昨夜、ツイッターで@runner933さんが明日の金沢ロードレ-スに出るとつぶやいてました。ツイートの中でコースを書いてはったんですが、地名をみても僕にはどこかわからんとつぶやいたら、彼が地図を添付したツイートをアップ・・・ええっと・・・んじゃ、おいら見に行かなあかんねんな、たぶん。w
早起きして見に行ってきましたよ。上の写真をご覧あれ!
さて、やっとドナルド・キーン改め鬼怒鳴門さんの『明治天皇』の三巻を読み終えました。この巻は明治15年からです。軍人勅諭を発して軍を『天皇の軍』とし、日清戦争から義和団の乱へと大陸で本格的な戦争を行うことになります。そして、アジア初の普通選挙による民選議会、そして、憲法の発布。外交では不平等条約『治外法権』の撤廃交渉が主な内容です。
戦争
武士階級ではなく広く国民から徴用された兵によって構成されてました。西暦663年の白村江の乱以来っすよ。あの時は朝鮮で惨敗しました。しかし、清国相手に連戦連勝。欧米では日本の方が弱いと考えられていたので、海外からは驚きを持って迎えられ、国民は平民出身の英雄が出る度にお祭り騒ぎだったようです。ただ、後の二次大戦で我が国が犯す失敗の前兆が早くも現れていました。ひとつは旅順で行った虐殺。このブログで呼んだ内容を書きたくはないので書きませんが、先に日本兵が惨殺されたからとはいえやりすぎてしまった。もうひとつは、山県有朋率いる第一軍が鴨緑江を渡って清国に入った時、兵站が伸びすぎたために大本営からそこに留まり営舎を設営するようにいわれたのに、勝手に進撃して海城まで至ってしまった。第二軍らの戦勝を知りあせったらしい。ここで清軍の反撃に遭い第一軍は劉大将の軍に包囲殲滅されそうになるのだけど、なぜか清国の司令部が劉大将の作戦を採用せず日本は敗北を免れました。日清戦争が勝ち戦だっただけに、反省を得ること無く50年後に大敗北を喫することになったと思う。この時、日本の大本営は広島にあり、天皇も広島にいました。この戦争には気が進まなかったそうです。宣戦の詔勅を公布した直後、「今回の戦争は朕素より不本意なり」と述べています。
この戦争の後、欧米に弱さを認識された清国は列強諸国にどんどん蹂躙されることになるのですが、中国民衆による義和団の乱が起きて清国人による反撃に遭います。これは清国政府も抑えることが出来ず、日本に助けを求めることになるのですが・・・・清国王からの新書の冒頭文が「大清国大皇帝問大日本国大皇帝・・・」で始まっていました。あちらから対等の扱いを受けたのです。日本から隋国の煬帝へ「日出處天子致書日沒處天子無恙云云」とこっちからため口をたたいて相手の皇帝を激怒させて以来、1300年以上経ってやっとです。ま、今更って感じですが・・・。
治外法権撤廃
日本にとってこの不平等条約の撤廃が悲願だったように習いましたが、日本国民の総意ではありませんでした。外国人も日本国内では日本の法の下に平等であるとすれば、彼らに住居の場所や経済活動等において平等にしなければいけません。それを恐れる日本人は少なくありませんでした。今だって、TPPの予備交渉に参加するかどうかだけでピーピー泣き言や降り掛りそうな不利益を述べ立てて対案もなく反対論をぶつ「立派な人たち」がいますよね。たぶん似た状況・・・。w しかし、当時の政府は外国に対する不安よりも外国と対等の立場を選択しました。今の政府とはエライ違いです。
実は、外国人も治外法権の撤廃を恐れていて、まともな法による裁きを受けられず、アジア人によって不当な逮捕や拷問を受けることを恐れていたそうです。しかし、意外と条約撤廃後は平穏にいったようで、これといったエピソードも無し。
二巻に出てきた若き明治天皇は伊藤博文や岩倉具視に譴責されたりもして国政に関わってきましたが、この三巻の時代になると、ことあるごとに大臣職を投げ出して難題から逃げようとする元武士階級の政治家達を叱咤する立場になります。病気と称して辞表を出されるたびに慰留したり代わりの者を検討しなければなりませんでした。日本の政治家がすぐにポストを投げ出すのは昔からの習い癖だったのですな。ただ、天皇だけはその地位を投げ出すことは出来ませんでした。
本日のお酒:KIRIN 麦のごちそう + 日栄 山廃仕込み + 雙喜 紹興酒
早起きして見に行ってきましたよ。上の写真をご覧あれ!
さて、やっとドナルド・キーン改め鬼怒鳴門さんの『明治天皇』の三巻を読み終えました。この巻は明治15年からです。軍人勅諭を発して軍を『天皇の軍』とし、日清戦争から義和団の乱へと大陸で本格的な戦争を行うことになります。そして、アジア初の普通選挙による民選議会、そして、憲法の発布。外交では不平等条約『治外法権』の撤廃交渉が主な内容です。
戦争
武士階級ではなく広く国民から徴用された兵によって構成されてました。西暦663年の白村江の乱以来っすよ。あの時は朝鮮で惨敗しました。しかし、清国相手に連戦連勝。欧米では日本の方が弱いと考えられていたので、海外からは驚きを持って迎えられ、国民は平民出身の英雄が出る度にお祭り騒ぎだったようです。ただ、後の二次大戦で我が国が犯す失敗の前兆が早くも現れていました。ひとつは旅順で行った虐殺。このブログで呼んだ内容を書きたくはないので書きませんが、先に日本兵が惨殺されたからとはいえやりすぎてしまった。もうひとつは、山県有朋率いる第一軍が鴨緑江を渡って清国に入った時、兵站が伸びすぎたために大本営からそこに留まり営舎を設営するようにいわれたのに、勝手に進撃して海城まで至ってしまった。第二軍らの戦勝を知りあせったらしい。ここで清軍の反撃に遭い第一軍は劉大将の軍に包囲殲滅されそうになるのだけど、なぜか清国の司令部が劉大将の作戦を採用せず日本は敗北を免れました。日清戦争が勝ち戦だっただけに、反省を得ること無く50年後に大敗北を喫することになったと思う。この時、日本の大本営は広島にあり、天皇も広島にいました。この戦争には気が進まなかったそうです。宣戦の詔勅を公布した直後、「今回の戦争は朕素より不本意なり」と述べています。
この戦争の後、欧米に弱さを認識された清国は列強諸国にどんどん蹂躙されることになるのですが、中国民衆による義和団の乱が起きて清国人による反撃に遭います。これは清国政府も抑えることが出来ず、日本に助けを求めることになるのですが・・・・清国王からの新書の冒頭文が「大清国大皇帝問大日本国大皇帝・・・」で始まっていました。あちらから対等の扱いを受けたのです。日本から隋国の煬帝へ「日出處天子致書日沒處天子無恙云云」とこっちからため口をたたいて相手の皇帝を激怒させて以来、1300年以上経ってやっとです。ま、今更って感じですが・・・。
治外法権撤廃
日本にとってこの不平等条約の撤廃が悲願だったように習いましたが、日本国民の総意ではありませんでした。外国人も日本国内では日本の法の下に平等であるとすれば、彼らに住居の場所や経済活動等において平等にしなければいけません。それを恐れる日本人は少なくありませんでした。今だって、TPPの予備交渉に参加するかどうかだけでピーピー泣き言や降り掛りそうな不利益を述べ立てて対案もなく反対論をぶつ「立派な人たち」がいますよね。たぶん似た状況・・・。w しかし、当時の政府は外国に対する不安よりも外国と対等の立場を選択しました。今の政府とはエライ違いです。
実は、外国人も治外法権の撤廃を恐れていて、まともな法による裁きを受けられず、アジア人によって不当な逮捕や拷問を受けることを恐れていたそうです。しかし、意外と条約撤廃後は平穏にいったようで、これといったエピソードも無し。
二巻に出てきた若き明治天皇は伊藤博文や岩倉具視に譴責されたりもして国政に関わってきましたが、この三巻の時代になると、ことあるごとに大臣職を投げ出して難題から逃げようとする元武士階級の政治家達を叱咤する立場になります。病気と称して辞表を出されるたびに慰留したり代わりの者を検討しなければなりませんでした。日本の政治家がすぐにポストを投げ出すのは昔からの習い癖だったのですな。ただ、天皇だけはその地位を投げ出すことは出来ませんでした。
本日のお酒:KIRIN 麦のごちそう + 日栄 山廃仕込み + 雙喜 紹興酒