思春期に大きな影響を受けた2人の偉人の像に相次いで会えた。良寛さんと河井継之助。国上山、長岡、小千谷と、越後のど真ん中の人物に偶々惹き付けられていたことになる。しかし、実際に処世していく上で縁が無くなった。こう在りたいという方向に進んでいけるほど人間は幸せでない。長らく忘却して久し振りに邂逅すると、親しみ懐かしさが湧くより、相変わらず偉人として敬慕するだけだった。
諸国の文人墨客から尼さん、子供に至るまで広く愛された包容力、勢いの付いた新政府軍相手にどうやら負け戦らしいことに気付きながら一丸となって一泡吹かせた軍事統率力が、どういう風に人間に備わっていくのか、その器量の謎を知りたいとは思う。そんな物は密に群がる蟻や伝記作家の創造力の産物であると切り捨てても良いけれど、今生で唯一人田中角栄の人並み外れたパワーに接すると、作り話だけでも無さそうである。しかし、人間の内面から生まれるものか、時の弾みが作り上げていくものなのか、生身の人間が神として崇められた数々の歴史を踏まえても、謎のまま残りそうである。
越後では
米撞き捏ねて
鏡餅
鞠つき楯突き
人も鑑みに
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