ドナウ川の白い雲

ヨーロッパの旅の思い出、国内旅行で感じたこと、読んだ本の感想、日々の所感や意見など。

アルザス地方とストラスブールの歴史を考える……フランス・ゴシック大聖堂をめぐる旅 3

2013年12月14日 | 西欧旅行…フランス・ゴシックの旅

      ( ストラスブールの街並み )

 前々回、ドイツ・フランスの視察・研修旅行に参加したことに触れた。1995年のことである。

 そのときのドイツの視察先は、ザールランド州のホンブルグというごくごく小さな町だった。乗合バスで15分の所に、州都ザールブリュッケンがある。

 そのホンブルグから3、4キロ、州都から2キロも西に行くとフランスとの国境だと聞いて、驚いたものだ。「国境」というものが、感覚的に日本にいるときとは違う。

 重い響きというか、それに遥けさの思いも加わり、時には、ベルリンの壁であったり、スパイの暗躍であったり……。いかにもヨーロッパ、それもヨーロッパ。

 それはともかく、ザールブリュッケンを歩いていると、フランクフルトやハイデルベルグ、ローテンベルグ辺りと比べ、レストランやカフェの雰囲気も、童話の国のレストランから、どこか瀟洒で洗練された大人の雰囲気になる。 ウエイトレスの女性も、大柄でがっしりしたドイツ女性ではなく、すんなりと小柄な人が多くなり、なるほどここはフランス文化圏なのだと思う。

 ドイツとフランスの長い国境沿いは、幾世代にもわたって、両国の争いのもととなってきた。

 第二次世界大戦の後、例のごとく戦勝国が領土を拡張する、ということにピリオドが打たれ、国境沿いの各地域ごとに、住民投票によって帰属を決めることとなり (これは、偉い‼ 特に、戦勝国のフランスに拍手)、住民投票によって、ザールランド州は晴れてドイツ領となった。

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 話はストラスブール。

 ストラスブールはアルザスと呼ばれる地方の州都であるが、ザールブリュッケンの南東に位置し、西からドイツに食い込んだ形になっている。実は、同じ住民投票で、この地域の住民はフランスを選んだのだ。

 以前、テレビで見たことがあるが、ストラスブールの町の郊外をライン川が流れ、橋を渡ればドイツであり、今では、毎日、橋を渡ってドイツのお店や工場に通勤する人も多いとか。

 フランス側から見れば、木組みの家並やシュークルートなど、ドイツ圏の文化の濃い地方である。我々にはわからないが、話し言葉もドイツ訛りが濃く、アルザス語として学校でわざわざ教えられる。

 それにフランスで唯一、ドイツ並みに地ビールがうまい。アルザスは、ビールも、アルザスワインも美味しい。

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 戦後、フランスの賢人政治家たちは、このドイツとフランスの国境地帯に、その北に位置するオランダやベルギー、そしてもちろんドイツにも働きかけ、一つの経済圏を政治的につくろうという夢を抱き、粘り強く追求した。

 目的は、平和のため。二度と、この地方をめぐる戦争を起こさせないため。手段は、ウィン、ウィンの経済圏をつくる。

 これがEUの始まりである。

 今は、ストラスブールに欧州議会が置かれている。

 アムステルダムからストラスブールへ、昨日乗ったトンボのような小さな飛行機にも、議員、或いはその秘書、或いは議会事務員、或いはEUの予算に関係する企業関係者、そういう人の2、3人ぐらいは同乗していたかもしれない。スーツにネクタイ、黒い書類用カバンを持って、携帯電話に向かって、始終忙しそうに話している人たちもいた。のんびり旅をしながら、ホワイト・カラーもたいへんだなと、つい同情する。

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 ただし、誤解してはいけない。

 日本国内に、EUと同じように東アジア共栄圏をつくろうという声がある。歴史を知らぬ妄想というべきであろう。

 アルザスにしぼってその歴史を見れば、8世紀に西ヨーロッパは、カール大帝という一人の王のもとに、一つの王国をつくった。

 9世紀、カール大帝の死後、ヴェルダン条約によって、フランク王国は、東、中、西に分かれる。西は現在のフランス、東は現在のドイツ、中の南は現在のイタリアの基礎となった。 イタリアの北側が不安定だったが、10世紀にオットー神聖ローマ帝国の傘下に入り、中世を通じてアルザスにはゲルマン文化が栄えた。

 しかし、30年戦争を経て、1648年、アルザスはフランス領となる。

 1870年、普仏戦争を経て、アルザスはドイツ帝国に帰す。

 1918年、第一次世界大戦を経て、再びフランスに編入される。

 第二次世界大戦中にドイツ領となり、戦後処理の住民投票でフランスに帰す。

 こうした辛い歴史を経て、再び戦争をしないために、戦勝国の賢人たちの側から握手の手が差し伸べられ、内外の反対を粘り強く乗り越えて、作り上げたのがEUである。

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 EUにおいて、信仰の自由はもちろん保障されているが、文化はキリスト教だ。

   NATOの一員であるトルコが、イスラム教を世俗化し、懇願しても、EUには入れてもらえない。

 文化とは、歌舞伎や茶道のことではない。 それらは、文化という樹木の、先っぽの小枝の、その先の花のようなものだ。

 文化は、根があり、幹があり、枝がある。花を説明しても、文化の説明にはならない。

 文化とは、歴史的に形成されてきた人々のライフスタイルであり、人々のものの見方・感じ方、感性である。

 全く異なる文化を持つトルコと一つになるのはムリ、とヨーロッパは考える。経済的な「利」のあるところ、何でもひっつける、というわけにはいかないのである。

 ヨーロッパは、2千年近く、戦争ばかりしてきたのも事実だが、それ以前はローマ帝国の旗の下で、パクス・ロマーナを謳歌し繁栄した長い経験を有する。民族大移動期の混乱も、やがてフランク王国の下に西ヨーロッパは統合されたという経験も有する。

 だから、もともとは一つ国であったのだ、ということも可能なのがEUである。

 共通言語は、古代、中世、近代のつい最近までを通じて、ラテン語(ローマ帝国の言語)であった。戦争はしても、リーダーはラテン語で話し合い、ラテン語で和睦の調印書を作ってきた2千年を超える長い歴史がある。最近は英語がこれに代わった。

 肝心・要の安全保障は、第二次世界大戦以後、アメリカに依拠し、NATOに統合している。地域集団安全保障だ。NATOに共産党政権国家は参画できない。

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 中華思想の大国・中国、中国に臣従しながらも準中華国を自負する韓国を相手に、どうやって譲り合い、手を差し伸べ、成熟した関係をつくり、「EU」に育て上げていくのか? 日本が中国、韓国に臣従するしか、和は保てそうもないが、それはもう「EU」 ではない。

 中国も韓国も、儒教の国である。日本は2千年近く、「儒学」を学問として学び、江戸時代にはそれを人文科学・社会科学にまで発展させた優れた儒学者も輩出したが、文化・習俗、ライフスタイルとしての「儒教」を受け入れたことはない。日本は、神と仏の国である。どちらが良い、悪いではなく、価値観が根本的に違うのである。

 早い話、ローマやフランク王国の下に一つになったような経験は、東アジアには、ない。 

 北朝鮮は言うまでもなく、中国共産党とどのようにして地域安全保障体制をつくるのか? もちろん、東アジアの「EU」化を言う鳩山、小澤らは、日米同盟からの離脱も視野に入れているのであろう。

 しかし、そもそも、いかなる根拠があって、中国共産党は、中国人民の上に君臨しているのか? いつ、中国人民が、彼らの政権の正統性を認めたのか? 国政選挙のない国に、「国民」はいない。支配する者と、支配される者がいるだけだ。支配される者たちを「人民」と言う。 

 いつの日か、中国人民が蜂起したら、日中同盟の下に、中国共産党を助けるため、自衛隊を派遣するつもりか?

 米国と距離を置き、中国と「EU」をつくりたいという政治家は、今はなりをひそめているが、実は自民党の中にも、また、エコノミストの中にもいる。目先の利益を優先し、歴史がわかっていないのだ。

 中国や韓国とは、きちんとした国と国との近代的な関係を打ち立てることが大切で、東アジアに「EU」を、などというのは、千年、早い。

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   ( イル川と旧市街 )

 ヨーロッパに紅葉はない。 黄葉、落葉、枯葉……。 緑もあるから、コントラストが美しい。 風情がある。

   

     ( 橋を渡るトラム )

   ドイツでも、フランスでも、オーストリアでも、ちょっとした規模の都市には、瀟洒なトラムが走り、旧市街の景色に溶け込んで、市民と観光客の足となっている。

 道路の真ん中にあるトラムの駅の券売機の前で、幾種類もある切符の中、お得な切符はどれかと、そばにいた若い女性に聞こうかなと迷っていたら、彼女の方から「何かお手伝いしましょうか」と声をかけられた。あとには引けないので、カタコトの英語で聞くと、英語で分かりやすく、丁寧に説明してくれた。

 ヨーロッパの町を歩いていて、「何か、お手伝いしましょうか」と声をかけられることはよくある。

   そこに暮らす人々の民度の高さというか、人としてのレベルの高さを感じる。

 大都市では、旅行者をねらうスリ、かっぱらい、強盗などの犯罪もあって、被害にあったこともあるが、それをやっているのは流れ者で、そこに暮らしている人々ではない。

  

  ( イル川が分岐するプティット・フランス地区 )

 真ん中に遠く見えるのが、町のシンボルの大聖堂。手前、左右に塔があるが、かつて町は塔と城壁によって囲まれていた、その名残り。 橋の向こうに木組みの家。

 「ここ(プティット・フランス地区)には特に美しい古い木造の家々が多く、まるでアンデルセンの童話の町に入り込んだようだ。かつての染物屋、漁夫、細工師たちの住まいだったところである」「かたわらの若い男女たちの姿を見ながら、かつてストラスブール大学に学んだという若い日のゲーテの姿をそこに幻のように点景したものであった」 (饗庭孝男 『フランス四季暦』)。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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