生まれてこの方、四六時中、どんな瞬間も逃さず、僕の耳に貼りついてくる言葉がある。
—――― 美しいもの、楽しいことを愛すのは人間の自然であり、ゼイタクや豪奢を愛し、成金は俗悪な大邸宅をつくって大いに成金趣味を発揮するが、それが万人の本性であって、毫も軽蔑すべきところはない。そして人間は、美しいもの、楽しいこと、ゼイタクを愛するように、正しいことをも愛するのだ・・・。
文士・坂口安吾の言葉だ。
あまりも率直であり、正義そのものを理想の神棚に飾ろうとする気配は微塵もなく、その上ここでの正義は、宗教的な見地からいうと一般的には悪徳領域に属するであろう贅沢や娯楽や成金趣味などと対等に語られてもいて、それはあたかも僕が家の近場に散歩にいったとき、春の野っぱらを見て、ああ、キレイだな、と普通に詠嘆するときのようにあやゆる力みから解放されており、そんな柔らかな自然体で歌うように語られる彼の正義は、あのジャンヌ・ダルクの聖女伝説よりも僕の耳にすーっと染みてくる。
この感触は、正義と対に分類されるはずの「 悪 」に対しても違和感をもたらすように働いて、最近の僕は、キリスト教の教義でよく使われる「 正義 vs 悪 」といった、いわゆるハルマゲドンスタイルの、ドラマチックな二元論図式もだんだんと身に添わない感じになってきた。
「 悪 」イコール「 鉄の軍団 」といった抽象図式が、どうにも腑に落ちないのだ。
「 巨悪 」という壮大すぎるイメージが、まず気に喰わなくてね・・・。
映画「 羊たちの沈黙 」の主人公であったレクター博士は、ほとんど悪の究極ヒーローといった趣きだったが、肩をいからせまくって僕等に迫ってきた多くの陰謀論者たちや、石垣陽介の不正を必死になって隠蔽しようとした数々の裁判官、書記官、事務官などの法廷での餓鬼じみた対応を思い起こすと、いやいや、レクター博士やディープステイトとかいう各々の巨悪の表現は、悪という存在をより劇的により面白く見せるための演出の工夫に過ぎなくて、ほんとの悪っていうのは、あんなにがっちりきっちりしたものじゃ全然ないぞ、僕等がこれまで実際に見てきたように、せせこましくて、臆病で、辻褄合わせもいい加減で、とっちらかっていて、無責任で、各々のエゴイズムから互いの連携すら取れてなくて、要するに果てしなく杜撰で、だらしなくて、みっともない性質のものなんじゃないのかな?
うん、みっともなくてみすぼらしい、存在自体が不潔であるとしか表現できないちっぽけなもの ――― というのが、僕の「 悪 」に対する最近の認識ワードなんだ。
西欧的な「 悪 」の鋳型は、あれはリアリズムじゃなくて、ロマンティックな誇張なんじゃないか。
なぜ、戦乱をあんなに多く経験したすれっからしの西欧が、これほどデフォルムされた「 正義 vs 悪 」図式の単純すぎる神話を必要としたんだろう?
「 巨悪 」といった概念のうちには、僕等の窺いきれない、不自然でいびつなトリックが仕掛けられている。
実際、この世の誰も「 巨悪 」なんて存在を生で目撃したことはない。
僕等が実際に見たり触れたりできるのは、悪世界の最前線にいる、出来損ないみたいな三下の足軽連中ばっかりで、僕等は彼等の発する腐臭に鼻をつまみながら、それにいくらか気圧されて、なんだ、この凄まじい連中は? こうした腐臭兵士をこれだけ駆りだせる権力を持っている誰かが、この軍団の背後にはいるのだろうか? と、ついつい忖度なんかしてしまう。
そう思わずにはいられないほど、対峙したときの彼等は醜いのだ。
僕等は偶然自分たちと対峙した、彼等・小悪のあまりの畜生ぶりに悲鳴をあげ、目前の個々の現実を拒否して、ロマンチックな架空の「 巨悪 」という概念についつい逃避する。
この逃避は嫌悪から生じる。目前の汚穢から目を背けたい衝動が、僕等の認識を微妙に濁らせる。
「 巨悪 」といった抽象的な逃げの概念は、リアルな悪と近距離で対峙して、間近から彼等の目のなかを覗きこむよりは少うし楽なのだ。
そのような無意識のメカニズムが、サタンというあの西欧独特のアンチヒーローを生みだしたんだ、と僕は思う。
サタンはある意味恰好いい。
けれども、サタンは詐欺なのだ。サタンの立ち位置は、僕等の理解力でも捉えきれるぎりぎりの「 社会的 」位置にいる。サタンはつまり「 社会的 」な存在なのだ。「 反社 」ではあっても社会内は社会内だ。
ところが実際の個々の悪というものは、ある意味、そうした位相を優に超えているものだ。
彼等は「 非社会 」存在の住人であり、彼等の言動には、僕等の世界において大事だとされている「 意味 」というものが一切欠けている。
彼等は、無意味の国の住人だ。
彼等は僕等世界のすぐ裏側にある虚無の国に住み、常に黄昏ているこの国のへりにある荒れ果てた廃屋の庭で、仲間であるマッドハンターや三月ウサギらとの終わりのないティーパーティーを、いまもって続けている ――― 手にしたカップのなかの紅茶はもう冷めきっているし、香りもとうに飛んでいる。そこで交わされる話題にしてもすでにに2万回ぐらい語られた耳タコ極まる退屈なもので、それを語るほうの瞳にも聴くほうの瞳にも生のきらめきはもう宿っていない ――― 遠いむかしに成長することを諦めてしまった人間同士のルーティーンがぐるぐると空転するばかりの、凍結してしまった時間のなかで。
「 無意味の国のアリス 」というのが、彼等の本当の名前なのだ。
そのような地点にまで考えが走ったとき、僕は2015年のある日、当時全盛であった陰謀論のヒーロー・リチャードコシミズ( 輿水正 )と西池袋の中華料理屋で、火鍋をつつきながらマンツーマンで交わしたある会話を思い出していた。
( 注:そのときは僕はまだリチャードコシミズ独立党在籍中。僕があそこを抜けたのは2017年4月2日の西池袋公園の花見接見のときでした )
—――― ねえ、リチャードさん、リチャードさんのいわれる話の肝はだいたい分かりました。しかし、なぜ、ユダヤ民族っていうのは、そこまで意固地に・・・いや、意固地じゃ足りないか・・・執念深くなってしまったんでしょう? 2000年むかしに自分たちが住んでいた土地がいまのイスラエルだからというのは事実なんだろうけど、世界基準からしてそういう理屈はやっぱり成り立たないのがスタンダードだと僕は思うんですけど・・・。それを無理強いするのが、信仰っていうものなのかなあ・・・。なんか、そのへんのリアルが僕には想像しづらいんですけど・・・。ねえ、リチャードさん、どうして彼等ってああなんでしょう?・・・あれほどの害意と怨みを抱えて、どうしてこれまで生きてこれたんでしょう?・・・こうしたかたちの危険な生を手放したいと感じたことは、きっと何度もあったと思う・・・でも、彼等はこうしたかたちの薄暗い、闇のなかを這いまわるような、四方八方敵だらけの地獄の生をあえて選んだ・・・僕にはそこが分かんない・・・ねえ、どうして彼等ってそうなんですか?・・・ねえ、彼等はどうした理由でそうなっちゃったんでしょう・・・?
そしたらリチャードさん、顎に手を当てて珍しく長考して、やおら顔を上げると、その白く濁った瞳をギロリと僕にむけて、ゆっくりとこういった。
—――― それ・・・苛められすぎたからじゃ、ないかなあ・・・?
それは僕が彼から聴いたなかで、最も説得力を感じた答えだった。
彼がいい終えた一瞬後、テーブル上の火鍋がバチバチっと弾けたことまで覚えてる。
僕には、どういうわけか、その問いが一般的なユダヤ問題の解答としてではなく、彼の個人史のふいの告白のように感じられて、その感知の了承のように鳴ったそのときの火鍋にもちょっとおののいたのだ。
上に挙げたリチャードコシミズだけに限った話じゃない。
僕等と縁を結んだ過去の多くの陰謀論者たちにしたって、彼等が自分たちの敵をやたら巨大な、世界のラスボスみたいな存在にわざわざでっちあげなくちゃいけなかったのは、ひょっとして現実世界で果てしなくド底辺にいる、絶望的な自分境遇への反動というか、そうすることによって自分が彼等と対峙することができるくらいの大物であるという、一種の心地よい錯覚を得られるから ――― というのが本当の動機だったんじゃないか?
陰謀論はそんな彼等にとって、過酷で苦しい現実からちょっとでもいいから目をそむけて安眠するための、「 甘えのドラッグ 」だったというわけだ。
無気力で怠惰で、生の寄りどころがなんにもなくて、喜びや憧れにも縁遠く、「 面白くない 」「 ムカつく 」「 ウザイ 」の三位一体を生活の基盤にして、人というよりはむしろ影のようなといったほうが近い、存在の臨界地点まで追いこまれてしまった陰謀論者は、だからこそそうした退屈地獄から脱獄するために、他者へのヘイトに常にいそしみ、その場その場の刺激と興奮から開始されたそんな彼等のヘイト花火は、歳月を経るたびにますます彼等を幸福から遠去ける羽目になり、最終的には、彼等はひとりぼっちの狭っちい牢獄に、さらにぎゅうぎゅうと押しこめられることになる。
—――― またしてもここかよ! またしてもまたしてもまたしても、か。・・・また、振り出しに戻っちまった。周りに誰もいなくなっちゃった・・・ああ、どうして俺はいつまでもこうなんだ・・・?
心が歪み、思い出も歪み、愛への希求も陽炎のようにゆらめいて、遂には枯れ果てる。
なんてこと、これじゃあまるでゴミ屋敷じゃないか。
働いて、なんとか喰って寝て糞するだけの、ひとりタコ部屋みたいなこんな毎日。
おかしい。こんなはずじゃなかった。
いいことも楽しいこともいくらかは絶対にあったはずなのに・・・。
ひとの記憶っていうのは固定されたものじゃなくて、日に日に更新変化していくものだということが最近の脳科学で分かってきた。つまり、楽しかったわずかな記憶も、そのひととの縁が切れてしまったあとは、もう綺麗な記憶ではなくなってしまうらしいのだ。親しかったひとが、いつのまにか自分を棄てた憎いキャラにすり替わってしまう。あらゆる記憶が、当初のきらめきを失い、硬直したミイラの遺体みたいな存在に変わり、あらゆる現実の仕草が、自分を世界から追放しようとたくらんで苛めにきているように思えてくる。たまんない。憎い。悔しい。面当てに、せめて自分を追いつめるそんな世間へ復讐したい・・・そのような思いは常に兆すのだが、追いつめられすぎたその人には、もはや世間がどのようなものであったかすら、すでに認知できなくなっている・・・。
僕は、自分とまったく無縁の異種の人間のことを語るようにこれらのひとたちを扱っているけど、もちろんこれらの人たちが僕等とまったく無縁の輩であると割り切ってしまうつもりはない。
そう、「 無意味の国のアリス 」は、当然僕等一般ピーポーとも地続きの存在である。
それの別称をあえて求めるなら、それはたぶん「 カオスピーポー 」みたいな呼称に落ちつくことになるだろう。
そして、いわずもがなではあるが、ここで再度念押ししておく ――― このようなカオス的な心理は、人間であるならば本来誰もが必ず持ち合わせているはずのものなのだ。
誰の心にもこうしたマイナス面はあるし、特定の現実を拒否りたい気持ちもある。
つまり、僕等一般人の内部にも、こうした「 無意味の国のアリス 」は確実に住んでいるのだ。
ただ、僕等には、自分内世界の「 大事なもの 」の優先順位と、外世界で「 大事だとされているもの 」の優先順位との区別ができている。
自分内世界の倫理と外世界で正しいとされている倫理とを混同するようなことは、まずない。
自分内世界で大事なものはあくまで自分だけの宝、そして、外世界で大切にされている他者のルールはそれとは全く別の大きなルールだとして、賛同はしなくともそれとの付き合いはあえて切らないというのが、通常人の生き方のスタンスというものだろう。
そのような政治力を駆使できるかできないかの有無が、僕等と「 無意味の国のアリス 」たちとの世界をこれまで隔ててきた。
けれども近年、内世界と外世界とを分別してくれていた、こうした世界枠の境界線が、いよいよもって決壊しはじめたのではないか、と僕は感じる。
陰謀論は全然有意義じゃない。
客観性は欠片もないし、整合性も、独創も、品位も、実証精神らしいものも何もない。
そうした没世界的な、危険極まりない「 魔 」の風が、SNSの匿名中傷といったツールに乗って、現実世界のあちこちを腐食させていく光景を、僕等はほとんど日常的に目にするようになった。
ビルの屋上から飛び降りる際に、目標とする地上の舗道に自分がぶつかれる誰かが歩いていやしないかと見探るような、いびつな心理。
自分が滅ぶなら、いっそのこと自分を殺した世界ごと巻きこんで地獄へ連れていってやりたい、といった歪んだ願い。
卑しさと怨み。孤独と妬み。自閉と憎悪とが競いあうこの絶妙なバランスゲーム。
マウントを取れば取るほど深まっていく絶望の濃度。
餓死という悲惨が根絶された、夢の21世紀のニッポン物質社会のただなかで、かつての貧困時代と同じか、それよりも遙かに重い、このような絶望の病が蔓延していくなんて一体過去の誰が予測しただろう?
現在の僕は、陰謀論とは「 自分のアイデンティティーを持たないひとが、さもアイデンティティーを持っているかのように装い、ふるまうための化粧道具のようなもの 」として認識している。
よりぶっちゃけていうなら、それは、政府や体制やリア充他者に対してもの申す際の「 決め啖呵 」を多数例掲載した、一種のアンチョコ集みたいなものだ。
日本のカーストの最底辺にいるひとが、こんな自分でもいっちょまえの論客みたいに、社会や他者に対して自身たっぷりかつ堂々と批判がいえるんだ! ――― といったような錯覚構造が、陰謀論って商売の最大の売りなのよ。
世の中に対する憤懣は常に溢れんばかりなんだけど、とぎれとぎれの情念単語しか呟けない多くのひとに、つまり陰謀論というツールは言葉をレンタルしてくれたわけだ。
サリバン先生に手に水をかけられて、初めて言葉と世界との接点に気づき、ウオーラー! と歓喜の声をあげた幼少時のヘレン・ケラーみたいなもん。
こら、当たるぜ ――― そりゃあ!
ただね、あくまで啖呵の判例集なんだから、これ、完璧な一本通行なのよ。いっちょまえな啖呵ならなんとか切れるようにはなったけど、これで実地のちゃんとした会話は絶対にやれないんだよね。そもそも会話ができないひとに「 君もこうした世界の裏を知ったら誰からもマウントを取れる!」なんていって売りこむこと自体が無茶なんだ。会話がやれない人間にマウント取りなんてできっこない。陰謀論者のマウント取りのいきがりポーズは、所詮、自閉したヒッキーの自爆演劇でしかないんだ。世間人の多くはそうした真相にすでに気づきはじめている。
✖ ✖ ✖ ✖
結局のところ、陰謀論というのは、世間から弾かれたひとたちの何百万もの絶望が編みあげた、悲しくて淋しい呪詛であったんだ、と僕は思う。
ところがそんな不幸の仔である陰謀論が這い通った土の跡から、親とは全く異なる、思わぬ花々がちらほらと咲きはじめたじゃないか。
怨みの種が芽を吹いて、思わぬ綺麗な花になり、それがこれほどでっかいめくり劇になるなんて、全くの話、意外性ありすぎだよねえ。
前記事にも挙げた第3世代の陰謀論者・つばさの党の黒川敦彦の選挙妨害による逮捕劇 ―――
マスコミとTV局と芸能事務所とが共同して、児童性加害の事実を長年隠蔽し続けてきたあの闇深いジャニーズ事件のふいの発覚 ―――
死刑囚として半世紀以上拘留されていた袴田巌冤罪事件の、司法による思いがけない再審決定 ――—
ステージ4の癌を告知された森永卓郎氏が世に出した、日航機123便墜落の真相と日本最大の闇ともいえる財務省問題の暴露 ――—
それから、これらの超・特大事件からするとかなり目劣りするんだけど、僕等がいま取り組んでいる、石垣陽介裁判官が公文書に残した108つの誤記と裁判調書改竄の追及裁判に関する大問題 ――—
上記の記事見て、あなたはどう思った? 地裁の裁判官の押印がひとつ欠けているだけで差し戻しとはステキだよね!
でもね、これが当然なんだし、司法が呈す正義っていうのは、元々こういう当然行動を粛々と行うだけのことなんだよ。
これに比べると、石垣陽介裁判官が公文書である判決文のなかに108つの誤記(!)を残し、さらには裁判調書という公文書にも改竄を施してまでいたのに、石垣陽介以下一審の丹下友華裁判官がこれを擁護し、さらには2審の谷口園枝裁判官までがこれに追随し、彼女ら2人以外の多くの裁判官がさらに司法の威厳のためにそれぞれ苦慮し、僕等の3333号関連の事件を揉み消そうとした、というのがどんなに異様で異常な出来事であったのか、というのが誰にでも容易に理解できると思う。
「 印鑑ひとつの欠落 」と「 108つの誤記プラス裁判調書改竄 」とでは、どっちが悪いのか?
あえて問うまでもないことだ ――— 年端のいかぬどんなベィビィーにだってそんなことはすぐ分かる(笑)
ただ、これがこんなにでっかい事件に成長した要因としては、僕を集団訴訟で5年間も訴え続けてくれた、リチャードコシミズ門下の残党さんたちの執念と粘りとがやっぱり欠かせない必然条件だったんだよね。
彼等・残党たちが傍聴席から口汚いヘイト野次をさんざん飛ばしてくれたおかげで、独立党関連の僕の裁判にあれだけの特別警備がつき、そのピリピリとした危険な空気に煽られたからこそ石垣クンもあれだけよろめいて、杜撰でデタラメ極まる超・迷判決を書いてくれたわけなんだから・・・
僕等はそのような彼等に感謝して、石垣陽介のなした不正をあくまで追求し続けようと思う。
それが僕等のいま現在の正義なんだ。
正義っていまの時代的にいうと全然流行らないし見栄えもしないものなのかもしれないけど、そんなのはいいのよ、いいの!
世情も、流行も、金も、名誉も、そんな雑多もどうだっていいのよ ――— どうだって!
僕等はあくまでもクールに、僕等の魂の導くままの明日へ進みたい。
今日の僕の記事は以上です ――— お休みなさい。 (了)
カッ飛べ! これが石垣誤記だ(# ゚Д゚)
また翔べ! これが石垣調書改竄だΣ(・□・;)
★ 石垣さんも丹下さんも裁判官なんだから、地裁隣りの法務省赤レンガ棟を入って右手の「 越前碑 」を
参拝したことがあるはずです。そのときの自分の初心を思い出してほしい。あなた方はあの頃の自分に
いま向きあうことができますか? 目を反らさずに微笑みかけることができますか? そのへんのこと
をいっぺんよく考えてみてください。