60年代を代表するマンガをふたつ選べといわれたら、ねえ、貴方ならどうします?
僕のセレクトは超・簡単です---梶原一騎&ちばてつやコンビの「あしたのジョー」と永井豪の「デビルマン」。
躊躇なし、迷い等一切なしのクイック選択です。
つげ義春さんだとか手塚治虫さんとか、きらめくようなあまたの才能はほかにも多く見つけられるんですが、60年代という「時代」をいちばんよく作品内に映しこんでいるのは、やっぱりこの2作に尽きるんじゃないでせうか。
永井豪の「デビルマン」は、厳密にいえば70年代初頭の作品ではありますが、作品内に封じこめられたあの異様な熱気は、まちがいなく60年代特有のものです。
60年代という「夏」---安保闘争があり、学生運動があり、フラワームーブメントやロック、そして、あの伝説のウッドストックがあり---いろんな夢が次々と駆け去ってゆき、無垢で凶暴なシュプレヒコールが、巷のあちこちで若々しく鳴り響いていたあの時代…。
そうした時代の純粋な熱気が、僕は、この2作に集約されて盛られている、と思うんですよ。
なによりこの2作には、あの「イージーライダー」や「俺たちに明日はない」などのアメリカン・ニューシネマと共通する、苦い挫折の香りがプンプンしています。
永井豪さんの70年代以降のあの失速は、60年代の使徒としての役割を果たし終えたあとの当然の帰結でせう。
あの勢いのまま走りつづけていたら、たぶん、永井の豪ちゃんは、もういまごろはこの世にはいなかったんじゃないかな。ジミヘンやジャニスの仲間入りをして、あっちの世界に殿堂入りしていたような気がします。
もうひとつの60年代代表作品、梶原・ちばてつやコンビの「あしたのジョー」にしても、やはりそっちがわの危険地帯寄りの、ある意味ぎりぎりの作品でした。
この劇画のなかでは、誰もがのたうってます。
のたうって、うめいて、歯ぎしりして、だけど、懸命に、這いずりながらもなんとか歩いてる。
主人公の矢吹丈、ライバル役の力石徹しかり、中盤の重要な繋ぎ役であるところのカーロス・リベラや金竜飛はいわずもがな、脇役である西に八百屋の紀ちゃんまでもが、日々苦闘しつつ、熱っくるしく、等身大のリアルさで生きている---しかし、僕がこのマンガを読むたびに常に気がいくのは、なぜだか「あしたのジョー」の数少ないヒロインのひとり、白木ボクシングジムの会長であるところの白木葉子さんなんだなあ。
白木葉子---白木財閥のご令嬢。
大財閥のひとり娘であるにもかかわらず、驕りたかぶることもなく、少年院の劇団ボランティアなどの福祉活動にも熱心な彼女は、その生来の美貌のもたらすクールな魅力とあいまって、「あしたのジョー」という泥臭い人情劇のうちに、それらと相反する一種の風穴のような、ある意味特別な立ち位置を与えられています。
デッサンに喩えるなら、そうですね、白木葉子は「影」なんですよ。
繊細で克明な「影」で細部まで隈取るから、石膏像は、あれほどリアルな質感を伴って見えるというあの理屈。
要するに、白木葉子という「影」が、ジョーや力石といった「光」のキャラを、あれほど魅力的に、まぶしく輝かせていた主犯なんじゃないか、と僕はまあ読みたいわけ。
----えーっ、そこまで白木葉子を重要人物扱いするっていうのはどうかなあ? たしかに、重要じゃないとはいわないけど、そこまであのキャラをもちあげて見るっていうアナタの意見はどうかと思うよ。
というような反対意見の方がおられたら、ためしに「あしたのジョー」というドラマ全体から、一種の思考実験として、この白木葉子というキャラを全て抜き去ってみたらいいよ。
すると、ねえ、どうです?
「あしたのジョー」全般が、なんとも暑苦しい、いかにも野暮ったいだけの三流ドラマに、たちまちのうちに色あせていくのが体感できるのではないでせうか。
そう、彼女がいなければ、「あしたのジョー」は、ただの野犬の群れのボス争いの単純ドラマでしかない。
ドヤ街ではじまり、特等少年院で終わる、せいぜいが全5巻くらいの規模の物語として完結していたことでせう。
特等少年院のなかの野犬同士の私的な噛みあいを、公共の「ボクシング」という場所につれだしたのは、やはり、白木葉子というキャラの介入が大きかったのではないでせうか。
むろん、力石とジョーとの試合を「ボクシング」としてやらせようと最初にいいだしたのは、あの「おっちゃん」こと丹下段平氏にちがいありません。
しかし、彼のそんな思いつきと紙一重のとっさの提案に対し、すかさず「リング」の提供を申し入れ、レフェリーの人選まで請けおったのは、誰あろう、やっぱりほかならぬ彼女---あの白木葉子だったのでありました。
彼女なしじゃ、リング自体どうにもならなかった。
それに、彼女という「権威」なしじゃ、あの特等少年院が院生同士のボクシング試合なんて許可するはずがない。
すなわち、ジョーの最初のボクシングの舞台をしつらえたのは、まちがいなくこの白木葉子だったのです。
彼女は、物語の超・最初から、常にジョーというニンゲンにまっすぐ目をむけ、ジョーの闘いに「社会性」を与えようとしつづけてきたのです。
僕は、以前から、「あしたのジョー」といういわゆるボクシング漫画を、一大恋愛ドラマとして読むことも可能なんじゃないか、と思っていました。
だって、白木葉子さんって、僕にいわせるなら、ほとんど見え見えの、すっげー分かりやすいキャラしてるんだもん。
ジョーの最後の試合のまえの控え室で、彼女は、自分が長年したためてきた恋心をジョーに告白しますが、この恋が生まれたのは、僕は、物語のそうとう初期からだったと感じますね。
下のコマは、特等少年院の慰問の芝居で、白木葉子が演じた「エスメラルダ」の偽善性をジョーが暴露した一コマですが、僕は、もうこの瞬間から、白木葉子のジョーへの恋ははじまっていたのでは、と睨んでいます。
白木財閥のひとり娘の白木葉子に、これまでこんな露骨な批判をした人間は誰もいなかったのではないのかな?
葉子のこの表情は、そんな驚きと恐怖をともに感じているようにも見えます。
それまで、白木葉子という少女は、ずーっと抽象的なお伽の国の王女サマだった、と思うんですよ。
自分を批判する人間なんて誰もいないし---そりゃあそうだ、だって、非難したら損ですもん(笑)---自分の慰問活動が、高みから投げつける傲慢な「恵み」であるなんてことは恐らく考えてもみなかったのでせう。
でも、ジョーは、そこに気がついた。
いや、象牙の棟なんてものにははなから縁もゆかりもない、リアルの国の底辺住人のジョーからしてみるなら、そんな葉子の無意識の偽善的行為がなにより鼻についてしまった。
そして、そのとりすました葉子の満足顔が、とにかく我慢ならなかったんですね、ジョーは。
言葉のひとではなかったけれど、ジョーは、うその匂いには敏感でした。
演劇のためとはいえ、頑丈に見えるからといって「おっちゃん」を舞台の上で本物の鞭で打たせるという演出に、なんともいえない冷血の匂いを嗅ぎとった。
だから、否定したんです---めいっぱい誠実なジョーなりの表現でもって。
野良犬同然の身の上のジョーには、財産といったらそれしかなかったんです---その拳と「誠実」さだけしかなかった。
でも、その飾りのない率直さは、当時の葉子のまわりにはないものだったのです。
で、表現こそ乱暴だったものの、聡明な葉子の胸に、ジョーのこの言葉の裏の「誠実」はちゃんと届いていたんですね。
ええ、白木葉子は、このとき、たしかにジョーの「誠実」に触れ、打たれていたのだと思います---。
葉子のジョーへの思いというのは、恐らく、この時期に芽吹いていたにちがいありません…。(^.^;>
そう、そのクールな美貌と端正な佇まいについ目くらましされちゃうんですけど、この白木葉子って女、芯の部分は、意外とガチで熱いんですよ。
そのうえ、狡くない。狡さを駆使するならいくらでもできる立場なのに、いつだって直球で攻めてくる。
もっとも、ジョーへの恋心を自覚するホセ戦以前では、その自身の恋心を自覚できないまま、心の鎧戸の隙間から「ジョーを思慕する念」がプスプスと強烈に漏れでているので、その休火山めいた風情が、僕的にはちょっとたまらないものがある。
いいんですよ、この時期の葉子さん---「ジョーが好き」って無意識が、背骨沿いにオーラになって「むみょーっ」と立ちのぼっているの。
本人はそのことを自覚してないし、まわりだって全然気づいちゃいないんだけど。
でも、僕は、この時期の葉子さん、とっても好きなんだよなあ。
このころ、葉子さんはジョーといっしょになる機会があれば、さりげなく、でも積極的に、必ず自分のほうから誘いをかけているんですよ、実は。
ボクシングの試合の合間にさりげなく置かれている場面場面だから、あまり目立たないんだけど、これらのシーン、「あしたのジョー」という漫画の奥行を深めるためにとても寄与している、と思うな。
後年の劇画「愛と誠」でも梶原さんはこれとおなじ技を使おうとしてらっしゃったけど、残念ながら、典型的男性である梶原さんが力めば力むほど、恋愛表現は固く、理窟っぽくなっていっちゃった。
「あしたのジョー」でそのほのかな恋愛表現が成功したのは、やっぱり、これ、共作者であるちばてつや先生の功績でせうね。
ちば先生の、この繊細で控えめなデッサンがあったから、「あしたのジョー」は漫画の古典として、ここまで生き残ってこれたんじゃないでせうか。
まあ、そのへんの屁理屈はこの際どうでもいいや---白木葉子のジョーへの思慕を表したと思われる名場面を幾コマかUPしてみましたので、まずはそれらを実際に御覧ください---。
うひょーっ、攻めるわ攻める、葉子さん…!
左上が「あしたのためのその1:ジャブ」で、右上は、「あしたのためのその3:ストレート」って感じでせうか。
いいよー、葉子、とてもいい…、ポイント、まちがいなく取ってるよー。
ここまでストレートに勝負かけてくれてると、頑張ってるなあ、偉いなあ、と素直に応援したくなりますね。
この2コマを読んで、葉子さんの秘めた思いに気づかないような朴念仁は、さっそく当記事を読むのなんかやめて、とっととほかにいっちゃってくださいな、と僕はいいたい。
だって、この葉子さんの誘い、超・勇気あるんだもん。
あのボクシング馬鹿のジョーにですよ、フツーなかなかこんなこといえないよ。
でも、葉子さんって躊躇しないんですよ、恋愛経験の少ないお嬢さんなのは事実だとしても、深窓の令嬢なんておとなしいタマではとてもないですね、うん、勇気ありますよ、彼女ってば。
そのようなめげないアクションが幸いして、葉子さんとジョーは、実は作品中でいちどだけ、短いデートをしてるんですね。
ソムキッド戦のあとの「矢吹丈 連戦戦勝祝賀パーティー」ってヘンなパーティーのあと、ふたりして食事にいって、ボーリングにいって、ハイソな飲み屋にもちょっと寄って---。
次のコマは、そのボーリング場でのシーンです---。
心ある読者さんなら、ここでの葉子さんが異様にテンション高く、はしゃいでいるのが感じられるかと思います。
----はい、つぎは矢吹クンの番よ…。
という葉子さんの言葉の語尾にかかった、この絶妙なヴィブラートをお聴きあれ。
僕あ、このコマ見るたびに、胸がなんか焦げそうになる。
ふたりきりになれた喜びと悲哀と---ああ、切ないっスねえ!
ジョーはあいかわらずボクシングのことしかアタマになく、葉子のことを白木ボクシングジムの会長としてしか見ていない。
むろん、葉子さんにしてもそんなことくらいは分かっているんです、分かっちゃいるんだけど、ジョーとふたりきりで外出できたことが嬉しくて嬉しくて、その嬉しさを自分でも完璧にコントロールしきれてない。
で、いつもとちがって、ちょっとばかしうわずってるわけなんです。
いつものクールな社会的鉄仮面の後ろから、少女らしい喜びの微笑が、ことこととこぼれでてきてる。
うーん、素顔を隠しきれてないのよね、けど、ここでの葉子さんの失態は、僕は、個人的に、超・可愛いなあって思います…。
× × ×
しかし、多くの方が知っていられるように、葉子さんのこの恋は実りませんでした。
葉子さんの告白に対し、ジョーは最後のホセ戦で使用した、血みどろでボロボロのグローブを与え、その直後すぐに死んじゃって、「あしたのジョー」というドラマはそこで永遠に完結します。
けどね---僕は---ごくたまに…この物語のその後のことを考えたりもするんですよ。
ただ、そのとき考えるのは、丹下ジムのその後のこととか、紀ちゃんと西の結婚生活がどう展開するかとか、そんなことじゃない、僕が考えるのは、なぜだかいつも白木ジム会長の、この白木葉子さんのことなんです。
----ああ、そういえば、あの葉子さんったら、いまごろどうしてるのかなあ…?
非常にオタッキーな酔狂さかもわかりませんが、特に葉山のあたりをクルマで走っているとき、この手の疑問が脳内に去来することが多いようです。
葉山の海を見ていて、そんな疑問がいつもやってくるわけだから、きっと、いま現在、白木葉子さんもきっとこの葉山の海の見える場所にいるのにちがいない…。
と、ながら運転中の僕はなんとなく思います。
----60年代後半に20代前半だったとすれば、いまの葉子さんの年齢は、だいたい70代中盤から80くらいか…。
葉子さんは、ジョーの没後、どうしたんだろう?
どう生きて、いまは何を感じているんだろう?
で、これ以降は、なんの根拠もない、僕個人の空想ね---。
◆1:白木葉子はジョーの没後、一時期狂ったように白木ジムの経営拡大に奔走するが、あるとき、ふいに気が抜けたようになって白木ジムの会長の座を降り、祖父・白木乾之助の勧める旧華族の青年と結婚する。
◆2:しかし、わずか1年で離婚。財団を設立して、アジアに出て、戦災孤児の保護・救援のための活動をはじめる。
◆3:財団の活動は軌道に乗り、イタリアの財団と組んでアフガニスタンの地雷除去の活動もはじめるが、折りわるくタリバンと米国との戦争がはじまり、政府から財団活動の休止と帰国とを示唆される。なんとか踏みとどまって、活動をつづけようとしていた折りに、財団の本部が米軍のミサイルにやられ大破。財団メンバーの大半が死亡。葉子自身も怪我を負い、傷心のうち帰国。
◆4:帰国後の白木財閥は、祖父の乾之助亡きあと、勢力図がすっかり変わっていて、葉子は親族のなかで孤立してしまう。そして、2002年、都内某所で講演中、脳梗塞で倒れる。
◆5:2007年、それまで入院していた都内の病院から本人の希望で、神奈川・葉山にある、超・高級介護付き老人ホームに移り住む。そこの特別室から午後の海を眺めるのが、最近の葉子のいちばんのお気に入りの娯楽である。そして、彼女のいる居室の東側の壁には、常にあのジョーの古びたグロ-ブが大事そうに掛けられているという…。
もー こーなるとほとんど妄想の域なんですけど、葉山の海を見ながら運転している一瞬のうちにそんな葉子の歴史を空想して、なぜだか感激---思わず涙ぐんで、ハンドルをぎゅっと握りなおしたりもする---いくらか空想多過でよろめき気味の、最近の僕なのでありました…。
---fin(^.^;>
2012-11-11 21:59:34 |