Hello、皆さん、今月初頭の 5月6日、あかねさんが担当した記事 ◆ 独立党の愉快な仲間たち ◆(2018/05/06)に、
見慣れない差出人不明からの投稿がありました。
僕も最初読んだときびっくりしたのですが、非常に知的かつ的確な投稿で、目を皿のようにしてむさぼり読んだものです。
過酷な現場を経験したひとだけがもちうる、力みのない、リアルで冷静な知見が文章の隅々まで浸透している。
この方、ただものじゃありません。
聴けば、あかねさんにしてもやはり僕とおなじ印象を持たれたとか。
この投稿主は、鳥取の精神科医と名乗ってられました。
以下に、彼とあかねさんとの応答を採譜しましたので、ご興味がおありの方はまずお読みくださいーー。
- 門外漢ですが失礼します (Unknown) 2018-05-06 17:33:54
鳥取で精神医学の現場に12年携わっています。
陰謀論にも独立党にも詳しくはありませんがあまりにあかねさんが挙げた症例が面白く、自分としては珍しいこの様な書込みをさせていただこうと思い立ちました。症例と申しましたが彼等は多分一般的な通常人としての生活は営めているのでしょう。
人格の崩壊にはまだ至っていない。
しかし通常人が維持している「統合した個人としての安定した自我」を彼等が有しているかといえばそれも疑問です。
所見では彼等は常日頃より存在係数の低さに悩んでいるボーダー系気質の人々かと思われます。
この種の人々は愉しむために結合するのではなく自分自身を維持するためにこの種のコミュニティを必要とするのです。
通常人にとっての空気やスポーツのようなものかもしれません。
一般的に言ってこの種の人々は友情を解しません。それは喜びよりも課せられた義務の一種として感じられるケースが多い。
故に彼等は自分達の絆が簡単に解けないような工夫と上からの精神的な縛りとを必要とします。
それがこの独立党の場合は陰謀論であり朝鮮悪という淫靡なイデオロギーなのではないか。
あらゆるカルトの本質はそこにあります。秘密と敵とは団結のための必須条件なのです。
彼等の敵は過去も現在も決して自分に自己実現を許さなかった現実そのものであり、自分達は絶対に現実には勝てないものだという宿命観を心中深く宿しています。現実は常に彼等にとって迫害者でした。
一人ではどうにもできない、だからコミニテイが要る、しかもこのメンバーになる為には信者であって同時に共犯者でもあらねばならない。
リチャードコシミズ氏の人となりを私は知りませんが、彼がこの様な敵国作りと秘密共有という二つの規範を触媒にして皆をコントロールしてきたという真相は抗えない事実のように感じます。
B層という耳慣れない符丁は、この独立党なる組織の構造を解く鍵でしょう。
被迫害者としての内的経験がユートピアを作ろうとしてやはり自分達の歴史を裏書きしたような組織しか作れなかったのだと私は解きたい。
彼等は恐らく崩壊の予兆を感知していると思われます。多くの患者は深い無意識部分で皆自分達の演じている詐欺のからくりに気付いていました。
工作員なる作戦はシャーデンフロイデ、共通の下位の敵を作り団結するための方便でしょう。
理論よりレイシズムを多用したのはその方が判り易く一般読者層をより安易に招聘する為の配慮かと思われます。
偉そうな意見ばかり述べてすみません。私の個人的な意見がこちらのブログに集う方々の理解の一助になって頂ければ嬉しいです。
Unknown (あかね) 2018-05-07 00:41:00
専門家の立場からの貴重なご意見ありがとうございます。まったくおっしゃる通りだと思います。
幻聴、幻覚などが出ている党員さんも複数いるようですが、悩んでいる様子はなく、「自分には特殊能力がある」、もしくは、「リチャードコシミズとともに裏社会と戦っているから妨害を受けている」と、誇りに思っているようにすら見えます。
彼らにとって独立党は「絶対に必要なもの」なのでしょうから、コシミズ氏には引退してもらいたい反面、その後党員さんたちがどうなってしまうのかを考えると複雑な気分にもなります。
コシミズ氏の手口は、99パーセント側に立つ正義の味方を装いつつ、自分たち以外のものは、すべて「無知なB層」と「お金やクスリのためにどんな汚れ仕事でも引き受ける品性下劣な工作員」とすることです。
そして自分たちだけが知的で勇気のある精鋭舞台だと党員たちに優越感(錯覚)を持たせます。これは彼らに劣等感を克服させるものではなく、蓋をするだけのものですね。
また、党員間に友情や絆がないのは、一目瞭然です。たとえば、せんじゃさんは九州ではとても人気のあった党員だったそうですが、彼女を守ろうとコシミズ氏に立ち向かっていった仲間は一人でもいたのでしょうか。コシミズ氏がそういうコメントを承認しなかったのかもしれませんが、Twitterで独り言を呟く彼女はとても孤独に見えます。これが10年間、独立党に尽くした人の最後かと思うと、やるせないですね。彼女に傾倒し、金銭的な援助をしていた党員は今も、独立党に残っています。
今さらながら、独立党は典型的なカルト集団だと実感しています。
経験の両義性 (Unknown) 2018-05-07 03:55:54
あかねさん、見ず知らずの私に丁寧な返答をありがとうございます。これはあくまで想像の域を出ないのですが、精神分析の諸学についてかなり造詣もあり、基礎文献などもそれなりに読みこなした方なのではとお見受けしました。
正直申しましてこちらのコメント欄に自身の私見を書き込もうとした際に、いささかの勇気と決断とを必要とした旨を、公平を期すためにこの場で告白しておきましょう。
恥ずかしながら政治に関しては全く疎い職人的人間ですので。
それなのにあえてこんな慣れない分野に声掛けしたのは、あかねさんが抽出された典型的なキャラクター群への一入ならぬ興味を感じたためです。
経験というのは元来両義的なものであり、狂気であると判断することも、あるいは神秘的であると判断することも可能です。これらの区別は容易ではありません。境界性パーソナリティー障害気質の患者は、わずか一日のうちにこれらの両極を幾度も往復し、一種の法悦のような境地を体験したその次の瞬間には自分は社会的規範からずり落ちた存在なのではないかという恐れに捕われたりもし、傍目から見ていてもその消耗ぶりは筆舌に尽くしがたいものがあります。
彼等はそのような体験を「自分を使い尽くす」などと表現します。このような経験は私達の常識、すなわち私達の居住する思慮分別の行き渡った世界の地平を越えているものです。
彼等がこうした神秘的な経験を重視すればする程、彼等にとっての現実は遠のき、彼等にとっての存在論的な基盤はゆり動かされていきます。現象はゆらぎ、それまで持っていたあらゆる約束事の意味を失い、彼等の自己は不安の中で解体していきます。
私が焦点を当てたいと望むのは、彼等の経験しているこれら例外的な経験の実存的な意味なのです。
あかねさんが抽出された独立党関係者の幾人かの証言は、まさにこのような「現実という物語」から滑り落ちようとしている人達の典型例であるのではと危惧します。
このような気質の人々がこれだけ集い、さまざまな宗教的経験(あえて宗教的経験と言わせて下さい)を述べ合う独立党というのは一体どんな場であるのか。
門外漢で知識もない私にこれ以上判断できる術はありません。
けれども私が仮に彼等の友人や親族であったなら彼等の現状をそのままにしてはおけないと思います。
僭越なことをまたもや申しました。
いささか無責任なきらいはありますが、これらの私見を彼等に伝えて頂ければ幸いです……。- ✖ ✖ ✖ ✖ ✖
- この投稿の2日後、当ブログに非承認希望の彼からのコメントが寄せられ、そこに自身の連絡先がひかえめに記されていたので、
診察が終了すると彼が指定した時間に僕はさっそく電話をかけ、こちらの先生とお話することができました。
思ったより若い声で、折り目正しさを感じさせるひとでした。
声自体はどちらかといえば細いのですが、しゃんとした力感がある。
背骨がぴんと伸びた声とでもいうのかな?
自分は独立党員ではないし、独立党員の知り合いもいない。
リチャードコシミズを知ったのは311以降のことで、
福島原発の事故の情報を聴いて放射能パニックに陥ってたときに、必死になってRKブログを読みあさったそうです。
そのときリチャードさんの記事を読み、ずいぶん救われた思いがしたとか。
この感謝の気持ちが消えずにその後もぽつぽつとブログ記事を見ておられたようなのですが、
2017年の犬丸先生の事件、名古屋裁判へのRK対応あたりから違和感を感じることが多くなり、
ここしばらくはRKブログを訪問することをやめていたようなんですが、
なんかの拍子にたまたま僕のブログを見つけてみてみたら、
なんと、独立党がいまや凄いことになっているのでびっくりした。
独立党員の顔ぶれもそれぞれのコメントの調子もずいぶん様変わりして、全体的になにか荒んできてますねえ、とおっしゃられてました。
先生は、政治に関しては自分は素人だといっています。
ただ、専門の精神分析の見地から診ると、現在の独立党は非常に不安定で危機的状況にあるように見える、
もちろん、個々の病症は実際に複数回診察してみなければ分からないし、
彼等の言葉の表層面だけから浅い分析を試みても仕方がないのだけれど、
いま警告の言葉を発しておかないと自分としても後々後悔することになるかもしれない…。 - といった理由から、あえて匿名Xとしてなら自分の意見を掲載してもらっても構わない、という了承を頂きました。
そのような葛藤の末、先生が思うところを寄せてくださった貴重な文章を、以下に掲載したい、と思います。
政治的なアングルからのツッコミとか揶揄めいたものは皆無であり、
独立党員の誰がどうで彼がこうだとかのゴシップ知識も先生にはありません、
しかし、全体を見据えるこのまなざしの強さと深さはどうでしょう!!
人間の心理だとか実存的状況を見据えるこの先生独自の視点というのは、僕は稀有だと思う。
まあ僕の能書きはこの際どうでもいいやーーX先生の見解を聴きましょうーー。
「独立党のネクサスについて」 - どのようなグループであれグループというものは本来的に奇妙なものなのだと私は考えております。
個性も心情も様々で繋がりのないばらばらの個人同士が相互に結びつくためにはグループ全体を統べるグループ独自の文化のようなものが必須です。
それは民俗学で分類される地方ごとの習俗の「形(かた)」のようなものです。
ある旧家に代々伝わる家風のようなものと言い換えた方が理解はしやすいかもしれません。
哲学者の梅原猛氏は、「文明はどのような未開人でもスイッチ一つ入れるだけで利用可能なもの、たとえば水道だとかテレビだとか自動車のようなツールとして分類できるが、文化とはそれの対極の座標軸にあるもの、因果で、非合理で、その内側にいる人々のあいだでしか通用しない特殊な習慣だとか礼儀を主に指す。そしてこの文化は大抵の場合オープンマインドではない。門外漢のための門は常に閉ざされていて、自らのこの扉を解放することは少ない。」と、述べています。
貴ブログのコメント欄でも既に発言させて頂いた通り、私は独立党なる団体がいかなる団体なのかよく知っているとは言えません。
311の福島原発事故の際に若干の放射能パニックに見舞われ、そのときRK氏の言説をネットで見つけ、そのおかげで自身のいささか神経症的な放射能パニックを軽減することができた地方の一医師に過ぎません。
そのような視点から眺めるなら、私はRK氏のブログに借りがあることになります。
実際このときの恩義めいた想いは私の中に長くあり、そのために私はそれ以降もときどきRKブログを訪れる事を習慣にするようになりました。
RK氏の言説を凡て肯定していたわけではありません。
どちらかといえば旅行者の無責任な視点で気の向いたときだけ寄ってみたという表現の方が近いかと思います。
党員さん方の無条件のRK氏への心酔ぶりにときには感心し、ときには辟易し(すみません。この辺りは正直に書かせて頂きます。)たりしながら、第三者的ないわゆる野次馬的視点でここ何年かRKブログの観客役をやってまいりました。
しかし言わせて頂くなら、RKブログの読者の大部分は私のようなタイプなのでないかと私は思っています。
世の中に出回っている情報の向こう側を知りたい。
腐りきった現体制の政治権力をひっくり返してやりたい。
富の偏在も下らない差別が横行することもない理想世界をつくるための活動に自分も参加したい。
なんのことはない、誰もが自分なりの「イマジン」を歌いたがっているだけではないですか。
これは非常に純朴な、理解のしやすい動機であるかと思われます。
ただ、大抵の人には自分の「イマジン」を歌うための場所がない。歌ったとしてもそれを伝えるためのツールもない。その場所へ至るための一つの通路としてリチャードコシミズブログを読み、この場に参加したというのが独立党支持者の皆様のそもそもの初動の動機であったのではないかと私は思っています。
しかしどのような崇高な理念を礎につくられた組織にしても組織化された時点でそれは個人の思惑とは外れた方向に進んでいってしまうものなのです。それが組織というものの宿命です。外部から見られたグループはその外見から、その内部で進行しているように見える過程から、あたかもそれが有機体であるかのような幻想を与えるために、しっかりとした社会的客体として認識されることもあります。
しかしこれは幻想であり蜃気楼です。近づくにしたがって期待した有機体などどこにもなかったことが誰の目にも明らかになっていきます。
あるグループがあって各人がすべての他者を相互に内面化することでその統一が達成されているとします。そしてそのグループには、「組織的構造」も「制度的構造」等もないとします。こうしたグループはグループをつくるために、あるいはそのグループ的結合を維持していくために、一種の「セメント」あるいは「膠」のような一時的な自己維持のための能力を帯びてくるのが常です。この場合私達はそれを称するとき、もうグループなどという言葉は使いません。私達はこのような結合形態を見せはじめたグループを成り立たせている関係性の結ぼれを「ネクサス(関連形成体)」と呼びます。
相互に忠誠を捧げ合うこうしたグループ、死に至るまでの忠誠を誓ったというこのようなグループでは、各人の自由や良心が一方から他方へと相互に抵当に入れられています。
こうしたネクサス的団体においては、グループの統一はグループ各人の経験を通じて達成されます。そして各構成員にとっての危険とは「家族」の瓦解であり消滅であります。こうしたことはメンバーが次々と自己のうちにそれぞれの理想の「家族」のイメージを溶解させることによって引き起こされるのです。統一された「家族」は、各人が家族の存在に即して行動する限りにおいてのみ存在します。そのとき各人は、同情、恐喝、誹謗、差別、罪意識の植え付け等の威嚇言辞によって他のメンバーを強制して、その人がグループを内面化している状態を維持しつづけるように働きかけるでしょう。
してみるとネクサス的なグループとは各人の内部に維持されねばならず、各人によって奉仕されなければならない実体であり、人間がそのために生きそのために死ぬのためのものであり、忠誠に対しては生命を与え、逃亡に対しては死を与えるものなのです。ネクサスからのどんな違反行為(裏切り、離反、異端等)もネクサスの倫理法則によって当然罰すべきものとなる。そしてグループの仲間達の考えうる最大の罰が追放または破門、つまりはグループにおける「死」なのです。
ここまで読まれた方は独立党の通例行事である「工作員認定」なるものがいかにネクサス的必然から生み出されたものであるか、お気づきになられたことと思います。
独立党の異端排斥はまさしくこのネクサス的な「排斥のための排斥」でしょう。
2017年の冬、犬丸さんに向かって放たれた「保険金殺人疑惑」などはそれの典型的な事件であり症例です。
まったく根拠らしいものを書かないリチャード氏の「保険金殺人疑惑説」に独立党員の諸氏らが同調して、次々とデマゴーグ的誹謗を増幅していく過程は何か質の悪いホラー映画でも見ているような感触で、傍観しているだけで胸中が苦いもので一杯になりました。
このネクサス的倫理に適合する道を選択した党員さんの幾人かは、既に通常の「自己―現実」の体系を捨て、「偽自己ーネクサス団体」との体系を選択しはじめたようにも見受けられます。いうまでもなくこうした転移は危険なものです。どんな党員さんにしても二十四時間独立党に所属しているわけではないのだから、日常生活を送っている間は自己のモードを「自己ー現実」の体系に切り替えなくてはいけない。「偽自己ーネクサス団体」のためにしつらえた架空の自我操業での楽しみを覚えた人は、なかなか厳しい現実世界には戻りにくいものがあると思います。
しかしいつかは回帰しなければならないんですから。
「茨」の現実世界から闇雲に避けるのが正しい道だとは私は思いません。
現在、独立党の安楽椅子に座ってられる諸氏の椅子の座部の皮の下には、現実世界の茨よりもっと過酷な茨が埋まっているという認識が是非にも必要ではないかと私は考えます。(2018年5月24日23:20投稿)
ヤコポ・カルッチ・ポントルモ「十字架降下(部分)」