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旧精神科医療は思想警察なのか?

「矯正すればいいだけ」なのに「行動制限を強制する」精神科医療はニュルンベルク綱領違反 

2022年02月01日 | 精神科医療とRAPT理論

私が精神科医療の臨床で働いていた時、入院してきた患者は(自発的、非自発的に関わらず)何も説明を受けないまま、薬物療法と称して向精神薬を処方され、内服治療が開始されます。

また、隔離室という保護室に入れられることがあったり、ひどいと身体拘束もされます。

今から考えればインフォームドコンセントがなく、強制医療が横行しているだけの暴力でしかないと思います。

それは精神科医療だけでなく、全ての医療には「患者不在、当事者不在」が当たり前なのです。

そもそも、患者という呼び方も相手を見下している表現です。

体調不良者であるべきなのです。

そして、本人の希望が無ければ医療は絶対にすべきではありません。

それを強く感じるのは、精神科病院に入院させられた人たちはほとんどが社会性を失い、薬物療法の後遺症に悩まされ、人生を奪われてしまうからです。

精神障害があっても地域の中で暮らしたい 社会的入院と病棟転換

この動画の2分19秒あたりで13年間精神病院に強制入院させられていた男性は、

”「どうしたいですか?」と希望を聞かれても困る”と発言しています。

精神科医療における治療とは他人に迷惑をかけないようになることですから、

「人間の自由意志を奪うこと」

なのです。

自由に考え行動するため、社会や家族と摩擦が生じる。

その理由を精神科医療は「脳機能障害によって、幻覚や妄想に左右されて、トラブルが生じるのだ」

と仮説立てています。

本当にそうなのでしょうか?

その人の言動は確かに脳が働いて決まります。

しかし、それを性格や個性と言ったりするだけであって、個性や性格をある程度、社会に合わせてあげるつまり矯正することが

できれば良いだけなのです。

それを精神科医療は「妄想や幻覚によってまともな判断ができないこと」を問題にします。

新しい物を生み出す時、それまで社会になかった考えをもとに作り出します。

ですから創造性ともいえるはずなのですが、それを一切受け付けないのが精神科医学。

「矯正すればいいだけ」なのに「行動制限を強制する」のです。

「妄想があって働けない」「幻聴があって家族と上手く生活していけない」

精神科医学がとった結論は、「隔離収容」であり、精神科病院は「隔離収容しておけば利益が出る構造」を厚労省からお墨付きを貰っている

のです。

そして入院中の生活は「仕事も勉強もしなくてよい」「3食昼寝付き」ただし、行動制限、移動制限、面会制限、経済活動制限下において

許される範囲での生活になります。

ある意味、動物園の動物に近い生活です。

精神病の治療法が確立されていないため、死ぬまで治療する必要がある(特効薬が開発されるまで)ことから

死ぬまで病院に入院する。(そもそも精神病は病気なのか?という議論がされない)

例えば、精神病と犯罪の違いはあるのか?

社会において、動物的に欲望のままに生きたら、社会秩序が乱れるため、法律が存在する。

その法律に違反した人を警察が取り締まるだけなのだ。

本来、白か黒の世界であるはずなのに、「法律違反ではないけど、自分たちと考え方が違う人を排除するために作られたのが」

思想の異常、価値観の異常というレッテル貼りの精神病、精神疾患なのです。

自分と価値観が違う、常識から逸脱しているから閉じ込めろ、危険だというと人権侵害になるため、適当に妄想に基づいて行動しているからと難くせをつけて精神科医学につなげて隔離収容してしまうだけだ。

つまり、警察組織なのです。

それを医療行為として、本人の意志に反して「患者様のため」と称して人権侵害しているのです。

しかも、治療効果が全くない治療法を行っているのです。

医療とは突き詰めれば、人権問題なのです。

「どう生きるか?」という自由意志を「医療行為、あなたのためだから」という理由で奪うものです。

それが如実に表れるのが、精神科医療なのです。

最後に、ニュルンベルク綱領についてお話します。

ここからは興味のある方だけ目を通してもらえばよいと思います。

今、コロナパンデミックで最大の問題になっているのは、感染症そのものでなく、感染症対策による人権侵害です。

その根拠となる医療と人体実験、人権侵害についてのまとめになります。

ナチスドイツ(アーリア系ユダヤ人)によって、優生思想が盛んになり

医療という行為を利用して人体実験が行われていました。

「人類の健康増進のため」という名目で悲惨な人体実験を行っていたのです。

それに対して、第二次世界大戦、ニュルンベルク裁判にて医療倫理のガイドラインが作られ、それをニュルンベルク綱領と呼ぶようになりました。

1964年にフィンランドのヘルシンキでニュルンベルク綱領を受けて、世界医師会が人体実験に対しての医療倫理を明確化します。

しかしながらこれは国際法ではなく、医療倫理、人体実験に対しての考え方を世界的に共通認識を持ちましょうというガイドラインにすぎません。

ちなみに、ニュルンベルク綱領違反で有罪となった医師達はどうなったのでしょうか?

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・(IV. 判決とニュルンベルク・コード
(1) 判決と量刑
 1947年8月20日に下された判決で、4人の裁判官たちは、訴追第1点の「共同謀議」に関しては、独立した犯罪とすることはできないとして退けましたが、第2点「戦争犯罪」と第3点「人道に反する罪」に関しては全面的に有罪としました。第4点「犯罪組織への所属」については、親衛隊に所属した形跡がない者、選択の余地なく所属した者、および戦争が始まった1939年9月1日以前に脱退した者を除いて、有罪と宣告しました。
 その結果、絞首刑が7人の被告(うち医師が4人)に、終身刑が5人に、禁固20年が2人に、15年と10年の刑が1人ずつに、それぞれ言い渡されました。7人の被告が無罪になりました。絞首刑は1948年6月2日にランツベルク刑務所で執行されました。終身刑および禁固刑を言い渡された被告はのちに20年から10年程度に減刑されています。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・(転載ここまで)

ナチスドイツはどのような人体実験をしていたのでしょうか?

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・(第3回 ナチス・ドイツの人体実験とニュルンベルク・コード
 今回は、ナチス・ドイツの医師たちによる人体実験と、それを裁いた基準である、いわゆる「ニュルンベルク・コード」をめぐる歴史的事実を振り返ってみます。I. 法廷と罪状----何をやったのか

そして、第2点「戦争犯罪」と第3点「人道に反する罪」の罪状として挙げられたのが、以下に述べる、人体実験などの事柄でした。

(A) 超高度実験
 ドイツ空軍が新しく開発した戦闘機は、イギリスの戦闘機よりも高い高度を飛べるように、高度18000mまで上昇できるようになっていましたが、このような高度における低い気圧に操縦士が耐えられるかどうかが問題でした。12000m以上の高度に匹敵する低圧実験は、志願者に著しい苦痛を与えたために中断せざるを得ませんでした。そこで空軍軍医大尉のS. ラッシャー医師(敗戦前に死亡)、ドイツ航空実験研究所のS. ルッフ医師およびH. W. ロンベルグ医師は、ナチス親衛隊次官のR. ブラントの許可を得て、低圧実験室の中にダッハウ強制収容所の囚人を入れて高度20000mに匹敵する低気圧にまでさらす実験を、1942年3月頃から8月頃まで行いました。ユダヤ人やポーランド人やロシア人捕虜約80人がこの実験で亡くなりました。実験の経過は克明に記録され、死体は解剖されました。かろうじて生き残った被験者もひどい後遺症に苦しみました。 

(B) 低体温実験
 空中戦で撃墜されパラシュートで脱出した後、北海に落ちたパイロットは、冷たい海水にさらされて凍死することがありました。そこでドイツ空軍軍医中佐G. A. ヴェルツ医師はラッシャーと協力して、低体温状態に陥った人間を蘇生させる実験を、ダッハウ強制収容所で1942年の8月頃から1943年の5月頃まで行いました。囚人たちは、耐寒飛行服を着せられて氷水のタンクに3時間漬けられるか、凍てつく戸外に裸で9時間から14時間さらされたあと、さまざまな方法で体を温められました。被験者の体温測定や血液の採取が行われ、死亡した被験者の解剖も行われました。温める方法は、熱い湯につけるほか、親衛隊元帥ヒムラーの命令でラヴェンスブリュック強制収容所から4人のロマ(いわゆる「ジプシー」)の女性囚人を呼び寄せ、裸にさせて被験者を2人ずつの間にはさんで体温で温めさせるということまで行われました。この実験で約90人の囚人の生命が奪われています。
 実験結果は1942年10月にニュルンベルクで行われた医学会議で、ラッシャーにより「低体温の防止と治療」と題して、またヴェルツにより「危険な点にまで冷却した後の温め直し」と題して、それぞれ発表されています。

(C) マラリア実験
 やはりダッハウ強制収容所で、1942年2月頃から1945年ころまで行われたこの実験では、1000人以上の囚人たちが、汚染された蚊に刺されたり、蚊の粘液腺からの抽出物を注射されたりして、人為的にマラリアに感染させられ、さまざまな予防薬や治療薬のテストに使われました。カトリックの司祭も被験者の中に含まれていました。30人がマラリアによって死亡し、300人から400人が薬の副作用や合併症で亡くなったといわれています。

(D) 毒ガス実験
「ロスト」と呼ばれた毒ガス(マスタード・ガス)による火傷の効果的な治療法を開発するための実験で、1939年9月から1945年4月まで、ザクセンハウゼンやナツヴァイラーをはじめとする各地の強制収容所で何度も行われました。被験者は毒ガスを肌に塗られ、全身に火傷を負ってひどい苦しみを味わい、盲目になったり死亡した者もいました。被験者の傷や回復の様子は毎日写真に撮られ、死亡者は解剖されました。被験者や解剖で取り出された臓器の写真は写真集として公刊されました。

(E) サルファ剤治療実験
 1942年7月頃から1943年9月頃までラヴェンスブリュック強制収容所で行われたこの実験は、戦場での負傷にサルファニルアミド(サルファ剤)がどのくらい有効かを確かめるものでした。被験者は足に切り傷を作られ、傷口に木くずやガラスの破片を擦り込まれ、数日後にサルファ剤で治療が試みられました。銃創に似せる場合は、傷の上下の血管を結紮して血行が妨げられ、ガス壊疽に感染させられました。被験者は死亡したり、ひどい後遺症に苦しんだりしています。

(F) 骨・筋肉・神経の再生実験および骨移植実験
 やはりラヴェンスブリュック収容所で、1942年9月頃から1943年12月頃に行われた実験で、女性の囚人から骨や筋肉や神経の一部を摘出してそれらが再生するかどうかを調べ、また他者への肩胛骨の移植が試みられました。実質的には科学的目的すらなく、ただ被験者にひどい苦痛を与えただけの、無意味な実験でした。

(G) 海水飲用実験
 ドイツ空軍と海軍の要請で1944年7月にダッハウ強制収容所で行われた、非常時に海水を飲めるようにするための実験です。被験者となった囚人は、難破した時と同じように乏しい食糧しか与えられずに、4つのグループに分けられます。第1グループにはいっさい水分を与えられません。第2グループには通常の海水だけが与えられます。第3グループには塩味を隠しただけで塩分はそのままの海水が与えられます。そして第4グループには塩分を取り除いた海水が与えられました。ロマの人々、ユダヤ人、および政治犯が被験者として用いられ、ひどい苦痛にさいなまれ、亡くなる人もいました。

(H) 流行性黄疸(肝炎)実験
 1943年7月頃から1945年1月まで、ザクセンハウゼンとナツヴァイラー強制収容所で、流行性黄疸(肝炎)の原因と予防接種を研究するための実験が行われました。11人のユダヤ人の子供を含む被験者は肝炎に感染させられ、肝臓穿刺を受け、死亡したり、著しい苦痛にさいなまれたりしました。

(I) 断種実験
 アウシュヴィッツ、ラヴェンスブリュックほかの強制収容所で1941年3月頃から1945年1月頃まで行われたこの実験は、ロシア人・ポーランド人・ユダヤ人その他の人々を、少ない費用でそうと気づかれないうちに大勢断種できる簡便な方法を開発するためのものでした。数千人の人々がX線照射や手術や薬剤で不妊にさせられ、副作用に苦しみました。

(J) 発疹チフスなどの実験
 1941年12月頃から1945年2月頃にかけてブヘンヴァルトとナツヴァイラーの収容所で、発疹チフスの実験が行われました。ワクチンや薬剤の有効性を確かめる実験では、被験者の75%にワクチンや薬剤を投与され、3週間から4週間後、発疹チフスに感染させられました。残りの25%の被験者は「対照群」として、何の予防措置もなくチフスに感染させられました。それだけではなく、単に発疹チフスウイルスの培地とするためだけに数多くの健康な囚人がチフスに感染させられ、その90%以上が死亡しました。数百人の人々がこの実験の犠牲になっています。黄熱病、天然痘、パラチフス、コレラ、ジフテリアの実験も行われました。

(K) 毒物実験
 1943年12月頃と1944年10月頃に、ブヘンヴァルト強制収容所で、さまざまな毒物の影響を調べる実験が行われています。ロシア人囚人の食事にひそかに毒が混ぜられ、死亡したり、生き残った場合でも解剖のために殺されました。1944年9月頃には5人の囚人が毒を詰めた銃弾で撃たれ、弾が貫通した2人を除く3人が毒によって死亡したという実験報告があります。

(L) 焼夷弾治療実験
 1943年11月頃から1944年1月にかけてブヘンヴァルト収容所で、焼夷弾による火傷の治療実験が行われました。1943年11月には5人の被験者が英国軍の焼夷弾から取り出された燐で火傷を作られ、著しい苦痛を味わわされました。

(M) ユダヤ人骨標本コレクション
 親衛隊大佐W. ジーフェルスは1942年2月、R. ブラントを通じてヒムラー元帥に、ユダヤ人種の頭蓋骨標本を作る学術的必要性を訴え、そのためにユダヤ人共産党員の捕虜を用いるよう要請しました。ヒムラーは東部戦線の捕虜ではなくアウシュヴィッツ強制収容所の囚人を用いるよう伝えました。その結果、112人のユダヤ人が選ばれ、写真を撮られ、人体各部分を計測された後に殺害されました。死体はストラスブルク大学に送られて解剖され、さまざまな検査や臓器の計測が行われたあと全身骨格の標本にされ、ストラスブルク大学解剖学研究所の骨標本コレクションに加えられました。

(N) ポーランド人結核患者の大量殺害
 1942年3月から1944年1月にかけて、占領したポーランド地域に住むドイツ人の健康を護るために、結核に感染されているとみなされたポーランド人は殺害されたり、治療施設の乏しい収容所に押し込められたりしました。そのため、数万人のポーランド市民と兵士が結核で死亡しました。

(0) 障害者の「安楽死」
 1939年9月から1945年4月まで、ドイツおよび占領地各地で、障害者・高齢者・末期患者・奇形児など「穀潰し」とされた人々の大量殺害が行われました。「安楽死」と呼ばれたこの殺害計画は、ナーシング・ホームや病院や施設で、ガスや注射その他の方法を用いて行われ、遺族には自然死や病死と伝えられました。「安楽死」に従事した医師たちはやがて東部の占領地域に送られて、ユダヤ人の抹殺に従事しました。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・(転載ここまで)

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