ドナウ川の白い雲

ヨーロッパの旅の思い出、国内旅行で感じたこと、読んだ本の感想、日々の所感や意見など。

イスタンブールの旧市街散策へ … トルコ紀行(13)

2018年09月08日 | 西欧旅行…トルコ紀行

  ( 金角湾とスレイマニエ・ジャーミー ) 

第10日目 5月22日

 今日は、イスタンブールの旧市街の中心部、スルタンアフメット地区を見学する。

 朝はゆっくりと10時にホテルを出発した。

 新市街にあるホテルからバスに乗って、旧市街の入り口であるガラタ橋まで行く。そこからは徒歩で、橋を渡って旧市街へ入る。

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ガラタ橋から往時の古戦場・金閣湾を望む > 

 イスタンブールの人口は約1300万人。

 町の中心部のヨーロッパ側は、ボスポラス海峡から入り込んだ金角湾によって、旧市街と新市街に分かれている。ガラタ橋は、この二つの街を結んで、金角湾に架けられた橋である。

 橋の上に立つと旧市街の景色を一望できるから、世界からやって来た観光客でいつも賑わっている。

 金角湾は、ボスポラス海峡がマルマラ海と合流する直前で、その西岸がヨーロッパ側に入り込んで、旧市街と新市街を分けているが、イスタンブールの市街はボスポラス海峡の対岸のアジア側にも広がっている。

 一つの町に、ヨーロッパとアジアがある都市は、他にはない。

 下の写真の手前の海が金角湾、そこに半島のように、右からヨーロッパ側の旧市街が突き出している。半島の向こう側の海はボスポラス海峡。その向こうに横たわるのがアジア側である。

   ( 右の半島がヨーロッパ側、その向こうがアジア側 )

 1452年、ビザンチン帝国を倒してコンスタンチノープルを手中にしようと決意したメフメット2世は、まずルーメリ・ヒサールを築いてボスポラス海峡を制圧した。これに対して、ビザンチン側はボスポラス海峡から入り込む金角湾の入り口を巨大な鎖で封鎖して、金角湾への敵の軍船の侵入を防いだ。今の旧市街側が「城」とすれば、城を守る巨大な「堀」が金角湾で、その堀への軍船の侵入を封じたのである。

 コンスタンチノープルの町は、三角形の二辺を金角湾とマルマラ海によって囲まれているから、金角湾への侵入を防いだら、主戦場となるのは唯一の陸側、テオドシウス城壁であった。

 だが、戦いが始まって、攻めあぐねると、20歳を過ぎたばかりのメフメット2世は、多数の軍船を山越えさせて金角湾に浮かべるという奇跡の大作戦をやってのけたのである。

 この圧倒的なパワーを目にしたビザンチン側の衝撃は大きかったが、もともと遊牧民族だったオスマン側は海戦に自信がなく、少数のヴェネツィア軍船を恐れて金角湾の片側に終結したままだった。ビザンチン側の手薄な兵力をさらに金角湾側に分散させるとともに、心理的な圧迫を図った作戦で、主戦場は最後までテオドシウス城壁の長い戦線だった。

 だが、テオドシウス城壁が破られ、敵軍が潮のごとく押し寄せて、もはやこれまでと、撤退を余儀なくされた生き残りの将兵たちは、金角湾に待ち受けていたヴェネツィアの船に乗り込めるだけ乗り込んで、マルマラ海からエーゲ海へと脱出したのである。

 時代を経て、現代の金角湾は、何十艘もの軍船が浮かんで対峙した緊迫の戦場は今はなく、湾側からの攻撃に備えて城壁の上から見下ろす守備兵の姿も城壁さえもなく、西洋的で、しかしエキゾチックな雰囲気も多分にある、平和でのどかな湾に、多くの遊覧船や豪華客船が浮かんでいる。

  ( 金角湾に臨むビザンチン側の城壁の跡 )

 日がな一日、橋の上から釣り糸を垂らす大勢のおじさんたちも、イスタンブールの一つの風物詩となっている。

 その向こうに見えるのは新市街で、かつて物見の塔であり、今も観光客の展望台であるガラタの塔が近代建築の上に聳えている。

    ( 魚釣りのおじさんたち )

 橋は二層になっており、下はレストラン街。鯖サンドが名物だ。

   ( 二層になった橋 )

 橋の上から、モスクの見える旧市街の眺めをしばらく堪能する。太陽が沈む時間が良いと、いろんなものに書いてある。旅人の時間である。

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建築家シナンのこと >

 金角湾越しに眺める旧市街の景色のなかで、ひときわ存在感を示しているのはスレイマニエ・ジャーミーである。

      ( スレイマニエ・ジャーミー )

 当「トルコ紀行」の第2回で、夢枕獏の『シナン』という本のことを少し紹介した。

 スレイマニエ・ジャーミー (モスク) を建造したのが、この小説の主人公ミマール・シナン(1488~1588)である。

 聖(アヤ)ソフィアを超えるジャーミー (モスク)を建造したいというのは、オスマン帝国の歴代のスルタンの悲願であった。シナンは、その願いをついに実現した偉大な建築家である。あのミケランジェロやガリレオ・ガレリイとほぼ同時代の人であった。

夢枕獏『シナン』から

 「 … オスマントルコは、ヨーロッパとアジアに覇を唱え、巨大な帝国を築いてゆくのだが、コンスタンチノープル陥落以来、キリスト教国から、120年余りも言われ続けてきたことがあった。

 曰く ── 『野蛮人』。

 『トルコ人は、他人が築き上げたものを奪うことはできるが、文化的には極めて劣っている。それが証拠に、聖ソフィアより巨大な聖堂を、彼らは建てることができないではないか』

 聖ソフィアよりも大きなモスクを建てること ──

 これが、オスマントルコ帝国の歴代の王(スルタン)の夢となった」。

 「これを、コンスタンチノープルが陥落してから122年後、ミマール・シナンという天才建築家が成し遂げてしまうのである。

 トルコのエディルネに建てられたモスク、ラリミエ・ジャミーがそれである。ドームの直径32m」。

 ラリミエ・ジャミーの建造を始めた時、シナンは既に80歳だった。エディルネは、トルコ共和国の最北部、今はギリシャとの国境に近い古都である。

 ここ、イスタンブールのスレイマニエ・ジャーミーは、オスマン帝国の最盛期を現出したスレイマン大帝の命によって、シナンが69歳のときに完成した。今でも、イスタンブールで最も壮麗なモスクと言われる。

 「中央ドームの直径は、26m。聖ソフィアに比べれば、5m小さいが、それでも、それまでオスマントルコが産んだドームの中では最大のものとなった」。

 モスクの裏の緑に包まれた庭にはシナン制作によるスレイマン大帝の霊廟もあるそうだ。シナン自身の墓もあるらしい。

 このツアーは(どのツアーもそうだが)、スレイマニエ・ジャーミーに行かない。シナンの最高傑作であるエディルネのラリミエ・ジャミーにも行かない。要するに、大手のツアー各社の企画はマンネリで、画一的で、「従来どおり」で、不勉強なのだ。

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もとは香辛料や薬草専門の市場だったエジプシャンバザール > 

 ガラタ橋を旧市街側へ渡ると、橋のたもと近くにエジプシャンバザールがある。イスタンブールで2番目に大きい屋根付きの市場だ。

 

    ( エジプシャンバザール )

 すぐそばにあるモスク、イェニ・ジャーミーを運営するための事業の一環として建造されたという。

 もともとは、オスマン帝国の支配下にあったエジプトなど北アフリカからの香辛料と薬草専門の市場だった。

 今は、香辛料やハーブの店もあるが、貴金属店、さまざまな食料品の店、日常雑貨の店などが並び、世界から訪れる観光客をねらったちょっとした土産物になりそうな物も売っている。ガイドのDさんは、最近は商品の品質が悪いからと、あまり勧めない。手作りのタイルを売る店など1、2軒だけ紹介した。

   ( イェニ・ジャーミー )

 エジプシャンバザールを出て、鳩の舞うイェニ・ジャーミーの前の広場を通り、スルケジ駅舎へ行く。

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オリエント急行の終着駅だったスルケジ駅舎 >

 ここはかつてオリエント急行の終点の駅だった。

 オリエント急行は、19世紀の末に、パリとイスタンブールを結ぶ国際寝台列車として営業が始まった。パリ ─ ストラスブール ─ ミュンヘン ─ ウィーン ─ ブタペスト ─ ベオグラード ─ ソフィア  ─ イスタンブールを結ぶ。

 魅力的な鉄道コースだが、今は世の中が進歩し、航空機網も整備され、「オリエント急行」を名乗っているのは、様々な観光用の列車である。

   ( スルケジ駅のホーム )

 オリエント急行に関する展示室があり、クラッシックな駅舎が公開され、ホームの一部がレストランになっている。

   ( スルケジ駅の待合室 )

   ( レストランのテラス席 )

 ここで我々も昼食をとり、午後は、このツアーのハイライトである聖(アヤ)ソフィアへ向かった。

 

 

 

 

 

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