ザ・マイケルブログ!

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☆ 白木葉子の恋(「あしたのジョー」ヒロイン)☆

2023-03-13 23:54:40 | 無垢で平和(ピンフ)な文藝習い
            


 60年代を代表するマンガをふたつ選べといわれたら、ねえ、貴方ならどうします? 
 僕のセレクトは超・簡単です---梶原一騎&ちばてつやコンビの「あしたのジョー」と永井豪の「デビルマン」。
 躊躇なし、迷い等一切なしのクイック選択です。

 つげ義春さんだとか手塚治虫さんとか、きらめくようなあまたの才能はほかにも多く見つけられるんですが、60年代という「時代」をいちばんよく作品内に映しこんでいるのは、やっぱりこの2作に尽きるんじゃないでせうか。

 永井豪の「デビルマン」は、厳密にいえば70年代初頭の作品ではありますが、作品内に封じこめられたあの異様な熱気は、まちがいなく60年代特有のものです。

 60年代という「夏」---安保闘争があり、学生運動があり、フラワームーブメントやロック、そして、あの伝説のウッドストックがあり---いろんな夢が次々と駆け去ってゆき、無垢で凶暴なシュプレヒコールが、巷のあちこちで若々しく鳴り響いていたあの時代…。


 そうした時代の純粋な熱気が、僕は、この2作に集約されて盛られている、と思うんですよ。

 なによりこの2作には、あの「イージーライダー」や「俺たちに明日はない」などのアメリカン・ニューシネマと共通する、苦い挫折の香りがプンプンしています。

 永井豪さんの70年代以降のあの失速は、60年代の使徒としての役割を果たし終えたあとの当然の帰結でせう。

 あの勢いのまま走りつづけていたら、たぶん、永井の豪ちゃんは、もういまごろはこの世にはいなかったんじゃないかな。ジミヘンやジャニスの仲間入りをして、あっちの世界に殿堂入りしていたような気がします。

 もうひとつの60年代代表作品、梶原・ちばてつやコンビの「あしたのジョー」にしても、やはりそっちがわの危険地帯寄りの、ある意味ぎりぎりの作品でした。

 この劇画のなかでは、誰もがのたうってます。
 のたうって、うめいて、歯ぎしりして、だけど、懸命に、這いずりながらもなんとか歩いてる。

 主人公の矢吹丈、ライバル役の力石徹しかり、中盤の重要な繋ぎ役であるところのカーロス・リベラや金竜飛はいわずもがな、脇役である西に八百屋の紀ちゃんまでもが、日々苦闘しつつ、熱っくるしく、等身大のリアルさで生きている---しかし、僕がこのマンガを読むたびに常に気がいくのは、なぜだか「あしたのジョー」の数少ないヒロインのひとり、白木ボクシングジムの会長であるところの白木葉子さんなんだなあ。


 白木葉子---白木財閥のご令嬢。

 大財閥のひとり娘であるにもかかわらず、驕りたかぶることもなく、少年院の劇団ボランティアなどの福祉活動にも熱心な彼女は、その生来の美貌のもたらすクールな魅力とあいまって、「あしたのジョー」という泥臭い人情劇のうちに、それらと相反する一種の風穴のような、ある意味特別な立ち位置を与えられています。 

 デッサンに喩えるなら、そうですね、白木葉子は「影」なんですよ。

 繊細で克明な「影」で細部まで隈取るから、石膏像は、あれほどリアルな質感を伴って見えるというあの理屈。
 要するに、白木葉子という「影」が、ジョーや力石といった「光」のキャラを、あれほど魅力的に、まぶしく輝かせていた主犯なんじゃないか、と僕はまあ読みたいわけ。

----えーっ、そこまで白木葉子を重要人物扱いするっていうのはどうかなあ? たしかに、重要じゃないとはいわないけど、そこまであのキャラをもちあげて見るっていうアナタの意見はどうかと思うよ。

 というような反対意見の方がおられたら、ためしに「あしたのジョー」というドラマ全体から、一種の思考実験として、この白木葉子というキャラを全て抜き去ってみたらいいよ。
 すると、ねえ、どうです?
 「あしたのジョー」全般が、なんとも暑苦しい、いかにも野暮ったいだけの三流ドラマに、たちまちのうちに色あせていくのが体感できるのではないでせうか。

 そう、彼女がいなければ、「あしたのジョー」は、ただの野犬の群れのボス争いの単純ドラマでしかない。

 ドヤ街ではじまり、特等少年院で終わる、せいぜいが全5巻くらいの規模の物語として完結していたことでせう。
 特等少年院のなかの野犬同士の私的な噛みあいを、公共の「ボクシング」という場所につれだしたのは、やはり、白木葉子というキャラの介入が大きかったのではないでせうか。
 むろん、力石とジョーとの試合を「ボクシング」としてやらせようと最初にいいだしたのは、あの「おっちゃん」こと丹下段平氏にちがいありません。
 しかし、彼のそんな思いつきと紙一重のとっさの提案に対し、すかさず「リング」の提供を申し入れ、レフェリーの人選まで請けおったのは、誰あろう、やっぱりほかならぬ彼女---あの白木葉子だったのでありました。

 彼女なしじゃ、リング自体どうにもならなかった。

 それに、彼女という「権威」なしじゃ、あの特等少年院が院生同士のボクシング試合なんて許可するはずがない。
 すなわち、ジョーの最初のボクシングの舞台をしつらえたのは、まちがいなくこの白木葉子だったのです。
 彼女は、物語の超・最初から、常にジョーというニンゲンにまっすぐ目をむけ、ジョーの闘いに「社会性」を与えようとしつづけてきたのです。

 僕は、以前から、「あしたのジョー」といういわゆるボクシング漫画を、一大恋愛ドラマとして読むことも可能なんじゃないか、と思っていました。

 だって、白木葉子さんって、僕にいわせるなら、ほとんど見え見えの、すっげー分かりやすいキャラしてるんだもん。
 ジョーの最後の試合のまえの控え室で、彼女は、自分が長年したためてきた恋心をジョーに告白しますが、この恋が生まれたのは、僕は、物語のそうとう初期からだったと感じますね。
  

                 


 下のコマは、特等少年院の慰問の芝居で、白木葉子が演じた「エスメラルダ」の偽善性をジョーが暴露した一コマですが、僕は、もうこの瞬間から、白木葉子のジョーへの恋ははじまっていたのでは、と睨んでいます。


          


 白木財閥のひとり娘の白木葉子に、これまでこんな露骨な批判をした人間は誰もいなかったのではないのかな?
 葉子のこの表情は、そんな驚きと恐怖をともに感じているようにも見えます。
 それまで、白木葉子という少女は、ずーっと抽象的なお伽の国の王女サマだった、と思うんですよ。
 自分を批判する人間なんて誰もいないし---そりゃあそうだ、だって、非難したら損ですもん(笑)---自分の慰問活動が、高みから投げつける傲慢な「恵み」であるなんてことは恐らく考えてもみなかったのでせう。

 でも、ジョーは、そこに気がついた。

 いや、象牙の棟なんてものにははなから縁もゆかりもない、リアルの国の底辺住人のジョーからしてみるなら、そんな葉子の無意識の偽善的行為がなにより鼻についてしまった。

 そして、そのとりすました葉子の満足顔が、とにかく我慢ならなかったんですね、ジョーは。

 言葉のひとではなかったけれど、ジョーは、うその匂いには敏感でした。
 演劇のためとはいえ、頑丈に見えるからといって「おっちゃん」を舞台の上で本物の鞭で打たせるという演出に、なんともいえない冷血の匂いを嗅ぎとった。

 だから、否定したんです---めいっぱい誠実なジョーなりの表現でもって。

 野良犬同然の身の上のジョーには、財産といったらそれしかなかったんです---その拳と「誠実」さだけしかなかった。
 でも、その飾りのない率直さは、当時の葉子のまわりにはないものだったのです。
 で、表現こそ乱暴だったものの、聡明な葉子の胸に、ジョーのこの言葉の裏の「誠実」はちゃんと届いていたんですね。
 ええ、白木葉子は、このとき、たしかにジョーの「誠実」に触れ、打たれていたのだと思います---。

 葉子のジョーへの思いというのは、恐らく、この時期に芽吹いていたにちがいありません…。(^.^;>

 そう、そのクールな美貌と端正な佇まいについ目くらましされちゃうんですけど、この白木葉子って女、芯の部分は、意外とガチで熱いんですよ。
 そのうえ、狡くない。狡さを駆使するならいくらでもできる立場なのに、いつだって直球で攻めてくる。
 もっとも、ジョーへの恋心を自覚するホセ戦以前では、その自身の恋心を自覚できないまま、心の鎧戸の隙間から「ジョーを思慕する念」がプスプスと強烈に漏れでているので、その休火山めいた風情が、僕的にはちょっとたまらないものがある。

 いいんですよ、この時期の葉子さん---「ジョーが好き」って無意識が、背骨沿いにオーラになって「むみょーっ」と立ちのぼっているの。

 本人はそのことを自覚してないし、まわりだって全然気づいちゃいないんだけど。
 でも、僕は、この時期の葉子さん、とっても好きなんだよなあ。
 このころ、葉子さんはジョーといっしょになる機会があれば、さりげなく、でも積極的に、必ず自分のほうから誘いをかけているんですよ、実は。

 ボクシングの試合の合間にさりげなく置かれている場面場面だから、あまり目立たないんだけど、これらのシーン、「あしたのジョー」という漫画の奥行を深めるためにとても寄与している、と思うな。 

 後年の劇画「愛と誠」でも梶原さんはこれとおなじ技を使おうとしてらっしゃったけど、残念ながら、典型的男性である梶原さんが力めば力むほど、恋愛表現は固く、理窟っぽくなっていっちゃった。

 「あしたのジョー」でそのほのかな恋愛表現が成功したのは、やっぱり、これ、共作者であるちばてつや先生の功績でせうね。

 ちば先生の、この繊細で控えめなデッサンがあったから、「あしたのジョー」は漫画の古典として、ここまで生き残ってこれたんじゃないでせうか。
 まあ、そのへんの屁理屈はこの際どうでもいいや---白木葉子のジョーへの思慕を表したと思われる名場面を幾コマかUPしてみましたので、まずはそれらを実際に御覧ください---。


        


 うひょーっ、攻めるわ攻める、葉子さん…!
 左上が「あしたのためのその1:ジャブ」で、右上は、「あしたのためのその3:ストレート」って感じでせうか。
 いいよー、葉子、とてもいい…、ポイント、まちがいなく取ってるよー。
 ここまでストレートに勝負かけてくれてると、頑張ってるなあ、偉いなあ、と素直に応援したくなりますね。
 この2コマを読んで、葉子さんの秘めた思いに気づかないような朴念仁は、さっそく当記事を読むのなんかやめて、とっととほかにいっちゃってくださいな、と僕はいいたい。

 だって、この葉子さんの誘い、超・勇気あるんだもん。

 あのボクシング馬鹿のジョーにですよ、フツーなかなかこんなこといえないよ。
 でも、葉子さんって躊躇しないんですよ、恋愛経験の少ないお嬢さんなのは事実だとしても、深窓の令嬢なんておとなしいタマではとてもないですね、うん、勇気ありますよ、彼女ってば。

 そのようなめげないアクションが幸いして、葉子さんとジョーは、実は作品中でいちどだけ、短いデートをしてるんですね。

 ソムキッド戦のあとの「矢吹丈 連戦戦勝祝賀パーティー」ってヘンなパーティーのあと、ふたりして食事にいって、ボーリングにいって、ハイソな飲み屋にもちょっと寄って---。
 次のコマは、そのボーリング場でのシーンです---。


                  


 心ある読者さんなら、ここでの葉子さんが異様にテンション高く、はしゃいでいるのが感じられるかと思います。
 
----はい、つぎは矢吹クンの番よ…。

 という葉子さんの言葉の語尾にかかった、この絶妙なヴィブラートをお聴きあれ。
 僕あ、このコマ見るたびに、胸がなんか焦げそうになる。
 ふたりきりになれた喜びと悲哀と---ああ、切ないっスねえ!

 ジョーはあいかわらずボクシングのことしかアタマになく、葉子のことを白木ボクシングジムの会長としてしか見ていない。

 むろん、葉子さんにしてもそんなことくらいは分かっているんです、分かっちゃいるんだけど、ジョーとふたりきりで外出できたことが嬉しくて嬉しくて、その嬉しさを自分でも完璧にコントロールしきれてない。

 で、いつもとちがって、ちょっとばかしうわずってるわけなんです。

 いつものクールな社会的鉄仮面の後ろから、少女らしい喜びの微笑が、ことこととこぼれでてきてる。
 うーん、素顔を隠しきれてないのよね、けど、ここでの葉子さんの失態は、僕は、個人的に、超・可愛いなあって思います…。


                          ×             ×              ×

 しかし、多くの方が知っていられるように、葉子さんのこの恋は実りませんでした。
 葉子さんの告白に対し、ジョーは最後のホセ戦で使用した、血みどろでボロボロのグローブを与え、その直後すぐに死んじゃって、「あしたのジョー」というドラマはそこで永遠に完結します。
 けどね---僕は---ごくたまに…この物語のその後のことを考えたりもするんですよ。
 ただ、そのとき考えるのは、丹下ジムのその後のこととか、紀ちゃんと西の結婚生活がどう展開するかとか、そんなことじゃない、僕が考えるのは、なぜだかいつも白木ジム会長の、この白木葉子さんのことなんです。

----ああ、そういえば、あの葉子さんったら、いまごろどうしてるのかなあ…?

 非常にオタッキーな酔狂さかもわかりませんが、特に葉山のあたりをクルマで走っているとき、この手の疑問が脳内に去来することが多いようです。
 葉山の海を見ていて、そんな疑問がいつもやってくるわけだから、きっと、いま現在、白木葉子さんもきっとこの葉山の海の見える場所にいるのにちがいない…。
 と、ながら運転中の僕はなんとなく思います。

----60年代後半に20代前半だったとすれば、いまの葉子さんの年齢は、だいたい70代中盤から80くらいか…。

 葉子さんは、ジョーの没後、どうしたんだろう?
 どう生きて、いまは何を感じているんだろう?

 で、これ以降は、なんの根拠もない、僕個人の空想ね---。

◆1:白木葉子はジョーの没後、一時期狂ったように白木ジムの経営拡大に奔走するが、あるとき、ふいに気が抜けたようになって白木ジムの会長の座を降り、祖父・白木乾之助の勧める旧華族の青年と結婚する。

◆2:しかし、わずか1年で離婚。財団を設立して、アジアに出て、戦災孤児の保護・救援のための活動をはじめる。

◆3:財団の活動は軌道に乗り、イタリアの財団と組んでアフガニスタンの地雷除去の活動もはじめるが、折りわるくタリバンと米国との戦争がはじまり、政府から財団活動の休止と帰国とを示唆される。なんとか踏みとどまって、活動をつづけようとしていた折りに、財団の本部が米軍のミサイルにやられ大破。財団メンバーの大半が死亡。葉子自身も怪我を負い、傷心のうち帰国。

◆4:帰国後の白木財閥は、祖父の乾之助亡きあと、勢力図がすっかり変わっていて、葉子は親族のなかで孤立してしまう。そして、2002年、都内某所で講演中、脳梗塞で倒れる。

◆5:2007年、それまで入院していた都内の病院から本人の希望で、神奈川・葉山にある、超・高級介護付き老人ホームに移り住む。そこの特別室から午後の海を眺めるのが、最近の葉子のいちばんのお気に入りの娯楽である。そして、彼女のいる居室の東側の壁には、常にあのジョーの古びたグロ-ブが大事そうに掛けられているという…。

 もー こーなるとほとんど妄想の域なんですけど、葉山の海を見ながら運転している一瞬のうちにそんな葉子の歴史を空想して、なぜだか感激---思わず涙ぐんで、ハンドルをぎゅっと握りなおしたりもする---いくらか空想多過でよろめき気味の、最近の僕なのでありました…。
                                                                       ---fin(^.^;>

2012-11-11 21:59:34 | 

☆ ルイス・キャロルのいる風景( 不思議の国のアリス論 ) ☆

2023-03-13 23:31:21 | 無垢で平和(ピンフ)な文藝習い
                              

 「不思議の国のアリス」は、いま世界でもっとも読まれている童話のうちのひとつです。
 疑問の余地のない傑作というのは文学史のうえでも案外少ないものなのですが、この作品はその稀な例外にあたります。
 ジョン・レノンも、バート・ヤンシュも、先代エリザベス女王も、あと、僕の小学校時代の憧れの女の子も、みーんな、この童話が大好きでした。

 作家の北杜夫氏もかつてエッセイのなかで、この童話の非凡な独創性について言及されていたことがありました。自分はこの作者が天才だとは思わないが、作品自体は、これは天才の業である、誰にも真似のできない、これほど独創的な話は、今後誰にも書けないだろう---みたいな内容だったと記憶してます。
 僕自身もまったくその意見に賛成ですね。
 こんな、唖然とするほどおかしな話はないですよ。
 自分の流した涙の海で溺れたり、兎の竪穴を延々と落下していくとちゅうの穴の棚からオレンジ・マーマレードの瓶をとりだしたり、急激に巨大化したおりに、遠去っていく自分の足にむけて手紙を書こうとしたり、気狂い帽子屋とヤマネと3月兎とで終りのないキテレツお茶会をいきなりおっぱじめたり……。

 奇想天外でもって、ちょっぴり不気味わるいけど、胸底がきゅっとなるような無垢なキュートさもしっかり宿してる---こんなアリスの白日夢のようなまほろば世界に惹かれない子供なんて、果たしてこの世にいるんでせうか?
 僕にいわせれば、アリス・ワールド、イコール、童心そのもの。
 ですから、この話を解さないひととは友達になりたくないなあ、なんてつい思っちゃいますね。

 知っての通り、この話の作者であるルイス・キャロルは、本名をチャールズ・ラドウッジ・ドジソンといって、1832年、英国のチェシャー州ダーズベリ産まれの---ここで早くもチェシャー猫を連想してにこっとされたあなた、あなたは凄い、アリスの有段者認定です!---有名な大学教授さんなのでありました。

 ええ、彼、本職は、数学者であり論理学者であったわけでして。

 本職以外でもなかなかに多趣味なひとでして、当時まだ幼年期だった写真術に凝り、知りあいの少女のポートレイトなどいっぱい撮影してます。彼女たちのヌード写真なんてのもけっこう残ってる---いまだったらスキャンダルですよね、こういうの---どうも、ちょっとばかりロリコン趣味のある方だったようですね。

 実際、「不思議の国のアリス」の母胎は、キャロルが彼のいちばんのお気に入りの少女---アリス・リデル---のために語った、即興のお伽話がもとだったんですから。

 お気に入りの少女をなんとか喜ばせたくて、彼女を物語のヒロインにしたウケ狙いの話を紡いでいったら、それを聴いたアリスがもうむちゃくちゃに喜んじゃって、その話をぜひ本にしてくれ、とせがんだ。それが、結果的に「地下の国のアリス」という自家製の本となり、のちの「不思議の国のアリス」のクロッキーともなったわけなんです。
 こういうの聴くと、いい話だなあ、と僕なんかは自然に頬がゆるんじゃいますね。

 いい話、かくあるべし。

 誰か特定の個人を喜ばすための、素朴な奉仕の気持ちが、あらゆる傑作のたまごなんですよ。
 ひとりのひとを喜ばせたい気持ちが、結果的にほかの、多数のひとの気持ちに徐々に伝播していく---これが、傑作のあるべき正しい姿でせう。
 最初から「マス」を相手にして発信される名作は、それは名作なんかじゃなくて、名作という体裁だけ借りた企業プロジェクトじゃないの、と皮肉突きを咽喉元に一発入れたくなりますね。

 というようなわけで「不思議の国のアリス」という作品は、世評の通り、誰が読んでもおっそろしく面白い作品として仕上がって、日夜不特定多数の読者から愛されてるわけなんですが、よくよく読みこんでいってみると、この作品内の大部分を占めている「不思議の国」というのが、すこぶる異様な相貌をしてるんですよ。

 なにが? どのへんが異様なの?

 うーん、うまくいえないんですけど、この不条理世界、たくらんで編まれた形跡がまったくないんです。
 ライマン・フランク・ボームの「オズの魔法使い」あたりだと、なにか作者の「読者をびっくりさせてやろう!」みたいな、健康な空想上の茶目っ気を感じられる部分がずいぶん多いんですよ---いうなれば、意図的な悪戯魂みたいな。

 要するに、ボームの生みだしたオズの国というのは、あくまで作者ボームの空想の管理下にあるわけなんですよ。

 したがって、作者ボームの管理人としてのたくらみ手腕も、しっかり窺える。「オズの魔法使い」なんかでは、読んでてそのあたりの機微が明瞭に分かります。ああ、さすが、ミスター・ボームは自分の幻想世界をしっかり管理してるなあって。

 しかるに、アリスの場合はぜんぜんちがう、アリス世界の場合においては、完全に主客の逆転が実現しちゃってる。

 というか、物語の背景であるべきキテレツ世界のリアルティーが、あんまりありすぎる。
 つまり、物語内の空想世界が、作者であるキャロルの筆力を完全に凌駕しちゃってる感じなんです。さながら氾濫寸前の濁流とでもいった様相ですか。

 で、作者であるキャロルは、それに食われまいと必死に奮戦してはいるけど、そんなけなげな堤防工事がいつまでもつのか、はなはだ心もとない感じです。

 ええ、僕は、アリスのいる不思議の国は、度を超したナンセンス・エネルギーをたえず噴出してる、と感じます。
 本来なら、こんな不毛な土壌に、物語の花は咲かないはずです。
 このささやかな童話が、物語として成立していられるのは、一重に、物語のモデルであり、主人公でもあったアリス・リデルという一少女のおかげでせう。

 彼女のおかげで、この物語は物語として成立していられるのです。

 僕は、この物語の作者であるキャロルは、心に非常に深い闇を抱えた人間であったと見ますね。あなただってその気になれば、アリスの物語のあちこちの隙間から、なにか「無明」の闇のけむりがもくもくとあがっているのが見分けられると思う。この不思議の国全体がキャロル内面のデッサンだとするなら、このひと、恐らくこの世でなんにも信じてないですよ…。

 かろうじて少女であるアリスと、彼女の健康な肉体だけを信じてるような顔はしてますが、それは、通常にいうところの「信じる」という単語とはだいぶレベルの異なる感じです。
 信じるというより、内面いっぱいに広がった、キャロル内部の暗いカオス的情熱が、エントロピーの増大で崩壊しきってしまうまえに、アリスという少女の肉体にすがりつき、ぶら下がって、落ちまいと必死にもがいている、といったほうがむしろ実情に近いでせうか。
 
 ちょろっとまとめてみませうか---。
 えーと、作者であるキャロルはね、僕にいわせれば、明らかに影の国の住人であり、徹底して非存在のひとなんですよ。
 アリスはその真逆---れっきとして存在してる、触ることのできる、あくまで健康な一少女です。
 で、そのルイス・キャロル教授が、ある日の午後、影の国から光の国のアリスにむかって手紙を書いたわけ。
 年齢、ずいぶん離れてますけど、まあ、これは求愛の手紙として解釈すべきなんでせうね。
 無意味の国の影法師が、分不相応な光の国の少女に恋しちゃったんですよ---切ないなあ…。

 恋をしたら、まず相手の気を惹きたくなりますよね? 自分のなしうるあらゆる手練手管を使って、綺麗な花束をいっぱい相手に捧げなくっちゃ、です! この花束が、アリス内に登場するあらゆるナンセンスであり、また、不条理であったというのが僕の持論です。
 影が実在に接近しようとしたら、影なりの手練手管を使うしかない---それが、ナンセンスであり、あるゆる不条理であったというわけです。皮肉といえばまあ皮肉なんでせうけど、キャロル的には、もうそれしかなかったんですよ。
 アリス世界のなかに満ち満ちている、あらゆるナンセンス・ギャグのヴァラエティーは、あれは、キャロルなりの精一杯の「遊戯」であり「社交」であり、さらにいうなら彼流の「エンゲージ・リング」でもあったんですよ。

 ええ、「不思議の国のアリス」という作品は、根本にそのような構造を隠しもっている童話なんじゃないか、なんて僕は思います。

                             

 上にUPしたのが、ルイス・キャロル氏の生前のフォトです。
 ねっ、キャロルさん、ナイーヴすぎる、いくらか過敏症チックな人相されてるでせう?
 これが、あの歴史的なキテレツ物語を生みだした顔なんですよね。
 ちょっと見だけでも詩人肌の顔ですよねえ、これは?

 ただ、詩人顔というだけじゃ収まりきれないものもけっこうある、思索するひと独自の石みたいな頑固さ、そんな独自の兆候がこめかみのあたりに兆してますね。それに、頭蓋のでかいこと! この顔はやっぱり詩人じゃなくて、数学者の顔なんでせうね。
 うーむ、アリスを語ろうと思ったら、やはりそちら側からのアプローチも試みなければ片手落ちになる気がします。
 というわけで数学者としてのルイス・キャロルについていきませう。
 ただ、学生時代まったく数学がダメだった僕にとって、数学についての発言権はほとんどありません。
 こんな文系かつ体育会系男に数学を語らせちゃイカンと思いもします。けれど、そんなむかしむかしの中学少年だった僕の目に、ある日、たまたまとまった数学者についての見解があったんです。

 出典は---なんと、探偵小説!---それ、アメリカの古典探偵小説作家ヴァン・ダインの著作なのでありました。

 創元推理文庫からでてた「僧正殺人事件」っていうの---これ、犯人が数学者なのでありまして、インテリ探偵のファイロ・ヴァンスっていうのが、数学者の精神的生活というものにウンチクを傾けるくだりがあるんです。
 その部分をちょっとだけ書きぬいてみませうか。

----空間と物質---これが数学者の思索の領域だ。ウイレム・デ・ジッターの空間の形についての考えは球状、あるいは球面形である。アインシュタインの空間は円筒形で、その周線あるいは、『境界線の状態』といってもよいが、そこでは物質は零に近づく……さて。このような概念を片方において計算したとき、自然とか、われわれの住む世界とか、人間の存在とかいったものはどうなるというのか。エディントンは、自然の法則などというものは存在しない---ということは、自然は充分に合理性をもった法則では律し得ないという結論を出している。そしてバートランド・ラッセルは現代物理学が必然的にたどり着く結論を要約して、物質は単に出来事の集団であり、物質自体はなにも存在する必要は持たないと解釈すべきだと述べている……その理論を押しすすめていくと、どういうことになるかね。世界が非原因的で、無存在だとすれば、単なる人間の生命などは、何ものかね……人間社会の個人などというものはその中におくと、無限小なものにすぎない、このように巨大な、ふつうの標準ではとうてい計り切れないような概念と取り組んでいる人間が、やがて、地上のいっさいの相対的価値の観念をなくして、人間に対して、限りない軽蔑心を持つようになっても、べつにふしぎはあるまいじゃないか……そういった人間の態度は不可避的に皮肉になる。心中では、いっさいの人間的価値を笑いものにし、自分の周囲に見えるものすべてのけち臭さをあざ笑うことになる。たぶん、その態度のなかには嗜虐的な要素もふくまれていよう。冷笑癖というものは嗜虐性のひとつの形式だものね……。                                                               (ヴァン・ダイン「僧正殺人事件」創元推理文庫より)

 僕は初めてこのくだりの部分を読んだとき、あれ、この感覚どっかで感じた覚えがあるぞ、と思ったんですね。
 最初は分からなかった。
 でも、考えているうちに思いだしてきた…。そう、それって当時から愛読していた「不思議の国のアリス」のなかで感じた、体感温度の奇妙なひんやり感と酷似してたんですよ。

 特に、アリスの流した涙の海で濡れまくったアリスと動物たちが、自分たちの身体を乾かすために開催した、あのふしぎなコーカス・レース!

 僕が、「僧正」のこのくだりを読んで最終的に辿りついたのは---ええ---実は、アリスの物語のなかの、このコーカス・レースのイメージだったんですよ…。
    

 では、そのコーカス・レースとは、いったいどのようなものなのでせうか?
 てっとりばやいとこで原作から引用いきませう---それほど長くもないんで。はい。

----「コーカス・レースってなあに?」とアリスはききました。べつだん、それほど知りたかったわけではないのですが、ドードー鳥が、だれかが質問するはずだというように間を置いたのに、だれも何も聞こうとしないようだからです。
  「いや、やってみるのが何よりの説明になるんだ」とドードー鳥はいいました。
  ドードー鳥はまず、レースのためのコース線をまるく書きました。(正確な円でなくてもいいのだとドードー鳥はいいました)そして、一同は、そのコースのあちこちに位置を定めました。「一、二、三、ゴー!」というような出発の合図もなく、みんな、好きなときに走りだして、好きなときにやめればいいのです。だから、レースがいつ終ったかを知るのは、必ずしもやさしくありません。とにかくみんなが三〇分も走って、すっかり乾いた頃に、ドードー鳥がとつぜん「競争おわり!」と大声でどなりました。一同は輪になって集まると、息をはあはあ切らせながらききました。「でも、誰が勝ったんだ?」
(ルイス・キャロル「不思議の国のアリス」講談社文庫より)

 と、まあこのような塩梅---すなわち、コーカス・レースとは、以下のようなレースであったのです。

1.スタート・ラインがない。誰が、いつ、走りだしてもかまわない。

2.ゴール・ラインもない。誰が、いつやめてもかまわない。

 むーっ、なんという自由なレースなんでせう! というより通常の視点からいくと、これはもはやどう見てもレースじゃありませんよね。
 はじめのうち、僕は、それをルールに厳しい英国社会で育ったキャロル少年の、押しつけられたルールというものに対する本能的な反発の表現じゃないか、みたいなラインで捉えようとしてたんですが、どうやら、そうではないようです。

 反発、というような気構えの気配は、文中にはありません。
 それよりも濃く漂っているのは、「ルール」という存在そのものに対する、先験的な疑惑であり不信です。
 キャロルさん、ここで、非常に無邪気に、ふだんはしかめっつらをしている「ルール」というモノを、縦に置きなおしたり横に倒したりして、もう玩具扱いしてらっしゃいます。
 あえて学術的な言葉を弄するなら、これは、いわゆる思考実験という範疇に属するものと思います。

 それを、こんなささやかな空想童話のなかで、見事に物語中にはめこんじゃった手腕には敬服しますが、それよりも僕が感じ入るのは、キャロル氏がふだんから使っている目線のなかにある、なにか非常に相対的な、場合によっては虚無的にすら見えるくらいの、一種独特な、暗いまなざしの翳りなんですね。
 ええ、前ページの末尾のヴァン・ダインからの引用のなかにあった、あの数学者の病についての検証です。
 あのなかで語られていた数学者の病についての症例に、僕は、キャロルが創造したこのコーカス・レースは、見事にかっちり当てはまると思います。

 コーカス・レースには、勝者も敗者もない。
 コーカス・レースには、スタートもゴールもない。
 さらには、もしかすると参加者がいてもいなくてもいいのかもしれない…。

 これは、童話のメルヘンの衣で上手にくるまれてはいますが、よくよく見るなら非常に虚無的な発想ですよ。
 物語から「絶対」の秤が取りのけられて、「相対性」のほうに傾くと、物語は限りなくナンセンスの谷にずり落ちていくのです。
 やっぱり、人間が人間として生きていくためには、絶対的な何者かに対する帰依の心が必要ですよ。
 偏見でも執着でもなんでもいいの、憎悪でも金儲けでも---何者かに対する強力無比なこだわりってやつは、絶対要る!

 これがなかったら、大事なものがなにもない人生は、ただのまったいらな、茫漠たる無価値の砂漠でしかないんですから。
 あらゆるものの価値が等価であるという相対論的な世界は、僕には、非常に非人間的な、虚無的なざらざら地点として感じられます。
 しかし、僕は、キャロル氏が生涯を通じて間借りしていたのは、このような部屋にちがいなかった、と思いますよ。
 というより数学者って人種全般が、そもそもそういうキャラなのかもしれませんね。学のない僕としては数学という学問の深遠は推し量ることしかできないんですが、そのような危険な存在の根源領域に接近するには、日常の場合とは逆に、むしろ存在係数の低い人間でないといけないのかもしれません。

 非常に特殊な世界ですよね---そこで遊戯するということは、ある意味、飛行機乗りみたいに危険と隣りあわせになるっていうことなのかもしれない。

 けれど、どんな優秀な曲乗りパイロットにしても、地上というものがあるから飛べるんですよね。

 地面がなければ、そもそも平衡感覚自体の意味がない、どんな曲芸飛行もただの無意味なきりもみ状態でしかなくなっちゃう---それを見て感嘆してくれる人も、心配してくれるひともいない孤独な曲乗り飛行に、いったいなんの意味があるでせう?
 だからこそ、キャロルは、この茫漠たる手狭な思索部屋に居住している息苦しさと虚脱感をひとときでも忘れるために、アリス・リデルという一少女が必要だったのです。

 生きるために---あるいは、呼吸するために。
 主人公のアリスが生き生きと笑うから、不思議の国のもののけたちもヘンチクリンな言葉遊びに嬉々として熱中できたのです。
 主人公のアリスむきになって怒るから、不思議の国のトランプの兵隊たちも最後にあんな風にそろって天空を飛翔できたのです。
 結局、アリスがすべての蝶番だったのですよ。
 彼女がいなけりゃ、キャロル世界はなんにも廻らぬ、というわけです。

 さて、そのような処々の事情をつらつらと考えますと、「不思議の国のアリス」という作品世界の全体が、我々の暮らす実在世界に対しての反証の意志をこめて創造された、一種の逆ユートピアとしての世界なのだ、というようなことがいえるかと思います。
 ユートピアはいつでも孤立者の夢想から生じます。
 そして、孤立者は、たいていの場合不幸であり、自分を生みだした世界を恨んでいる---もしくは、実存的な対立関係にある。
 あからさまな反逆の棘こそ作品内には描かれていないものの、アリスという作品内に、そのようなほのかな敵意の兆候は、いくらでも見つけだすことができます。

 時間と喧嘩したおかげで時間にそっぽをむかれ、時間を6時にとめられたままお茶会をつづけるしかない、気狂い帽子屋---。
 空中で笑いながら徐々に透明化していき、実体が完全に消失したあとでも笑いだけが残る、チェシャー猫---。
 あるゆる問題に対して、「その者の首をはねよ!」と叫ぶよりほかの解決法を知らない、権威の権化・ハートの女王---。
 彼らの存在がかもしだしている「棘」の気配は、そのままキャロルが世界に対して抱いていた「棘」の心理の表象だ、と読んでもあながちまちがいではないと僕は思います。

 しかし、そのような世界に対する強硬な「否-ノン-」の姿勢が、最期の最後にくるりと反転するのです。
 「不思議の国のアリス」のラストは、いわゆる夢オチパターンで仕上げられてます。
 アリスのいた不思議の国は、実は、草原で昼寝していたアリスが見ていた夢だった、という例の種明かしです。
 ここで思いもかけぬエンディングがふいに訪れるのですよ---それは、世界と現実とを厭い、架空の数学の国を長らく漂泊していた、稀代のすねものであるルイス・キャロルが、突然、世界と和解するのです。恐らく自分でも直前になるまでこんな事態になるとは予測していなかったんじゃないかな。
 アリスを見守るお姉さんの目線を借りてささやかれるその「告白」は、非常に優しく、真情のこもった感動的なものです。
 それは、本当にふしぎな、どこか恩寵めいた凪ぎの訪れなのです。
 ここでキャロルは、数学者キャロルとしてのひねこびた眼鏡を捨てて、ごくありきたりの、素朴な一生活者としての目線の高さで、柔和に現実を見守っています。
 そこのところのラスト文だけ書きぬいておきませうか。

----最後に、お姉さんは、このおなじ小さな妹が、やがていつの日にか、一人前の女になったところを想像してみました。アリスは、だんだん成熟していくでしょうが、それでも少女時代の素朴で優しい心を失わず、ほかの小さな子どもたちをまわりに集めては、いろいろな不思議なお話をして---おそらくは、はるか昔の不思議の国の夢の話もしてやって、子どもたちの目を輝かせるだろう。そして、子どもたちの素朴な悲しみをよくわかってやり、子どもたちの素朴な喜びに共に喜びを見いだし、自分自身の少女時代と、幸福だった夏の日々を思いだすだろう---お姉さんは、そんなことを空想したのでした。

 こんな素晴らしいエンディングをもちだされちゃあ、こりゃあ、もうなにもいうことはないですね…。
 ちなみに僕は、ここの部分を個人的に「キャロルの里帰り」と呼んでます。ここのところを読んでいると、どこからか肉じゃがの香りがしてくる少年時の夕暮れのことが、いつもなぜだか連想されるんですね。
 どうしてこんなエンディングになったのか、作者のキャロルに聴いてみたい気もしますけど、恐らく当のキャロルにしても、自分がこんなエンディイグを書いた理由は、うまく説明できないんじゃないでせうか。

 でも、それは、それでいいんじゃないかな---。

 小学年の低学年にここの部分をはじめて読んだときから、僕は、このラストが大好きでした。
 いまだってむろんおなじ---もし、この物語に魔法があるとすれば、恐らくその魔法の鍵は、このラストの部分にこそ隠されているにちがいないと思います…。





 2011-02-06 21:18:57 |