
一方で、日本ではペド犯罪者に再犯防止プログラムを受けさせる(強制する)制度がないそうで、ぼくも犯罪者には治療プログラムを受けさせる制度は作るべきではないだろうか、とは思いますが。
しかし、表現の自由クラスタはこれに、強く反対することでしょう。
犯罪者はともかく、ペドの全員が子供に手を出すわけではない、だから、治療などしなくてもいいじゃん、というのが恐らく彼らの言い分ではないでしょうか。
白饅頭の文章が参考になります。
彼の『矛盾社会序説』には「ペドフィリアは「治療」すべきなのか?」と題された節があります。ここではドイツの薬物療法(化学的去勢)について述べ、ペドフィリアとチャイルド・マレスター(子供を虐待する者)は別だ、との主張が語られます。そして、お約束の「ホモもかつては治療や刑罰の対象であった」との主張も。
ここでは(否、表現の自由クラスタの主張においては100%常に)ペドはホモと全く同様の、間違った社会通念により偏見と差別を受ける、清浄でセンシティブなマイノリティとしてのみ描写されます。
多くの小児性愛者は自らの性的な欲求が他者を傷つけかねないことを自覚しており、悩み、苦しんでいる。
(74p)
(74p)
などとも書いていますが、もちろん、嘘です。
先にも書いたように、ペド犯罪者は自分と子供との関係を「純愛だ」などと称しているのですから。
それとも、それはあくまで子供に手を出すような者だから?
そうした行為に及ばないペドはもっと理性的なのではないか?
残念ですが、それも可能性は低いでしょう。表現の自由クラスタはペドをマイノリティとして描写する時、決して「児童ポルノ」について語ろうとしませんが、真性のペドで実写の児童ポルノを収集していない者はやはり、少数派でしょう。
「実践派」ではなく児ポだけ観て満足するタイプのペドも数多くいるようですし、そりゃ、そうした連中は手を出さないだけマシとはいえます。しかしそうした人たちは当ブログでも度々指摘して来たとおり、往々にして「(実写の)児ポを観ることに道徳的問題はない」と主張する傾向にあるのです*1。
もちろん、「じゃあ何%までがそんな価値観の持ち主だ?」と問われても、数字など出しようがありませんが(しかし、それは白饅頭も同様でしょう)、それでも「かなり普遍的に」とはいえるかと思います。やはり人間、自分の欲望は肯定してしまうものなのです。
*1 例を挙げるなら鈴折@sin_Lv98氏。詳しくは「2017年度女災流行語大賞」の第二位を参照。
また、もう一人挙げるならば@emanyon氏。これは「オタク界隈にはびこる「ロリコン」の闇を歴史的に紐解いていく」を参照。この人については「胸を張って名言」しているわけではなく、本音を吐露しかけて四苦八苦している感じですが……。
もう一人、表現の自由クラスタのスターにご登場いただきましょう。少し前まで「一般的なフェミ」そのものであったのに近年、急激に表現の自由クラスタへとすり寄って来た*2柴田英里師匠。彼女は近年、「どうしてそこまで……」と言いたくなるほどに、ペドフィリアの擁護に熱心です。
小児性愛はおぞましい思考なんですか?仮にあなたがそう思っているにしても、それをわざわざぶちまけるのって下品で失礼なことにはあたらないのですか? https://t.co/aPW0x9ylTh
― 柴田英里 (@erishibata) January 27, 2020
― 柴田英里 (@erishibata) January 27, 2020
いやあ、明日にもNAMBLA幹部に昇格できそうな、キレッキレのペド擁護ですねw
「小児性愛はおぞましい思考」に決まっているし、仮に師匠がそう思っていないにしても、その価値観の表明をわざわざ「下品で失礼」だなどと言うとは、まさに表現の自由クラスタの手先にふさわしい発言ですw
フェミニストが幼児虐待の擁護に熱心なのは言うまでもないことですが*3、それにしても彼女のペド愛は何に端を発しているのでしょう?
以下は、上のツイートの続きです。
だいたい、異性愛再生産と小児性愛どちらが「まとも」かだって怪しいものです。個人的な趣味判断から言えば、前者の方が醜いと思っていますが、私はわざわざ前者に該当する人を罵って回るようなことはしませんよ(数も多いのでやりあったら負けますし)。
― 柴田英里 (@erishibata) January 28, 2020
また、こんな発言も。
そもそも小児性愛は「幼児殺したい」という嗜好でもありませんし、実際に一番幼児を殺したり虐待しているのは「実母」ですよね。だけど、「全ての母親は幼児殺害・虐待予備軍」などとは言わないでしょう。その慎みを、小児性愛者にも向けるべきでは? https://t.co/tfTrZmBvfW
― 柴田英里 (@erishibata) January 28, 2020
― 柴田英里 (@erishibata) January 28, 2020
もうおわかりですね。
家族制と異性愛をこの世で一番悪しきものだと信じて疑わないフェミニズムは、最初っから、ペドフィリアの味方でしかなかったのです。
しかし「異性愛再生産」の方が「小児性愛」よりも非道いとは言いも言ったりです。
「異性愛再生産」なんて言われてもよくわかりませんが、このワードは「異性愛強制」とでも読み替えてよいでしょう。斉藤師匠が「悪者が日本人をペドにしているのだ」と頑なに信じ切っているのと同様に、柴田師匠はドウォーキン同様、「悪者が日本人を異性愛者にしているのだ」と頑なに信じ切っているのです。
「小児性愛」が何故「おぞましい」かとなると、「実行しようとすると、必然的に子供へと強制することになる」からです。
しかし「異性愛も全て強制なのだ」と信じる柴田師匠はどっちもどっちだ、と考えているのです。一億歩譲って仮にそこまでが正しいとしても、よっぽど異性愛の方がマシだと思うのですが。
そして、考えればわかるように、これは「小児性愛」を「社会の強制だ」として、その考えを演繹させるうちに、「可愛い女性を愛でること」、即ち「異性愛」そのものを否定せずにはおれなくなった斉藤師匠と、実は「ごく一般的なセクシュアリティの否定」という点で、「完全に一致」しているのです。
端的には柴田師匠は「ペドは異性愛者と違うからエラい」と言っているだけに過ぎず、方や斉藤師匠は「ペドは異性愛者と同じだからけしからぬ」と言っているだけに過ぎないのですから。
これは丁度、オタクの理解者のように振る舞うリベラルが、一体オタクをどのような形で「兵器利用」しようとしているかを占う上でも、大変貴重な発言ですね。
*2「2015年までの柴田英里、わりとフェミニストみたいなことを言っていた/実際のストーカー事件に「少女漫画の罪」とも」
もちろん、この件を暴露されて以降、柴田師匠の株が下がったという話は聞きません。
*3 日本でも少年愛者の少年への加害をとがめた者がフェミニストから恫喝を受けることは(当ブログ読者には)有名ですが、海外のフェミニストも大人と子供との性交を肯定する傾向があります。これは一つには、彼女らがホモを正義と信じ切っているからであり、また彼女らの中にはレズのロリコンが一定層存在しているからです(だから恐らくですが、彼女ら的には異性愛者のロリコンはNGなんじゃないでしょうか)。
近年、それこそホモが病気じゃないことになったりで、何か、人権が何やらかんやらなので、セクシャルマイノリティを病気扱いするな、といった主張がかまびすしかったりします。
そんな流れに乗り、表現の自由クラスタはペドフィリアを担ぎ上げ、丁度LGBTの運動が同性愛を精神医学の項目から外した、即ち「政治的に働きかけて病気じゃないことにした」のと同様の運動を展開することを目的としているのではないでしょうか。
柴田師匠、白饅頭の幼稚で軽率な発言は、彼らがそうした社会運動のダシとしてペドを取り込むことを本格的に考えだしたことの兆候なのではないでしょうか。
いえ、そんなの偶然で、彼ら彼女らにそこまでの結束も深謀遠慮もないのかもしれませんが、どうにも近年、彼ら彼女らは異様にペドを「弾」として使いたがっているように、ぼくには思われる。
本当にオタク文化の表現の自由を守りたいのであれば、まず萌えオタがペドとは違うことを、強調するのが得策であろうに。
事実、斉藤師匠は恐らく、萌えオタとペドの区別がついていない。この種の人たちはその辺を混同したがる傾向がありますが、しかし同時に萌え表現がより以上に普及していくことで、この感覚は淘汰されるはずなのです。
そこを、何故か彼らはわざわざ危険な弾を拾いに行っている。
それとも、斉藤師匠的な論者が淘汰されてしまっては、彼らは商売のタネがなくなる。既にそうなりつつあることを肌で感じ取って、「次の弾」を血眼で探しているのか……?
正直、ぼくには「ペドに治療を強制すること」の正否はわかりません。また、ペドが病気か否かといった議論にも、何ら興味はありません。しかしそこまで彼らが「主体的に、ペドフィリアであること」を選び取ることをよしとするのであれば、「それにより差別される」リスクをも背負うのが当然、と考えるのが筋ではないでしょうか。
しかし、ペドをただ、「弱者兵器」として運用しようとするだけの表現の自由クラスタにとって、ペドは「弱者属性の塊」にしか見えていないのでしょう。
つまり、比喩的に言えば彼らはノアの方舟の乗船リストからオタクを消し、代わりにペドを迎え入れようとしつつあるのではないか、というのがぼくの疑問です。
いえ、今まで述べて来たとおり、まず果たして彼らの方舟がどれだけ頼りになるのか、否、彼らの信じる洪水が本当に来るのかが、極めて疑わしいとぼくは考えますが。
まあ、何にせよ、彼らの舟には乗らない方が……というのが今回の結論であります。
次節ではもうちょっとだけ、その辺りに突っ込んで論考を試みましょう。
・オタク界のトップの認知の歪み
※さて、ここから最後の節なのですが、これ以降はnoteで課金の上、お楽しみください。まあ、概ねの主張はここで終わっていますが……。
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