第8日目 5月20日 時に小雨
8時にカッパドキアのホテルを出発した。今日は、黒海地方へ向けて450キロ、7時間半の長いバスの旅である。
目指すのは、サフランボルという世界遺産の小さな町。
最近は世界遺産も増えてきて、わざわざ1日をかけて移動し、1泊してまで行かなくても、という見学地もある。私としては、イスタンブールへ直行してほしいのだが、仕方がない。
それでも、異郷の風景を眺めながら、バスや鈍行列車に乗って旅をするのは好きである。
途中、トルコの首都アンカラで昼食休憩がある。その前に「カマン・カレホユック考古学博物館」に寄る。
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< カマン・カレホユック考古学博物館のこと >
ここは、日本の中近東文化センターによって、1986年以来発掘調査が続けられている遺跡である。
2008年に、世界最古の鋼が発見された
2010年に、日本の資金で、発掘品を展示するための考古学博物館が建設・開館された。
こんもりした緑の丘が、発掘調査されている遺跡の丘だ。そこが考古学博物館の施設にもなっている。
( 考古学博物館のある遺跡の丘 )
玄関の両サイドには、発掘された動物の石像が置かれている。まさに狛犬の風情。
( 考古学博物館の玄関 )
玄関を入ると、中央に発掘現場の丘の模型が置かれていた。
もらったパンフレットによると、丘は径280m、高さ16mとある。ごく小さな丘で、卑弥呼の墓と言われる箸墓程度の大きさである。
だが、この小さな面積の丘に、遥かなる人類の歴史が残されていた。
その一番上の層は、AD15世紀~18世紀のオスマン帝国時代の遺跡。
そこから、一気に、遥かに、時代は遡って、第2の層は、BC400年~BC1200年の鉄器時代の遺跡。ちなみに、トロイ戦争はBC1200年ごろのこととされる。
第3層は、~BC1900年の中・後期の青銅器時代の遺跡。
そして、第4層は、~BC2300年の前期青銅器時代である。
しかも、その下には新石器時代の遺跡があると考えられており、今も発掘が進められている。
青銅器時代の長さに驚く。
日本では、青銅器時代はあっという間で、新石器時代(縄文土器の時代)から、わずかに銅剣・銅矛の時代があって、ほとんど一気に鉄器時代へ入るという感があるが、それは、このように遥かに先を行っていた地域の文明がゆっくりと時間をかけて伝播していき、日本に入るときには、青銅器と鉄器がほとんど相次いで入ってきたからだろう。
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発掘現場と博物館は野の中にある。カマン・カレはもともと、シルクロードの道筋であった。
( 考古学博物館の丘からの眺め )
ガイドのDさんの話]
ここカマン・カレは、シルクロードの道筋にあり、遥か遠くインドにもつながる文明の交流点だった。
現在のトルコ、或いはアナトリアは、38もの人種・民族が混じり合っていると言われる文明の交差点。「純粋なトルコ人」などいません。
トルコ系の民族、いわゆるテュルク系遊牧民族と言われる人々の、今につながる国は、ウズベキスタン、カザフスタン、タジキスタンなど、「… スタン」という名の付いた国々です。
ふーむ。そういうことか…。
(ヒッタイト時代の水差し)
(ヒッタイト時代の印象 )
考古学博物館の横に日本庭園があるというので、行ってしばらく散策した。正式名は「三笠宮殿下記念公園」。
( 日本庭園 )
気の遠くなるような人類史の発掘調査に情熱を燃やし、この異郷の地で半生を生きる日本人たちもいる。
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< 黒海地方の町サフランボルへ >
第一次世界大戦のとき、オスマン帝国はドイツに付いて戦い、敗戦国となった。その結果、オスマン帝国時代に膨張した領土を戦勝国によって切り取られ、戦勝国の植民地にされかけた。
そのような状況下の1923年、ムスタファ・ケマルがオスマン帝国を倒して、トルコ共和国を成立させた。そして、初代大統領となり、トルコの民主化と近代化を推し進めていった。
アンカラは共和国時代になってからの首都である。新しい町だから観光の対象もなく、政治と大学だけの静かな街 … なのだそうだ。
アンカラで昼食をとって、出発した。
( アンカラの街の広場 )
朝、アナトリア半島の中央部のカッパドキアを出発し、アンカラで昼食後、アナトリアの北部、黒海に近いサフランボルまで、さらに3時間半のバス旅だった。
それでも、あきることもなく、窓外の景色を見て過ごした。トルコは緑が豊かで、日本とも、ヨーロッパとも違っていて、しかし、ヨーロッパにはかなり近い景色で、興趣があった。
( 車窓の景色 )
夕方、サフランボルのホテルに到着した。
サフランボルの観光は翌朝の予定である。
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第9日目 5月21日
< アザーンの声で目が覚める >
午前3時半ごろ、突然、ホテルの外から、マイクを通した大きな声が聞こえてきて、目が覚めた。独特の抑揚から、近くのモスクが祈りの時間を知らせるアザーンだとすぐにわかった。モスクの神職の神(アッラー)への祈りの言葉が大音量で流されるのだ。それにしても、まことに傍若無人な宗教である。
イスラム教の祈りの時間は日に5回。最初の祈りの時間は、夜明けの時刻のはずだから、いくら何でも、まだ早い!!
今はラマダーンだから、いつもより早く起きて、暗いうちに朝食を済ませ、そのあとモスクに来て、夜明けの祈りをせよ、というのだろうか
そういうことだろうと、確信した。
ラマダーンの1か月間は、日の出から日の入りまでの14時間ほど断食しなければならない。水も飲んではいけないのだから、きつい。タバコは言うまでもない。空気以外は、摂取してはいけない。こうして、貧しい人の気持ちに思いを致し、施しの心をもつのである。
トルコ人のガイドのDさんは、ラマダーン期間中だが、バス旅のトイレ休憩の時、離れて一人でタバコを吸っている。(私はマホメットと違って、タバコにも寛容だ)。
私がマホメットなら、もう一度地上に顕現して、「訂正 水は飲んでもよい。OKだ 熱中症にならないようにネ」と言うだろう。
ユダヤ教の神殿で人々に対して「戒律(律法)を守れ」と上から目線で説くラビたちを、イエスは、「偽善者」と批判した。善行をなして自分を「善なる存在」とする人間こそ、神から最も遠い存在なのだ。人間の性(サガ)、業(ゴウ)、原罪、悲しみは、表面的に戒律を守ったり、施しをしたからと言って、克服できるものではないとイエスは考える。この点において、イエスの人間観は深い。宗教は、自己を悲しい存在と自覚する人に寄り添う。文学は、悲しい存在のもつ人間の美しさ、いとおしさを描く。
ラビたちは、「貧しい者に施しをせよ」と教える。だが、全財産を施したら自分も立ち行かなくなるし、家族も養えない。それでは意味がない。ゆえに、「施しは、持てる財産の5分の1を超えないようにせよ」と言った。20%を超えない範囲の寄付で天国に行けるのなら、大金持ちほど天国にいきやすい。
イエスは、「金持ちが神の国に入るのは、針の穴にラクダを通すより難しい」と言った。
もちろん、現代の税制は、大金持ちに対してそんなに甘くない。ヨーロッパでは、貧しくても20%の消費税は納める。
脱線ついでに、最近読んだ本からもう一つ。
キリスト教国、例えば、数百年の戦いを経てイスラム教徒をイベリア半島から追い落としたスペインは、イスラム教徒やユダヤ教徒を徹底的に弾圧した。キリスト教に改宗しても、本物の信仰かどうかを試し、疑わしい者は国外追放したり、処刑した。純化主義はおそろしい。
一方、イスラム教の国は、侵略して支配下に置いた元キリスト教国のキリスト教徒に対して、改宗を求めなかった。それで、イスラム教はキリスト教より寛容だと言う人もいる。だが、塩野七生は『ローマ亡き後の地中海世界』で、このように言っている。イスラム法には「税」という観念がない。マホメットの時代は、富める者が貧しい者に施しをすれば、世の中は成り立っていた。しかし、中世・近世になり、国家ができれば、国家としての財政も必要になってくる。富める者の寄付は、所詮、自分の気休め程度だ。そこで、どうしたか?? 支配地域を広げ、被支配住民であるキリスト教徒やユダヤ教徒から税を搾取したのだ。もちろん、彼らにイスラム教に改宗されたら困るのである。決して人権尊重の観点から、信仰の自由を認めたわけではない。
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< サフランボルを散策して >
サフランボルは、黒海から50キロほど内陸に入った、人口5万人ほどの小さな町だ。かつては交易の要路として栄えた町らしい。
土塀に木の窓枠の民家が残る街として、世界遺産になった。100年~200年前の民家だから、そう珍しくはない。
内部を公開している民家を見学し、そのあと、しばらく街の中を散策した。
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< イスタンブールへ向かう >
サフランボルからイスタンブールまで410キロ、4時間半の距離だ。
トルコの黒海地方は、黒海の南側に広がる地味豊かな平野である。そこを、西へ西へと走る。すると、やがてマルマラ海に出る。マルマラ海に出れば、イスタンブールはもう目と鼻の先だ。マルマラ海がボスポラス海峡と出会う所がイスタンブールだ。
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バスは、マルマラ海の付け根のイズミット湾に差しかかった。
イズミットは、古代にはニコメディアと呼ばれ、ローマ帝国の東の都であった時期もある。
イスタンブールとは古来から海上交通で結ばれ、今は高速道路でも結ばれて、一つの大きな経済圏に発展している。
( イズミットを走る )
辻邦生『遥かなる旅への追想』から
「トルコの地中海沿いには、私が『背教者ユリアヌス』を書いていた頃、たえず思い描いたコンスタンティノポリス、ニコメディアなどの町々がある。コンスタンティヌス大帝の名にちなんだこの古代都市の姿を現代のイスタンブールから想像することは難しいが、同じように幼いユリアヌスが育ったニコメディアの姿を現代のイズミットから思い浮かべることも難しかった。いずれも古代遺跡がほとんと失われているからであった」。
( マルマラ海 )
バスは、地図の上で、北の黒海と南のマルマラ海とに挟まれた細長い陸地の、マルマラ海沿いを走っている。
沿岸一帯は大港湾都市の趣がある。海沿いに大きな工場があり、クレーンが動き、貨物船が浮かび、山側には赤い屋根のマンション群が立ち並んで、その間を無数の車が行き来する高速道路が貫き、実に活気にあふれている。
バスは、渋滞に入ることもなく、やがてイスタンブールの近郊に差しかかった。
(イスタンブール近郊)
( マンション群 )
イズミットからイスタンブールのマルマラ海沿岸は、新しく発展しようとする国のものすごいエネルギーにあふれていた。日本やヨーロッパがすでに失ったエネルギーである。
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< 夕刻のスイタンブール >
今夜と明日と、2泊するのは「リッツカールトン」。高級ホテルだ。新市街にあるのっぽビルである。
そのホテルの一番庶民的な部屋 … だとは思うが、窓からの展望は良い。何よりも、ボスポラス海峡とその対岸が見える。
夕食は、新市街の和食料理店だった。
本当に久しぶりに、味噌汁と、握り寿司と、天ぷら。感動した。
一旦、ホテルに戻ってから、海のほうへ、ぶらぶらと坂道を下りて行ったみた。
10分ほど歩くと、ボスポラス海峡に臨み、モスクが建ってエキゾチックな趣もあるテラスに着いた。
テラスにカフェがあったので、海を眺めながら、トルココーヒーを飲んだ。トルココーヒーは深みがあり、美味であった。
( ボスポラス海峡に臨むカフェ )
( 対岸のアジア側 )
行き交う船や対岸のアジア側の街を眺めて、しばらくは時の流れに身を任せた。イスタンブールに来た目的が、この時間に果たされたと感じた。
夢枕獏『シナン』から
「イスタンブール ── コンスタンティノープルは、このボスポラス海峡のヨーロッパ側を中心にして、アジア側にもまたがって発展してきた都市である。
古代シルクロードの東の端に、人口100万人の都長安があるなら、西への入口にこのコンスタンチノープルがあったのである。
東と西の文化、人種、宗教、文物がこの街で混然として一体になっていた。
混沌(カオス)の都市である」。
( ボスポラス海峡はマルマラ海に出る )
( ブルーモスク遠景 )
下の写真ののっぽビルが、リッツカールトン。ホテルの部屋の窓の下は、サッカーのイノニュ・スタジアムだった。
トルコリーグで13回優勝という名門チームの「ガラタ・サライ」に、あの長友佑都がいる。
( リッツカールトンとイノニュ・スタジアム )
2日ほど前のバスの中で、ガイドのDさんが、長友選手の「ガラタ・サライ」の優勝が決まったと言っていた。今夜、ラマダーンの断食の時間が過ぎると、イスタンブールは深夜まで大騒ぎでしょう、と。