サーティンキュー
Commented by マイケル at 2023-02-12 22:05 x
サーティンキューさん、お元気ですか、マイケルです。
こちら事情でそちらのブログへの訪問を控えているしばしの間に、世相の乱れは驚くほど進みました。
いや、現実世界のすぐ背後で癌のように増殖していた「 人間精神の退廃 」が、とうとうあちらで収納しうる臨界点を突破して、こちらの世界に雪崩れこんできたと見るべきでしょう。怒涛のように。
ルフィなる者の遠隔指令で行われた裏バイトとしてのネット殺人 ―――
実業に携わる傍らで、高額所得者の個人情報を単なる「 割りのいいアルバイト 」として、なんの罪の意識も持たずに闇名簿業者に流す、ごくフツーの堅気の会社員たち ―――
叩かれても叩かれても消えきらず、陰謀論&カルトの擬似空間に相変わらず居住しつづけ、コロナへの特効薬はアビガンやイベルメクチン以外はないなどという黒デマを御旗にして、ネットのたそがれ空間内で根拠なき正義を振り回す、この世の縁から滑り落ちた亡者たち ―――
ええ、サーティンキューさんのいわれる通り、いまの日本に「 地獄 」が現出してしまった、というのが僕の考えです。
文藝的な表現じゃないんですよ、これは正真正銘の、混じり気なしの、モノホンの「 地獄 」です。
よりキャッチーにいうならローマでしょうか。
愛する母国であるニッポンが、カリギュラやネロの頃のローマの貴族社会の退廃に、とうとう呑まれて胃のなかまで流しこまれちゃった、というべきかもしれない。
魂の退廃に限度はありません。
また、この退廃は、職業の貴賤を問いません。
有名実業家も、財界人も、政治家も、タレントも、市井の普通の市民も、派遣のアルバイターも、会社の正社員も、誰彼構わず「 白茶けて無感動な、金儲けと虚栄だけがステータスである、エゴイスティックな昔噺のような血の池地獄 」に叩きこまれてしまった。
金が神になれば、ひとの命なんてただの無関係な物質です。
そうした精神風土が、人の世のあらゆる仕組みと規範とを嘲笑い、自分たちだけに都合のいい、欲望と快楽だけの「 幻魔の神話 」をいよいよ作りはじめたんだな、と僕は思います。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
![マイケルさんへの返信 ~ 今が井上陽水の「氷の世界」の本番!_d0241558_08443994.jpg](https://pds.exblog.jp/pds/1/201909/29/58/d0241558_08443994.jpg)
★マイケルさん、こんにちは。戦前は広島と長崎に原爆が落ちて終わりましたが、今は本当に「人間の終わりの現象」が来ているように感じますね。簡単に「闇バイト」に応募して、仕事だと割り切って簡単に「強盗」や「老人殺し」をする。それもカネのために。それも数万円の世界。強盗した者たちも老人殺しの者たちも「騙された」だけ。この現象は「ウソの理想」を説いて若者たちを騙した池田大作や文鮮明の詐欺世界よりも下の現象ですよね。統一教会信者たちも創価学会信者たちも「ウソの理想」だが「理想」を信じて、人々や老人たちには優しかったわけで、数万円のお金で「強盗」したり「老人殺し」をしたりはしなかった。これ以上、日本人が下がると「ロシア軍の日本へ侵攻」「大地震」「経済恐慌」が来ると思いますね。
★今は「お金の問題」と「性の問題」がありますが、「性の問題」も酷いわけですよね。ホストに貢ぐために「朝・昼・夜」と売春する若い女性。そしてそんな若い女性を買う「梅毒オジサン」ですが、「梅毒オジサン」って、医者とか教師とか警官とか消防士とか「昼間」は立派な職業をやっていると推理できます。毎日、日本では「わいせつ犯」が出てきますが、政治家とか教師とか医者は「わいせつ犯」の常連の職業ですから。ホストに貢ぐために「朝・昼・夜」と売春してお金を稼いでいる女性も哀れだが、それを買う「梅毒オジサン」も「末法の末路現象」です。
★このような「末法現象」の中で生きていると「政治家が悪い!」とか云う気にもなれません。さて、1973年に札幌市の狸小路に狸大明神像が置かれました。1973年に井上陽水の「氷の世界」が大ヒットします。そして1973年に五島勉の「ノストラダムスの大予言」が大ヒットします。鷲は常にこのブログで「狸大明神像」の説明をしてますし、井上陽水の曲を常に貼ってます。そしてノストラダムスの大予言も当たっていた!ということです。五島勉は「1999年7月」を西暦だと勘違いした所が間違いですが、「人間の終わりが来る!」という予言は当たっていたと思います。
![マイケルさんへの返信 ~ 今が井上陽水の「氷の世界」の本番!_d0241558_12164855.jpg](https://pds.exblog.jp/pds/1/202301/29/58/d0241558_12164855.jpg)
![マイケルさんへの返信 ~ 今が井上陽水の「氷の世界」の本番!_d0241558_13011181.jpg](https://pds.exblog.jp/pds/1/202302/10/58/d0241558_13011181.jpg)
★鷲は井上陽水は「普通のシンガ―ソングライター」ではない!と思ってます。ユーミンや中島みゆきや吉田拓郎でもまったく敵わない。「氷の世界」というタイトルにしても【今】の世界を歌っていると感じます。井上陽水の「歌詞」は、鷲の表現では、「白い月の女神」から来た「大予言」だと思ってます。「ノストラダムスの大予言」の現代版が井上陽水の1枚目から5枚目のアルバムの60曲。それ以降は「声が変わってしまって、陽水に神通力がなくなった!」という感じを持ってます。60曲も良い歌を創ったからそれで十分な仕事を地上でしたと思ってますが。
★鷲は「狸大明神像」に憑依されてますから、ひたすら、「狸大明神像」を背後に「性エネルギー昇華秘法」を書いていくと者の自覚があります。しかし狸小路商店街の人々は、商売人だから、商売繁盛以上のことを考えることはできません。さて、今回の結論ですが、日本人がこれ以上「下がる」と「究極のヤバイ世界」に突入すると思いますね。若者たちは暴力で老人たちからカネを盗むとか、若い女性たちはホストに貢ぐために「朝昼夜」売春するとか究極に堕ちた世界が体現されてます。鷲が19歳の頃、横浜の黄金町や日の出町で見た「白塗りメリー」の全国的復元の世界が今の日本だと感じます。
![マイケルさんへの返信 ~ 今が井上陽水の「氷の世界」の本番!_d0241558_16444287.jpg](https://pds.exblog.jp/pds/1/201904/18/58/d0241558_16444287.jpg)
サーティンキューさん、素晴らしいアングルからの独創的な見解をありがとう!
ふたりして中学のころから陽水ファンだったというのも奇遇なんだけど、僕はかつて「夜」を歌った歌人のなかで、陽水っていうのは西行法師や天才・柿本人麿なんかと並びうる、日本文藝史でも有数な上席を占める、一種スペシャルランクな歌人であったと思っています。
陽水は夜のひとであり、夜の歌人です。
初期の「招待状のないショー」にしてから、夜への嗜好と憧れに満ち満ちていて、それが陽水という人間の主軸をなす要素であるということは、彼の歌を愛でるひとならば誰でも感知可能でしょう。
古事記によると、夜を支配する月読命(ツキヨミノミコト)は、死んだ妻である伊邪那美命(イザナミ)を諦めきれないで黄泉の国を訪れた伊邪那岐命(イザナギ)が、待望の再会を果たせず、失意のうちに海辺で行った禊(みそぎ)の際に生まれ落ちた3神のうちの1柱だということです。
黄泉の国にいって死んだ妻を取り戻せなかった伊邪那岐(イザナギ)の悲嘆が生んだのが、
太陽神である天照大神 ―――
夜を統べる者としての月読命 ―――
そして悪神なのか英傑なのか区別のつかない、あの勇猛な建速須佐之男命(スサノオノミコト)―――
陽水がこの3神中で月読命(ツキヨミノミコト)の直系であることは、誰の目にも明らかでしょう。
それくらい彼が彼の歌のなかに所有してる「闇」は、濃くて深いものです。
サーティンキューさんがよく引用される「能古島の片思い」にしても、あれは陽水にしては眩しいほどの光が乱反射する、珍しい太陽賛歌とも取れる歌なんですが、あれが歌われている舞台は、やっぱり日が落ちた後の夜の浜辺なんですよね。
まさに全盛期の陽水を象徴するような名曲です。
ですが、これを純粋な恋歌と呼ぶことは、僕にはできません。
これはやはり周りに闇が満ちているからこそ歌えた「鎮魂歌(レクイエム)」と呼ぶべきだ、と僕は思う。
構造的にいうなら、「招待状のないショー」や「ゼンマイ仕掛けのカブトムシ」「とまどうペリカン」「リバーサイドホテル」なんかと同じ系列。
夜です。夜なんですよ ――― それも社会性や通常の意味性から解き放たれた、純粋でアナーキーな常闇。
―――― 僕の声が君に届いたら ステキなのに。
このあまりに陽水的なサビの表現は、何気に書かれたものと推察されるだけに、陽水存在の基盤的構造を返って露わにしている、と僕は見ます。
陽水は、自分の恋の成就を全く信じてません。
というより、それが成就したらいいな、ともたぶん思っていないと思う。
「故郷は遠きにありて思ふもの。そして悲しく歌うもの。帰るところにあるまじや」と歌った犀星の嗜好が、やはり陽水の歌う夜に木魂して二重になって響いてもきます。
優れたシンガーである中島みゆきも夜を歌いますが、彼女の歌う夜は、あくまで昼の対蹠物としての夜なんです。
「悪女」にしても「別れうた」にしても「ミルク32」にしても、貫いているのは昼の論理の延長であり、歌中で歌われるどんな悲恋にしても、それらは恋の成就を願う極めて健康的なものであって、彼女のなかに純粋な夜そのものへの嗜好はたぶんありません。
陽水の中期のはじまりともいえるあの「なぜか上海」は、あれ、自分の立ち位置に自覚的な視点を持ちだした彼が、初めて公的な視点から発信した、夜の国の人間としての住民登録宣言だったのではないでしょうか。
夜は昼の論理を決して認めません。認めないし、信じもしない。
陽水が先天的に自分のなかに所有していた夜は、僕はあの銀河鉄道の宮沢賢治が所有していた夜と同じくらい、濃くて深い絶望を宿したアナーキーなものであった、と考えています。
それくらい彼が彼の歌のなかに所有してる「闇」は、濃くて深いものです。
サーティンキューさんがよく引用される「能古島の片思い」にしても、あれは陽水にしては眩しいほどの光が乱反射する、珍しい太陽賛歌とも取れる歌なんですが、あれが歌われている舞台は、やっぱり日が落ちた後の夜の浜辺なんですよね。
まさに全盛期の陽水を象徴するような名曲です。
ですが、これを純粋な恋歌と呼ぶことは、僕にはできません。
これはやはり周りに闇が満ちているからこそ歌えた「鎮魂歌(レクイエム)」と呼ぶべきだ、と僕は思う。
構造的にいうなら、「招待状のないショー」や「ゼンマイ仕掛けのカブトムシ」「とまどうペリカン」「リバーサイドホテル」なんかと同じ系列。
夜です。夜なんですよ ――― それも社会性や通常の意味性から解き放たれた、純粋でアナーキーな常闇。
―――― 僕の声が君に届いたら ステキなのに。
このあまりに陽水的なサビの表現は、何気に書かれたものと推察されるだけに、陽水存在の基盤的構造を返って露わにしている、と僕は見ます。
陽水は、自分の恋の成就を全く信じてません。
というより、それが成就したらいいな、ともたぶん思っていないと思う。
「故郷は遠きにありて思ふもの。そして悲しく歌うもの。帰るところにあるまじや」と歌った犀星の嗜好が、やはり陽水の歌う夜に木魂して二重になって響いてもきます。
優れたシンガーである中島みゆきも夜を歌いますが、彼女の歌う夜は、あくまで昼の対蹠物としての夜なんです。
「悪女」にしても「別れうた」にしても「ミルク32」にしても、貫いているのは昼の論理の延長であり、歌中で歌われるどんな悲恋にしても、それらは恋の成就を願う極めて健康的なものであって、彼女のなかに純粋な夜そのものへの嗜好はたぶんありません。
陽水の中期のはじまりともいえるあの「なぜか上海」は、あれ、自分の立ち位置に自覚的な視点を持ちだした彼が、初めて公的な視点から発信した、夜の国の人間としての住民登録宣言だったのではないでしょうか。
夜は昼の論理を決して認めません。認めないし、信じもしない。
陽水が先天的に自分のなかに所有していた夜は、僕はあの銀河鉄道の宮沢賢治が所有していた夜と同じくらい、濃くて深い絶望を宿したアナーキーなものであった、と考えています。
――― 夜は深い。夜は深い。落ちこむぞ、夜は深い。許し合う罪もない君と僕。(君と僕のブルース)
初期陽水がもっていた瑞々しくて凶暴なあの圧倒的な抒情は、彼が自分のそうした資質と戦って、あえて昼の国に居住しようとしたことから発した、いわば必然の葛藤であったと僕は解きたい。
僕はあえて「凶暴な」と書いたけど、本当は凶暴どころじゃないんです。
製材所ではときどき神社のご神木なんかも扱うことがあるそうなんだけど、その木のなかにときどき呪いの古釘なんかが埋まっていて、どんな固い木質も簡単に切断する特別性のカッターの刃が、そんな錆びついた華奢な古釘のために破損するケースがままあるというんです。
ええ、凶暴どころじゃない、昼の世界と正面から対峙した陽水の視線は、それくらい「禍々しくて不吉」なものです。
昼の世界にはほどほどの抑制というものがある。
けど、夜の世界にそんなものはありません。一度離陸した思いは、無限に常闇のなかを飛翔していくのです。
そんな陽水が昼の論理と真正面から闘いを挑んだのが、「傘がない」あるいは「氷の世界」といった歌であったのだ、と僕は思う。
あれら、歌じゃないですよね? かといってポエジーでもない。あれは、戦争だ。
陽水は詩人だから、言葉を剣にして戦った。昼の勢力は圧倒的だから、陽水の剣はあっという間にぼろぼろになった。
現在で戦っていると戦況が不利すぎるから、彼はときには過去に遡行したり未来に出向いていく必要があった。
陽水は実社会で使っている「統合された自己」を棄てた。
すると、アリスを不思議の国に導いたウサギの代わりに、陽水の窓辺には見たことのない林檎売りが現れた。
あるいは「雨」と「自殺についての新聞記事」が、それのための蝶番になった。
陽水は昼世界の論理と戦うために、自己をばらばらの破片に分解して、そのそれぞれに夜世界の歌を唄わせた。
伝説のローレライの歌のように、陽水の遣わした闇のソルジャーらは、昼の虚栄と欺瞞のからくりをことごとく破壊した。
陽水の歌が去ったとき、僕等は陽水の声により完全に変質してしまった、剥き出しの世界の本質を見せられることになった。
それは、無残なほど愚かで醜かった。
陽水のポエジーと美声に全ての虚飾を奪われた新世界は、時の流れに乗って逃亡する権利を奪われ、その場で凍結した。
陽水は自身に生じた歪みも気にかけずに、一心に歌いながら、ありのままの世界の実像を実際に見たのです。
世界の実像は、彼がかすかに予兆していたように、恐らく「ゼンマイ仕掛け」だった。
本質がそれなら、時の経過なんて無意味です。
変化のベクトルがあらかじめ閉ざされているなら、過去も未来も現在も同じことなんですから。
その意味において、陽水の歌を「予言歌」とするサーティンキューさんの視点は、圧倒的に正しいと僕は思います。
陰謀論、反ワク、反マスク、コロナは虚偽イベント・・・全てが「氷の世界」でした。
僕等が体験した司法の世界もおなじ ――― 「ゼンマイ仕掛けの正義」の進行機械に良心なんて生じるわけもありません。
彼等にとっては「狭い小さな世間での通常運行」がすべての責務であって、それに異を唱える存在は全部バグなんでしょう。
しかしながら、陽水についていささか書きすぎちゃいましたねえ。
肝心の「日月神示」まで行くスペースがなくなってしまった(笑)
というわけでこれから先は次記事の( 2 )でもって展開することにいたします ――— お休みなさい。
P.S 陽水が「傘がない」のなかで「行かなくちゃ、君に逢いにいかなくちゃ」と歌った君っていうのは、恋人とかそうした類いのものじゃなくて、本当の自分自身であったと僕は思うんです。僕にはほかのひとが持っている傘(自我の防衛装置みたいなもの)がない。だったら、生き延びるためにはそうしたシェルターの代わりとして、いまの自分を変質させることが必要だ。そこで誕生したのが中期以降の陽水。陽水は少年時代の無垢を棄て、大人になった。初期作である「いつのまにか少女は」は、若き陽水の無意識が未来の自身を透視した、一種の予言だったといえなくもないのかもしれません。
―――― だけど、春の短さを、誰も知らない・・・。
陽水はそれを知ってたんですねえ。誰もほんとはそんなこと知りたくないんだけど。彼の感性は速すぎる。怖いわあ。
僕はあえて「凶暴な」と書いたけど、本当は凶暴どころじゃないんです。
製材所ではときどき神社のご神木なんかも扱うことがあるそうなんだけど、その木のなかにときどき呪いの古釘なんかが埋まっていて、どんな固い木質も簡単に切断する特別性のカッターの刃が、そんな錆びついた華奢な古釘のために破損するケースがままあるというんです。
ええ、凶暴どころじゃない、昼の世界と正面から対峙した陽水の視線は、それくらい「禍々しくて不吉」なものです。
昼の世界にはほどほどの抑制というものがある。
けど、夜の世界にそんなものはありません。一度離陸した思いは、無限に常闇のなかを飛翔していくのです。
そんな陽水が昼の論理と真正面から闘いを挑んだのが、「傘がない」あるいは「氷の世界」といった歌であったのだ、と僕は思う。
あれら、歌じゃないですよね? かといってポエジーでもない。あれは、戦争だ。
陽水は詩人だから、言葉を剣にして戦った。昼の勢力は圧倒的だから、陽水の剣はあっという間にぼろぼろになった。
現在で戦っていると戦況が不利すぎるから、彼はときには過去に遡行したり未来に出向いていく必要があった。
陽水は実社会で使っている「統合された自己」を棄てた。
すると、アリスを不思議の国に導いたウサギの代わりに、陽水の窓辺には見たことのない林檎売りが現れた。
あるいは「雨」と「自殺についての新聞記事」が、それのための蝶番になった。
陽水は昼世界の論理と戦うために、自己をばらばらの破片に分解して、そのそれぞれに夜世界の歌を唄わせた。
伝説のローレライの歌のように、陽水の遣わした闇のソルジャーらは、昼の虚栄と欺瞞のからくりをことごとく破壊した。
陽水の歌が去ったとき、僕等は陽水の声により完全に変質してしまった、剥き出しの世界の本質を見せられることになった。
それは、無残なほど愚かで醜かった。
陽水のポエジーと美声に全ての虚飾を奪われた新世界は、時の流れに乗って逃亡する権利を奪われ、その場で凍結した。
陽水は自身に生じた歪みも気にかけずに、一心に歌いながら、ありのままの世界の実像を実際に見たのです。
世界の実像は、彼がかすかに予兆していたように、恐らく「ゼンマイ仕掛け」だった。
本質がそれなら、時の経過なんて無意味です。
変化のベクトルがあらかじめ閉ざされているなら、過去も未来も現在も同じことなんですから。
その意味において、陽水の歌を「予言歌」とするサーティンキューさんの視点は、圧倒的に正しいと僕は思います。
陰謀論、反ワク、反マスク、コロナは虚偽イベント・・・全てが「氷の世界」でした。
僕等が体験した司法の世界もおなじ ――― 「ゼンマイ仕掛けの正義」の進行機械に良心なんて生じるわけもありません。
彼等にとっては「狭い小さな世間での通常運行」がすべての責務であって、それに異を唱える存在は全部バグなんでしょう。
しかしながら、陽水についていささか書きすぎちゃいましたねえ。
肝心の「日月神示」まで行くスペースがなくなってしまった(笑)
というわけでこれから先は次記事の( 2 )でもって展開することにいたします ――— お休みなさい。
P.S 陽水が「傘がない」のなかで「行かなくちゃ、君に逢いにいかなくちゃ」と歌った君っていうのは、恋人とかそうした類いのものじゃなくて、本当の自分自身であったと僕は思うんです。僕にはほかのひとが持っている傘(自我の防衛装置みたいなもの)がない。だったら、生き延びるためにはそうしたシェルターの代わりとして、いまの自分を変質させることが必要だ。そこで誕生したのが中期以降の陽水。陽水は少年時代の無垢を棄て、大人になった。初期作である「いつのまにか少女は」は、若き陽水の無意識が未来の自身を透視した、一種の予言だったといえなくもないのかもしれません。
―――― だけど、春の短さを、誰も知らない・・・。
陽水はそれを知ってたんですねえ。誰もほんとはそんなこと知りたくないんだけど。彼の感性は速すぎる。怖いわあ。
氷の世界 - 井上陽水 1992 SPARKLING BLUE (日本武道館)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/04/20/acab96069299981af67d11da12680e75.png)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/4c/02/ac88e1e444db8425ef6956337d48788a.png)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/67/38/65e4271a03f569b11af7102b69ad47e4.png)