今回の記事は「自殺」についてお話をしていきたいと思います。
このブログでは「精神科看護」について焦点を当てている内容が多い為、「自殺」というものについて非情に様々な面から分析し判断した記事が存在します。
・うつ病の臨床実態について。警察を使った自殺:自らの命を警察によって絶たれることを願う「警察による自殺」とは?
・狂った学歴制度 何のための学歴なのか?九大箱崎キャンパス火災 元院生の男性 放火し自殺か 身元判明、福岡東署
・女子大に男子が入学する時代、性の撤廃、ヒッピー文化で蔓延したのは麻薬文化など人間の退廃で、人生の目標を見失ってしまう。
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・世間様信仰の日本人「なぜ人を殺してはいけないのか?」「なぜ自殺してはいけないのか」と子供に質問されたどうしますか?
私たちは生まれてきても、「必要な存在ではない」状態です。
なぜなら、一方的に親から食事やら排泄やら睡眠の援助を受けないと生きていけないからです。
そこには憐みを受ける立場によって生命が存在しているといえます。
そして、体が成長していくと、世の中に必要な存在になるために学校に通学したり、社会に参加して磨かれて行きます。
そこで、「社会参加」をして、世の中に必要な存在になっていきます。
世の中ではどのような存在になることが求められるでしょうか?
「生産性が高い存在になる」
「会社に利益をもたらす存在なる」
つまり、「自分の所属するグループに有益をもたらす存在にならないといけない」のです。
しかし、今一度考えて欲しいのですが、世間の基準とは一体何でしょうか?
ここにA、B、Cの3人の人物がいます。
Aさんは、嘘つきだが要領よく、成績は優秀
Bさんは、正直者だが、成績は中の中
Cさんは、怠け者で、成績は下の下
・一般社会で目指すのは、Aさんです。
「要領よく、成績優秀。生きていて嘘をつかない人なんていないでしょ?」
・そして「正直者は馬鹿を見る」と揶揄されるのがBさん。
・犯罪者になるのがCさん。
私の親友は30歳で自殺しました。
その親友は上の表でいえば、Aのタイプでした。
小さな頃から成績優秀で、リーダー格になるような存在でした。
情に厚く、クラスでもいつもムードメーカー的存在でした。
しかし、私の携帯電話に突然見知らぬ連絡先から電話がありました。
その電話の主は友人の姉からでした。
「〇〇の姉です。お久しぶり。〇〇が死にました。。。。」
「え!?交通事故か何かですか?」
「うんうん、、、、言いにくいんだけど自殺なの」
「いやいや、冗談でしょ?」
その後、通夜と告別式の日にちを聞いて切断しました。
そして通夜に参列し、遺族に手紙を渡しました。
葬儀が終わった週末、親友宅に挨拶にお邪魔しました。
そこで親友の母と姉から
「手紙ありがとう。告別式で読んでもらいました。お経を上げているお坊さんがそれを聞いて泣いてしまいました。
あの子も、たった一人だけど手紙を持ってきてくれる友達がいたんだと嬉しく思いました」
と話されました。
親友は、それこそ職場の同僚含め、友達100人はいるような顔の広い人間でした。
しかし、最期は私一人が手紙を持ってきただけだった。
形式的に通夜や告別式には来てくれるが、「心を捧げてくれた人はたった一人だった」のです。
続けて、その場で親友が自殺した状況と原因を教えてもらいました。
「彼女と同棲していたアパートで自殺したんです」
親友には実は交際している異性がいました。
しかし、私も含め親友の家族のだれもそのことを今の今まで知りませんでした。
実は親友の家族も警察から連絡を受けて、そのアパートまで死亡確認と遺体を引き取りに行っているのです。
そして、その警察も、親友が以前同棲していた元彼女から通報を受けて部屋に入ったところ、「首つり自殺していた」というのです。
そして、親友の家族は私にだけ、「友達には口外してほしくない」と言い、親友の遺書を見せてくれました。
その内容は、無くなった親友から当時同棲していた女性に向けた内容でした。
「あなたが出ていってしまって、生きていても楽しくない。
これが最期のお別れの手紙だと思って書いています。
この手紙を読んでいる時に、私はもうこの世にいない。
もう一度戻ってきて欲しかった。
やり直したい、謝罪したいと思って何度も電話したが、あなたはは無視しつづけた。
もう限界だ。こんなに苦しいのは嫌だ。
私は自殺する。
あなたは私を無視し続けて、私を追い込んだ。あなたが私を殺したのだ。
死ぬまで後悔しろ」
という「あの情と人望に厚い」親友らしからぬ内容でした。
そして、その遺書の内容が、稚拙で、感情的で
しかも、親友の私や親に向け「申し訳ない」といったものではなかったのです。
私は親友と自殺する4日前に会っていました。
就職のため、県外に引っ越しする前日に「食事でも行こう」とこちらから誘ったのです。
その日は夕食をおごってくれて、いつもに増して気前が良かった。
大切にしているものも「不要になったから使ってくれないか?、落ち着いたら取りに来てくれ」と笑顔で話していったのです。
私は就職のお祝いだと思っていました。
親友が自殺した日の夕方、親友の姉から私の携帯電話に連絡が入りました。
親友の姉は「着信履歴がある人から順番にかけていった」と話してくれました。
実は、最新の着信履歴があったのは、親友と同棲していた人でした。
そして2番目が私でした。
親友の姉が、同棲相手に連絡をしたところ、
「これ以上、交際し続けることが難しくなったため、私は地元に帰りました。
その後も毎日のように、しつこく連絡があったのですが、復縁するつもりもなく無視していたのです。
ところがある日、いつも入れない留守電が入っていたため、確認すると軽いノリで”私は今から自殺するから”というメッセージがありました。
どうせ、気を引きたいだけだろうと思い、放置しておいたのですが、それ以来、毎日のようにかかってきてた電話が突然鳴らなくなったんです。
心配になって、携帯に電話しましたが何度電話しても出ない、出てくれない。
安否を確認するために、警察に電話をしました。
そしたら、このような事態になっていたのです。
二人の関係はもう友人でも恋人でもありません。
数年間同棲していましたが、つい一週間前に、ちょっとしたすれ違い、価値観の違いから口論になって、私から出ていきました。
ちゃんと話し合いはできませんでしたが、彼は非を認めてくれなかったから、もう無理だと。
同棲を解消し田舎に引っ越しをしてしまったため、親族でもない人の通夜や告別式に仕事を休んでまで参加することは難しいです。
私には関係ないと思っていたけど、私にも自殺させてしまった原因があるかと思うと申し訳ないです。」
という内容でした。
私は原因を知ってから
「なぜ相談してくれなかったのだろう」
「恋愛に疎い私には相談してくれなかったのかもしれない」
と思いました。
しかしその理由は親友本人の生き方にあったのです。
他人には弱みを決して見せない性格だったのです。
わたしからすれば、いえ、世間からすれば「たかが恋愛」です。
その「たかが恋愛すら上手くいかなかったこと」を気に留めていたからでしょうか?
私の親友は
Aさんは、嘘つきだが要領よく、成績は優秀
Bさんは、正直者だが、成績は中の中
Cさんは、怠け者で、成績は下の下
Aさんタイプでした。
誰もが羨むような生き方をしていたと思います。
しかし、虚しさや突然襲ってくる孤独感、劣等感に耐えられなかったのでしょう。
そして、思い通りにならない「人の心の移り変り」に翻弄されてしまったのではないかと思います。
人の心は一日にどれくら心変わりするかご存知ですか?
おおよそ、1万回は心変わりするそうです。
1万回目移りするのです。
それぐら、人の心は変わりやすい、軸が定まっていない、価値観がころころ変わる
だから、人生が苦しく感じるのです。
なぜ、人の心がそんなにコロコロ変わるのか?
それは「人生という旅の地図は与えてもらっており、お金は自分で稼ぐことはできる。しかし、旅のゴール、目的地を教えてもらっていないから」なのです。
「好きなところに行っていいよ。」
と地図を手渡されているだけです。
目的地がありませんから、「みんなが世間が良いと言っている方向に出かけよう」として右往左往するのです。
その価値観を作っているのが「マスコミ」でした。
マスコミは政府、政治経済、教育、メディアを巧みに使い、「自社製品を消費させるため」に世論誘導しているだけです。
そして、庶民からお金=人生の労働時間を収奪し富の偏りを作っていきます。
富の偏りができれば、庶民は「よりお金が価値があるものだ」と錯覚し始め、
「人生で大切なのはお金、富であり、富が手に入ったら、有名になって他人から羨ましがられること、つまり名誉が価値があるのだ」
と刷り込んでいきます。
そして「富や名誉を手に入れれば素敵な異性が手に入る」と。
<ゾゾ前澤と剛力彩芽>
実際に「富や名誉」を手に入れても、心が満たされるどころか、「もっと手に入れたい、全てを手に入れたい、あいつよりも有名になりたい、金持ちになりたい、世界を手に入れたい」という欲望が膨らむ一方で、それまで得た、富や名誉を手放すまいと必死なりもがき苦しみます。
そして、その過程で、嘘をついたり、人を罠にハメたり、平気で不正を行うようになるのです。
そのように富や名誉を得た人達の末路はどうなるでしょうか?
皆、死ぬときにはその富や名誉を手放さなくてはいけなくなり、さらに絶望していくのです。
そして、マスコミは「富や名誉を授与する側の組織」ですから、それらに溺れた人々の末路を見て
「残念でした~」
と言って嘲笑っているのです。
<ヒラリークリントン「残念でした~」>
私には、人を絶望させて笑いに変えたり、喜ぶ価値観を理解できません。
しかし、世の中ではそのようなお笑い番組ばかりですね。
<”ドッキリ企画でよってたかって若手芸人を馬鹿にする企画”でブレイクそたロンドンブーツ1号2号>
(こちらの記事も参考にしてください)
・いじめ芸・ツッコミ文化による自殺助長、松本人志やロンドンブーツ1号2号は本当に笑いの天才なのでしょうか?
これがマスコミの本性であることは間違いありません。
エルメスやルイヴィトンのようなブランドバッグや財布を数十万円支払って買い求める姿を見て
「原価数百円のカバンに10万円以上支払っている庶民って、本当に馬鹿じゃねぇの!?笑いが止まらねぇわ」
と爆笑しているのでしょう。
そして、バカにする側になりたいと思い、馬鹿にしている芸能人のファッションを若者たちは真似することで
「馬鹿にされない人になろうとしている」のかもしれません。
「馬鹿にされる人、馬鹿にされる芸能人はダサい」
「ダサいから馬鹿にされる」
という思考回路になり、
「舐められないように、馬鹿にされないようにファッションなど外見で身を守る」
のが現代人の特徴かもしれません。
親友は恋人に逃げられ、惨めな気持ち、誰にも相談できない寂しい気持ち、孤独感、虚無感に襲われたのでしょう。
つまり「自分が価値があるもの」と信じていた物を失い絶望してしまったのです。
しかし、私たちが価値があると思っているものは、本当に価値があるものなのなのでしょうか?
あなたの友達も家族も、明日には交通事故に巻き込まれたり、突然脳梗塞や急性心筋梗塞になって突然死したり、うつ病になって自殺していなくなってしまうかもしれません。
たった一瞬で失ってしまいます。
お金を払っても死んだ人は戻ってきませんから、あなたが一生懸命ためてきた通帳の残額も単なる数字です。
「幸せが手に入る」と信じてローンを組んで買った家もかっこいい車を手放しても、死んでしまった人を取り戻すことはできないのです。
テレビを通し、金持ち経営者、芸能人、スポーツ選手などの派手な結婚式やお葬式を見て、人間はいつからか、
「人よりも金や物に価値がある」と勘違いし始め、
同じ人間でも「より富を持ち名誉がある有名人のほうが価値がある」と錯覚し始めました。
しかし、地位や名誉も政権や法律など、突然風向きが変われば塵のように価値のない存在になってしまいます。
あなたの大切にしている服や物も、火事や津波や地震がこれば、手放さなくてはならなくなります。
そして死ねば忘れ去られ、全て紙切れとなり土に還るのです。
実は、私たちはこの世で「一時的なもの」を所有し続けるためだけに人生の多くの時間を費やし「必死にもがき苦しんでいる」だけなのです。
これが人生の真理なのです。(だからお布施ばかりさせる形式的なカルト宗教に入れとはいいません)
私の親友に何が足りなかったのでしょうか?
「気持ちを入れ替えて新しい異性、同棲してくれる人を探せば良かったのでは?」
そう考える人がいるかもしれません。
しかし、そんなことで問題は解決するでしょうか?
私の親友についてきてくれる異性は以前のようなタイプの人しかついてきてくれないでしょうから、結局同じようなことで揉め事を繰り返すだけなのです。
結論を言います。
私たちは、ただ「神を愛すればいい」のです。
「神を愛する」とは一体どういうことなのでしょうか?
「愛してまーす!!」と宣言することでしょうか?
<新日本プロレス棚橋弘至>
違います。
愛するとは「相手が喜ぶことを相手と一緒にしてあげること」です。
そして「相手が求める存在になろうと毎日必死に努力すること」です。
「神を愛する」とはそういうことです。
世間の愛とは
「性欲」「支配欲」「独占欲」「自尊心」「世間体」
といった「自分の欲を満たし、孤独感を紛らわしたり、安心を得たりするような自己中心的なこと」を「愛だ」と考えています。
相手が人間では見返りは少ないですし、人間の価値観や考えは1日に1万回も変わります。
それこそ、人間から愛をもらおうとしたり、愛することは難しいのです。
例えるなら、世の中にジャニーズファンは沢山います。
しかし、一筋の心で追いかけ続けるファンがどれくらいいるでしょうか?
例え、アイドルが結婚しても、覚せい剤で逮捕されても、犯罪を犯しても、、、、
それでもファンでい続けられる人がどれくらいるでしょうか?
どれだけライブで応援したりグッズを購入して応援してあげても、アイドルはファンの期待には充分に応えてくれません。
むしろ売れなくなってくると、仕事を選べなくなるためか、イメージと違う仕事を受け、収録中、突如本性を剥き出しにしてしまい、ファンを絶望させるアイドルもいます。
私たちは、愛をもらうために「愛される存在になろう」と努力します。
しかし、人間の愛はそれこそ1日に何回も変わります。
つまり、愛されるには、それこそ「1日に1万回変わる!」という覚悟がなければ
「人間からの愛は受け続けることができない」
のです。
そして、相手の価値観が狂ったものになったり、到底受け入れがたい反社会的な考えになったとしても、変わり続けることができるかどうか?です。
「お前なんか目障りだから死んでくれ」「あいつが腹立つから殺してくれ」
一時的にでも、そんなことを言ってくるような、そんな価値観を持つような「人間」から貰える「愛」なんてどれほどのものでしょうか?
実は「目に見えるものほど脆いものはなく、不確定なものはない」のです。
それは、「内側が図れないから」、「本当は何を考えているかわからないから」なのです。
そして、人間は「正しいかどうか?」ではなく、「一時的な欲望や快楽にいとも簡単に負ける生き物」です。
ノリや勢いで生きている人というのは、「正しいかどうか?」という判断基準を持っていないと公言しているようなものです。
また、「ノリや勢いで生きている」と周囲から思われている人も同様です。
信頼できない人というのは「ノリや勢いで生きている」人のことです。
自殺の根本解決は「傾聴すること」ではなく「神を愛すること」以外では解決できません。
このブログでは「死にたい」という人に対してどのように対応すべきか?という内容のテーマを取り上げていますが、
「死にたいくらい辛いことがあったのですね」
「死にたいくらい苦しいのですね」
と返事されても実は患者は困るのです。
「あなたに話を聞いてもらったから、気持ちが楽になったよ」
と一時的に誤魔化すことしかできません。
「話を聞いてもらって気持ちが楽になるようなこと」で人間は死にたいと思いません。
実は、他に密かに心の中で隠している「絶望していること」があるのです。
例えば、
患「ターミナル期で抗がん剤を使っているため、吐き気が地獄過ぎる、もう抗がん剤を止め楽になりたい、いっそ命を奪ってほしい」
看「吐き気が辛いんですね。」
患「はいそうです。何とかしてください」
看「これは抗がん剤の副作用ですから仕方ありません。楽な体位をとったり、体をさすりますね」
患「そういうことではないんだよ。なぜ人間は最後の最後まで、こんなに苦しまねばならないのか?って聞いているの」
看A「わかりません。不勉強ですみません」
⇒患「あー、そうかい。看護師さんに聞くことじゃなかったね。ありがとう(絶望)」
看B「死ぬ前に苦しみぬいて、極楽に行くと仏教の本に書いてありましたのでその過程だと思います。」
⇒患「極楽浄土ってあるのかい?どんなところ?」
看B「私にはわかりません。本にそう書いてあっただけで、、不勉強ですみません」
⇒患「あー、そうかい。看護師さんに聞くことじゃなかったね。ありがとう(絶望)」
いかがでしょうか?
いくら
①看護技術があっても
②医学知識があっても
③哲学的な死生観の知識があっても
「死」には、太刀打ちできません。
しかし「愛」は「死」を凌駕します。
ですから「愛」がなければ「本質的な看護」はできません。
「愛」がない看護師は、単なる国家資格のケアワーカーなのです。
私の親友の自殺の話から、ターミナル看護まで来てしまいました。
普通に生きていたら「死を喜べる人なんていない」のです。
「人生って何なんだろう?」
と思っている人はいても、その問いに向かい合うひとがあまりにも少ないです。
(もし向かいあいたいと考えるならば「こちら」で学んでみてください。)
そして、「愛を持たなくても看護師になれるのってどうよ?」といまさらながら思えてしまいます。
「死」を乗り越えるために、看護師はもっと「哲学」「宗教」そして「愛」について学ばなければならないと思いませんか?
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