冷たい空気が入ってきて不安定な天気でした。
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24日冷えた朝日中も多くの所できのうより寒く
今日は天候よりも心が不安定で、何をどうしていいやら・・・・でした。
24日冷えた朝日中も多くの所できのうより寒く
今日は天候よりも心が不安定で、何をどうしていいやら・・・・でした。
出勤してPCを立ち上げ、メールを起こすと西本先生の訃報がきてました。昨年の分子生物学会が福岡で開かれて、そこで西本研究室の元メンバーが集合して西本先生を囲む会にすごく誘われたんですが、僕はいけませんでした。後期は講義のない日がなく毎日詰まっていて、大学を1泊2日で空けるなんてとてもできない状況でした。最後にお会いできなかった。
西本先生に初めてお会いしたのは、サンディエゴでした。当時僕はテキサス大で働いててダラスに住んでました。(この際、実名で書きます)西本研究室にいた宇沢さんが辞めるというので、その後任を探していて、東大の東江先生に紹介を頼んだんですが、当時の東江先生は広島大学から移ってきたばかりで大学院生が育っておらず、東江先生が阪大の大嶋研に「誰かおらんか」と問い合わせて、米国で路頭に迷ってる僕が紹介されたのでした。阪大の原島先生からは「いいから帰ってこい」とのことでした。そこで、サンディエゴに学会で西本先生が来られると言うので、面接に行ってお会いしたのです。
米国では全然鳴かず飛ばずだったし、体調もずっと悪かったしで、九州大学でダメだったらもう研究の世界を離れようと思ってました。しかし、運が良かった。西本研究室は九大医学部でも指折りのビッグラボで、西本先生は国の科学研究費の特定研究「細胞周期」班の班長で資金は潤沢にありました。初めて組んでやってくれとあてがわれた大学院生は、生体防御研で先輩と喧嘩別れして移ってきた超九州男児少林寺拳法部の脳外科医横山さんでした。僕も若かったので、毎日のように喧嘩しながら実験してましたよ。そして、2年でNatureに論文が出せてしまった。まあ、横山くんは前の研究所でもScienceに論文出してたんで、ボンクの持ってきた実験系とはいえ彼の力だし、リバイスかかってからは西本研が総力戦でNatureに通してくれました。当時の競争相手はのちのノーベル賞学者ブローベルの研究室。彼らも同じものを追っていた。こちらの論文は、ほんとにギリギリで出すことができました。それで勘違いして、わたしゃ研究の世界にいつづけることになったんよ。自分の貢献はちっぽけなもんだったのにね。
西本先生の科学の世界での情熱は一言で言うと、「生き残るっ!」に尽きると思います。自分の研究室では力が足りないとなれば、共同研究先を求めて地球のどこへでも行く情熱がありました。実際、ドイツのEMBL、スイスのバーゼル大バイオツェントルム、英国のインペリアルキャンサーリサーチファンドのリンカーンインフィールド研究所とはしごをして、データを持って研究を売り込んで実験を依頼して歩く旅に同行した時に、彼の何としても生き残るためにこの研究をものにする執念を感じました(上の写真はハイデルベルクの広場でフルーツを買う西本先生)。20数年前の当時でも、メールで依頼するのが普通でしたが、彼は直に会わなければこっちの情熱が伝わらないという信念を持ってました。阪大大嶋研門下の先輩方はどちらかというと出不精で、自分で全部やろうとするんですが、全く対照的な研究者の姿を見せつけられました。
僕は今ひとりで研究してて、学会も行けたら行くって感じですが、それでも周囲の人たちに共同研究を持ちかけたり持ちかけられたりで、ほそぼそと研究生活をつないでいます。まだ「生き残るっ!」つもりなんです。
西本毅治先生、ありがとうございました。あっちへ行ったら昨年鬼籍に入った関口睦夫先生や平賀壮太先生とゆっくり存分に細胞周期の話をしてください。5年前がんで逝った横山さんにもよろしく言っといてください。
本日のお酒:菊姫 山廃純米 + 宮崎芋焼酎 虎斑霧島