今回は我が国の精神保健福祉に関するターニングポイントとなる1964年に起きた、ライシャワー事件について見ていきたいと思います。
精神看護学を学ぶと、このライシャワー事件によって、1965年に精神衛生法が改正されて、より治療的になったという視点もあれば、精神障害者に対する処遇が厳しくなったという結果となります。
その内容は以下の通りです。
・・・・・・・・・・・・・・・(精神衛生法改正(昭和40年改正)
(1965(昭和40)年)
ライシャワー事件の影響もあり、精神障害者に対する不十分な医療が問題となりました。
①在宅精神障害者の治療の促進が図られることとなり、精神障害者の通院医療費公費負担(現:自立支援医療費支給認定)の制度が創設されました。
②措置入院制度が強化されました。
③保健所が精神衛生行政の第一線機関として位置づけられるようになり、保健所等を支援指導するための技術的中核機関として各都道府県に精神衛生センター(現:精神保健福祉センター)の設置が始まりました。
・・・・・・・・・・・・・・・(転載ここまで)
手っ取り早く言うと、「②措置入院の強化」が狙いでした。
その狙いの目的は、5年後である1970年に控えた、大阪万博のために、「治安維持のためホームレスを収容する理由が必要だったこと」にあります。
・・・・・・・・・・・・・・・(アメリカコロラドの精神医療政策)
アメリカでは、1963年、ケネディ教書(精神病及び精神薄弱に関する大統領教書)が発表され、精神障害者らのための積極的な福祉施策がとられるようになりました。
脱施設化、地域精神保健活動が展開されることとなりましたが、地域の受け皿づくりが不十分だったこともあり、多くの精神障害者がホームレスとなってしまう結果も生み出されました。
・・・・・・・・・・・・・・・(転載ここまで)
精神障害者⇒ホームレス、ホームレス⇒精神障害者として、「大阪万博」のためにホームレス対策をしたのです。
それを国が機動隊を使ってやっては角が立つため、「精神保健医療制度」を悪用したのです。
その立役者となったのが「ライシャワー事件」でありライシャワー駐日大使でした。
ライシャワーについて調べていくと、ライシャワー事件以外にも、売血事業を、日本に多大な影響(悪影響)を与えている、戦後の歴史的な人物であることが分かりました。
それではライシャワーさんについて見ていきましょう。
・・・・・・・・・・・・・・・(エドウィン・オールドファザー・ライシャワー(英語: Edwin Oldfather Reischauer, 1910年10月15日 - 1990年9月1日)
アメリカ合衆国の東洋史研究者である。ハーバード大学教授。
1910年(明治43年)10月15日にキリスト教長老派教会宣教師で東京女子大学創立に関わったオーガスト・カール・ライシャワーの次男として、東京府東京市芝区白金台町の明治学院内宣教師住宅で生まれる。
ライシャワー家はオーストリア系移民で、祖父は南北戦争で北軍に従軍し
父は宣教師として日本に派遣されている。
生家は東京都東村山市の明治学院東村山高等学校敷地内へ移築されている。
松方ハルと再婚
ライシャワー夫妻
1955年(昭和30年)にアドリエンが3人の子供を残し急逝し、1956年(昭和31年)には、明治時代の元勲の松方正義と、生糸貿易の先駆者で元横浜生糸会社会長の新井領一郎の孫、さらにアメリカンスクール・イン・ジャパンの後輩である松方ハル(1915年8月6日 - 1998年9月23日)と日本において再婚する。
披露のパーティーは父母が創設に尽力し、そのキャンパスに住んだ東京女子大学で行われた。
この年にハーバード燕京研究所所長となった(1963年まで)[3]。1958年にはノーベル文学賞候補として谷崎潤一郎を推薦していたことが、2009年にノーベル財団への資料公開請求をおこなった朝日新聞の報道により明らかにされている
ジョン・F・ケネディ大統領からの大使就任要請を受諾したライシャワーは、1961年(昭和36年)4月には駐日アメリカ特命全権大使として東京に赴任し、「日本生まれのアメリカ大使」として日本人の妻とともに日本国民から人気を博す。
日米パートナーシップ
リンドン・B・ジョンソン大統領
出生や家族といった側面だけでなく、ライシャワーは上記の論文で主張した日本の多くの層との対話を実行に移し、全国に妻とともに積極的に出向き、市民との対話を演出したほか、昭和天皇などの皇族や、池田勇人や佐藤栄作などの現職の首相や、吉田茂や岸信介などの元首相などの与党リーダー層のみならず、社会党などの左派野党議員や石坂泰三などの経済人、池田大作などの宗教関係者や左派を含む労働組合関係者とも積極的に会談を行うなど、アメリカ本国のケネディ政権と協調して日米政府間の対等をアピールすることで、「日米パートナーシップ」、「ケネディ=ライシャワー路線」と称される日米蜜月時代を演出しようとした。
「ライシャワー事件」
1964年(昭和39年)3月にアメリカ大使館門前で当時19歳の統合失調症患者にナイフで大腿を刺され重傷を負った。
この時に輸血を受け「これで私の体の中に日本人の血が流れることになりました」と発言し多くの日本人から賞賛を浴びたが、この輸血が元で肝炎に罹る。
その後、これがきっかけになり売血問題がクローズアップされ、その後日本において輸血用血液は献血により調達されることになる。
この事件は「ライシャワー事件」と呼ばれ、精神衛生法(当時の名称)改正や輸血用血液の売血廃止など、日本の医療制度に大きな影響を与えた。
その後3ヶ月の入院を経て回復し退院し(その後ハワイ州ホノルルの海軍の病院に検査のために再入院した)一時は辞任を考えたものの、「今退任し帰国すれば日本人は事件の責任を感じてしまうだろう」と考え留任することを決め、その後も駐日大使として活躍した。
さらに中曽根康弘首相や韓国の野党指導者の金大中(その後大統領)に対しても様々な助言を行った。
また、佐藤栄作のノーベル平和賞受賞(1974年)に際しては、佐藤の受賞の推薦文を記述した。
・・・・・・・・・・・・・・・(転載ここまで)
簡単に整理しましょう。
①ライシャワーは日本生まれ
②その後渡米し帰国、松方正義の孫と再婚
③ライシャワー事件勃発
右大腿部刺傷全治三週間、輸血実施しそれが原因で肝炎感染
そのため、売血事業全廃になり献血となる。
というところでしょうか?
ながくなるので転載していませんが、ライシャワーはオーベリン大学卒業後、ハーバード大学で研究しています。
オーベリン大学は桜美林大学の名前の由来となってます。
まずはこの松方正義の孫でライシャワーと再婚したハル松方について見ていきたいと思います。
・・・・・・・・・・・・・・・(ライシャワー ハルマツカタ Reischauer Haru Matsukata)
大正〜平成期の女性 ライシャワー元駐日米国大使夫人。
国籍 アメリカ
生年 1915年
没年 1998年9月23日
出生地 東京
旧姓(旧名)松方 春(マツカタ ハル)
学歴〔年〕プリンシピア大学(米国)卒
経歴 アメリカン・スクールなどで教育を受け、1937(昭和12)年米国留学から帰国。
戦後、クリスチャン・サイエンスモニター紙、サタデー・イブニング・ポスト紙の東京特派員になる。
’56年東洋学研究者ライシャワー教授と結婚。
’61年夫が駐日米国大使となり、’66年までの在任中、夫妻で両国の友好に尽力した。
また’91年にはサンディエゴ大学カリフォルニア校にライシャワー記念講座を設立し、年1回日本研究の公開講座を開催。
国際交流に尽くすかたわら、父方の祖父で政治家の松方正義と母方の祖父で絹商人の新井領一郎の伝記を中心に研究、
’86年「絹と武士」と題して出版した。
他の著書に「婦人と国際理解」がある。
・・・・・・・・・・・・・・・(転載ここまで)
どうしようもない婦人ですね。
松方正義と言えば、歴代首相を何度もやっています。
<八木沼純子の祖先>
まずはハル松方が務めていたクリスチャンサイエンスについて見ていきましょう。
・・・・・・・・・・・・・・・(RAPT×読者対談〈第84弾〉自己啓発もスピリチャル系も悪魔崇拝)
「ジョゼフ・マーフィ」は「ニューソート思想」なるものを広めた人物ですが、この「ニューソート思想」は一見するとキリスト教的な思想です。
それなのに、この日本で「ニューソート思想」を広めたのが、神道系の「生長の家」の教祖「谷口雅春」です。
要するに、「ニューソート思想」とはキリスト教っぽく見せかけた「悪魔教」というわけです。
----------------(以下、こちらから転載)
ニューソート(New Thought、新思考)は、19世紀アメリカ合衆国で始まったキリスト教における潮流のひとつ、一種の異端的宗教・霊性運動で、現世利益の追求を戒めるキリスト教プロテスタント系のカルヴァン主義への反発を背景として生まれ、ラルフ・ワルド・エマーソンの哲学を支えに徐々に社会に浸透した。
アメリカのメスメリスト(催眠治療家)・心理療法家フィニアス・クインビーやクリスチャン・サイエンスの創始者メリー・ベーカー・エディの思想を中心とする。アメリカの対抗文化の流れを汲むニューエイジの源流のひとつである。
ニューソートは、聖書の内容を従来とは違う立場から解釈しようとするもので、「人間の意識は宇宙と繋がっている」と考え、その根拠を聖書に求める思想が主流である。
「そもそも『原罪』は存在せず、あらゆる人々がキリストの力を内包している」「正統的宗教哲学は数百年間過ちを犯し続けてきた」といった主張を展開して異端視されたが、従来の禁欲的キリスト教思想に疑問を抱いていた思想家、労働者、零細農場や工場の経営者らに影響を与えた。
「生長の家」の創設者谷口雅春が光明思想と訳しているように、気持ちを明るく保つことによって運命が開けるというポジティブ・シンキングや、日本でも著作がベストセラーになっているイギリス出身の牧師ジョセフ・マーフィーの成功法則などもニューソートの一環であり、いわゆる成功哲学の著者の多くがこれに属する人々である。
心や思考の性向が健康や経済状態として表れる(思いは現実になる)という考え方は、現代の自己啓発やビジネス書の源流である。
禁欲を説いたカルヴァン主義への反発として19世紀に生まれた運動で、源流として、新教のカルヴァンに火刑にされた16世紀の神学者・医者・人文主義者セルヴェストス(ミシェル・セルヴェ)や、17〜8世紀の科学者・神学者・神秘家エマニュエル・スウェデンボルグを認める向きもある。
直接的には、フィニアス・クインビーというメスメリスト(催眠治療家)・心理療法家の治療哲学・病気観が元になっている。彼は、患者の心の在り様が病に影響しており、病気の本質は患者が持つ誤った信念であり、信念を正せば病気が治ると考えた。
ニューソート運動は「ポジティブ・シンキング」という言葉を通して普及し、アメリカの価値観や成功哲学や自己啓発のルーツの一つとされている。
マーチン・A・ラーソンはニューソートの主張を以下のように要約する。
・人間の心情と意識と生命は宇宙と直結している。
・あらゆる病の本質は自己意識に対する無知が原因である。
・原罪は存在せず、万人が「キリスト」の力を内包している。
・全人類に、喜びと成長と発展と幸福の機会が既に与えられている。
・人間は内なる「神」の一部を顕現すべく無限の発展を遂げつつある。
・正統的宗教哲学は数百年間過ちを犯し続けてきた。
・愛の力は神の意志の地上的表現である。
(註:東出融氏の言っていることと似ていますね。結局、彼の言説もまたここら辺から出ているというわけです。)
ニューソートの多くは説得を主な技法としたが、1893年シカゴの世界宗教会議でスワミ・ヴィヴェーカナンダが人気となってから、インドの心身訓練法もアメリカに伝わり、インド人ヨガ行者ラマチャラカを名乗り呼吸法の著作を刊行したウィリアム・ウォーカー・アトキンソン(英語版) (1862 – 1932)のように、ニューソートの中には呼吸法を取り入れたものもあった。
(註:ここでもまた「ヨガ」が出てきました。「ヨガ」と悪魔教の関係については「こちら」をご参照ください。)
----------------(転載ここまで)
このように「スピリチャル系」も「自己啓発」も、その源流は「ニューソート」思想にあり、その「ニューソート思想」を日本で広めたのが「生長の家」の「谷口雅春」。
で、「谷口雅春」といえば「ルシファー=国常立尊」を神と崇める「大本教」の出口王仁三郎の弟子だった人です。
・・・・・・・・・・・・・・・(転載ここまで)
ハル松方はクリスチャンサイエンスで東京特派員を務めていた、そしてクリスチャンサイエンスは「ニューソート思想」であり、その思想を日本に広めたのが生長の家の「谷口雅春」であったのです。
そして、谷口雅春は悪魔を拝んでいる生長の家の教祖であり、戦争礼賛する危険思想団体の創始者でもあるのです。
(詳しくはこちら)
首相のお孫さんを奥さんに迎えることができる男、それがライシャワー。
そして、日本銀行を作ったのが松方正義です。
松方正義について見ていくと、鹿児島市生まれの彼は首相をしていたり、日本銀行を設立したり、日本赤十字社の社長までやっています。
・・・・・・・・・・・・・・・(松方 正義(まつかた まさよし、天保6年2月25日(1835年3月23日) - 大正13年(1924年)7月2日)
日本の武士(薩摩藩士)、政治家。位階勲等爵位は従一位大勲位公爵。
明治期の日本において内閣総理大臣を2度(第4・6代)務めるとともに大蔵卿、大蔵大臣(初・第2・第3・第4・第6・第8・第11代)を長期間務めて日本銀行を設立したり、金本位制を確立するなど、財政通として財政面で業績を残した。
また、晩年は元老、内大臣として政局に関与し影響力を行使した。独逸学協会名誉会員。
日本赤十字社社長。
幕末期
島津久光の側近として生麦事件、寺田屋事件等に関係した
慶応2年(1866年)、軍務局海軍方が設置され御船奉行添役と御軍艦掛に任命される。
慶応3年(1867年)、軍賦役兼勤となり、長崎と鹿児島を往復して、軍艦の買い付けなどに当たった。
大蔵省官僚として財政畑を歩み、内務卿・大久保の下で地租改正にあたる。
だが、財政方針を巡って大蔵卿・大隈重信と対立する。
当時は明治10年(1877年)の西南戦争の戦費の大半を紙幣増発でまかなったことなどから政府紙幣の整理問題が焦点となっていた。
松方は大隈が進める外債による政府紙幣の整理に真っ向から反対したのである。
その結果、伊藤博文の配慮によって内務卿に転出する形で大蔵省を去った。
1901年12月29日に日本赤十字社社長に任命される。
フランスから帰国した松方は、明治14年(1881年)7月に「日本帝国中央銀行」説立案を含む政策案である「財政議」を政府に提出し、政変によって大隈が失脚すると、参議兼大蔵卿として復帰し、日本に中央銀行である日本銀行を創設した。
帰国後の明治36年(1903年)には戴冠式を終えたエドワード7世からナイトの最高勲章を贈られている。
また、栃木県那須(現在の那須塩原市)に千本松牧場を開場。後に隣接して別邸(松方別邸)を造り、皇太子・嘉仁親王を招くなどの社交の場とした。
・・・・・・・・・・・・・・・(転載ここまで)
松方正義は皇太子を招いて社交パーティーをしていたそうです。
明らかに、松方正義の孫のハル松方は天皇家一族とかかわりのありそうな人物ですね。
長くなりましたのでまとめます。
1964年のライシャワー事件とは、
ライシャワー駐日大使が、暴漢に襲われたということだそうですが、真偽は不明。
そこで右大腿を刺傷し全治3週間の負傷。
その際、輸血を受け、ライシャワーが肝炎に感染したらしい。
売血制度が残る日本では、肝炎ウィルスを含む血液が医療現場で使用されているため、売血制度を廃止し、献血制度になり、日赤の独占市場にこじつける。
①暴漢=統合失調症にして大阪万博のホームレス対策
②売血利権を天皇家一族が独占するために、輸血感染という茶番
これがライシャワー事件のように思えます。
いずれにせよ、相馬事件も含め、日本の精神医療政策におけるターニングポイントとなるものの背景にはそれだけではすまない悪人たちが隠れていますね。
教科書の内容は嘘だらけです。
精神科医療政策は闇だらけですね。
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