ドナウ川の白い雲

ヨーロッパの旅の思い出、国内旅行で感じたこと、読んだ本の感想、日々の所感や意見など。

ボスポラス海峡とトプカビ宮殿 … トルコ紀行(最終回)

2018年09月27日 | 西欧旅行…トルコ紀行

  ( 船上からオルタキョイ・ジャーミィ )

第11、12日目 5月23日、24日

 今日の午前中は、ボスポラス海峡クルーズ。昼食後は、トプカビ宮殿を見学する。

 そのあとは、イスタンブール空港へ行き、21時20分発の大韓航空に搭乗して、ソウル経由で帰国する。 

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オシャレな街オルタキョイ

 このツアーの「ボスポラス海峡クルーズ」は、オルタキョイの桟橋から出港する。ツアー専用の貸切クルーズ船だ。

 出港の時間まで、しばらくオルタキョイを散策した。

 ボスポラス海峡に架けられた橋がある。その名も、ボスポラス大橋。

   オルタキョイは、ボスポラス大橋のヨーロッパ側(新市街)のたもとにある街の名である。

  ( ボスポラス大橋・対岸はアジア側 )

 旧市街の歴史地区を観光し、金角湾に架かるガラタ橋を渡って新市街に入ると、街は現代的なブランドショッピング街になる。観光客がたくさん歩くのは、この辺りまで。

 オルタキョイは、そういう華やかな地域を少しはずれて、小さなショップやカフェが並び、若者たちが集まってくる、ちょっとオシャレなエリアである。

 この街のシンボルは、オルタキョイ・メジディエ・ジャーミィ。白い瀟洒なモスクがボスポラス海峡に臨んで、一幅の絵になっている。

  ( オルタキョイ・ジャーミィ )

 ドルマバフチェ宮殿と同じ建築家の設計で、19世紀の中頃に完成した新しいモスクである。西欧的な美意識を取り入れたバロック様式で、この街のオシャレな雰囲気もこのモスクのたたずまいがあってのことだろう。 

  ( モスクの入口 )

 時間があるので、モスクに入ってみた。モスクの中は絨毯が敷かれているから、靴を脱ぎビニール袋に入れる。女性はスカーフが必需品だ。トルコ旅行も最終日になると、モスクに入るのも、見よう見まねで慣れたものだ。

    ( モスクの中 )

   ( 天井のドーム )

 伽藍の中は、正面にメッカの方向を示すミフラーブがある。

 19世紀のモスクは、15~16世紀のモスクの権威主義的な重々しさがなく、華やかで、かつ、軽やかである。         

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ボスポラス海峡クルーズを楽しむ >

 集合時間になり、クルーズ船に乗り込んだ。

 ボスポラス海峡は、黒海とマルマラ海とを結んで、およそ30キロ。地元の各社が競う「ボスポラス海峡クルーズ」は、どれも30キロの半分の辺りで折り返す。船内放送のガイドがあれば、往きはヨーロッパ側、復路はアジア側の説明になる。

 黒海には、ドナウ川やドニエプル川などの大河が流れ込むから、黒海からマルマラ海へ向けて、ボスポラス海峡には川のような流れがあるそうだ。

 マルマラ海に出る直前、ヨーロッパ側に金角湾が入り込み、大都イスタンブールがある。

 マルマラ海は大きな湖のような内海で、そこからまたダータネルス海峡を経て、地中海の出口であるエーゲ海に出る。

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 クルーズ船が出港すると、海上から眺めるオルタキョイ・ジャーミィは、物語の中の絵のように美しい。風景の中のモスクの美しさを初めて知る。 

  ( 美しいオルタキョイ・ジャーミィ )

 船中では、次々に目に映じて移りゆく景色を、ガイドのDさんが船内放送を使って、ほぼ完璧な日本語で、拍手を送りたくなるほど簡潔かつあざやかに説明してくれる。

 船は、オルタキョイの桟橋から北へ進み、黒海の方向へ向かって遡っている。折り返して反対方向へ向かえば、金角湾のあるイスタンブールの中心街である。

 このあたりの水辺には、世界的に著名な企業オーナーなどのお金持ちの別荘が建っている。「お金持ちになった気分で、どの別荘を買おうかな、などと考えながら眺めるのも楽しいですよ。私はいつもそうしています(笑)」とDさん。

 …… 豪華な大邸宅は管理も大変。私は自分で掃除機をかけられるこの程度で十分です。

  ( 小ぶりの別荘 )

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 やがて、ルーメリ・ヒサールが見えてきた。

 

   ( ルーメリ・ヒサール )

 メフメット2世が、コンスタンチノープルへの攻撃に先立って、ボスポラス海峡を制するためにヨーロッパ側に造らせた城塞だ。万が一、ビザンチン帝国を助けようと西欧の軍船が大挙してやってきて、ボスポラス海峡を自由に遡ったら、オスマン側もたちまち危機に陥る。        

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 ルーメリ・ヒサールを越えた先の地点で、船はUターンした。

 ボスポラス海峡30キロの半分あたりの地点でUターンするのが、ボスポラス海峡クルーズのコースだ。

 

   ( このまま進めば黒海へ )

 もし個人旅行で来れば、1日1本だけ、黒海の入口まで行くコースがあって、一日のんびり船旅ができる。

 既に、中世の時代から、ヴェネツィアの商船は、イスタンブールからさらに遡って、黒海各地の港に寄る定期航路を確立していた。

 黒海の入口まで行ってみたい。

 黒海の入口まで行っても、人の目に見えるのは、太平洋と同じただ茫々と広がる大海だろうが、それでも船からその光景を眺めてみたいと思う。

 昔、雪の秋田で列車を降りた時、「白鳥」のテールランプを見送りながら、たとえ夜汽車で景色は見えなくても青森まで行ってみたいと、心を残した。旅は、時々、心を残して終わる。        

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 アナドル・ヒサールは、メフメット2世以前から、アジア側にあった要塞である。メフメット2世は、その対岸のヨーロッパ側にも、ルーメリ・ヒサールを造らせた。ここは、海峡が最も狭まった地点である。

 今は、古城は脇役で、瀟洒な別荘が景色の主役である。

   ( アナドル・ヒサール )

 Uターンして引き返し、出発地のオルタキョイを通り過ぎると、 ドルマバフチェ宮殿が見えてくる。

  ( ドルマバフチェ宮殿 )

 この白い大理石の宮殿は、トプカピ宮殿があまりにも時代おくれになったとして、1853年に新たに建てられたスルタンの新宮殿である。

 確かに、トプカピ宮殿は、ハーレムの印象も、殺された妃や王子の血の匂いも、そこを取り仕切る黒人宦官たちのイメージも、すべてが暗くて、魑魅魍魎の非近代的な世界だ。

 モデルになったのは、ヴェルサイユ宮殿やハプスブルグのシェーンブルン宮殿だろうか。たたずまいが似ている。

 今は、多くの観光客でにぎわうイスタンブールの観光名所の一つである。

 私は過去にヴェルサイユ宮殿もシェーンブルン宮殿も見学する機会があったが、専制君主の「豪華絢爛」を見ても、「文化」や美しさは感じなかった。なにしろ、4畳半の簡素な茶室の竹筒に生けられた1輪の椿を美しいと感じる室町将軍の民族的・文化的末裔であるから。

 この宮殿のあるあたりは、メフメット2世がコンスタンチノープルを攻めた時、封鎖された金角湾に軍船を入れるため、70艘もの軍船を陸揚げした所だ。ここで陸揚げし、牛と人力で丘を越えて、金角湾に浮かべて見せた。守るビザンチン側に圧倒的なパワーを見せつけたのだ。

 宮殿のすぐ先に、宿泊したリッツカールトンが見えてくる。汀には、小ぶりのドルマバフチェ・ジャーミィが佇んで風情がある。18世紀、19世紀に建てられたモスクは、いかにも瀟洒で、風景にアクセントを与えて、美しい。一昨日の夕、その横のテラスでトルココーヒーを飲んだ。

  ( リッツカールトンとモスク )

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 やがて、金角湾とガラタ橋が見えてきた。

 レストランが並ぶガラタ橋の向こうに、シナン作のスレイマニエ・ジャーミィが印象的である。

  ( ガラタ橋とスレイマニエ・ジャーミィ )

 続いて、聖(アヤ)ソフィアも姿を見せる。

   ( 聖ソフィア )

 下の写真のこんもりした丘は、その昔、アクロポリスの丘だった。コンスタンチノープルを陥落させた後、メフメット2世はこの海を見下ろす丘に宮殿を建てた。トプカピ宮殿である。見えている塔は、宮殿のシンボル「正義の塔」(別の名は「ハーレムの塔」)。

 

  ( トプカビ宮殿の丘と「正義の塔」 )

 下の写真は、旧市街とは反対方向の新市街。ガラタの塔が見える。

 

    ( ガラタ橋と新市街 )

 出発点のオルタキョイに引き返して、クルーズは終わった。

 この旅で一番良かったところは??と、問われれば、ボスポラス海峡クルーズと答えるだろう。一昨日の夕、ドルマバフチェ・ジャーミィのそばの汀のカフェで飲んだトルココーヒーも、美味しかった。

 パリのセーヌ川を行き来する遊覧船に乗って、次々と橋をくぐりながら見上げたパリの街並みは、ただただ美しく、気品があって、しかも哀愁があり、感動したものだ。

 ヴェネツィアのサンタルチア駅から水上バスに乗ってホテルへ向かう時、まるで劇場のように展開する海の都の華麗さに、ただ圧倒され、感動しながら眺めたこともあった。

 岸辺のすべての建物が海峡に向かって微笑んでいるようなボスポラス海峡クルーズも、人生を楽しくさせてくれるひとときの旅だった。

 ヴェネツィアの運河も、パリのセーヌ川も、イスタンブールのボスポラス海峡も、歴史と豊かな水のある街並みは印象的である。

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< 「愛と欲望の」トプカビ宮殿 >

 昼食後、トプカピ宮殿を見学した。

 19世紀にドルマバフチェ宮殿へ移るまで、15世紀から歴代スルタンの宮殿だった。ハーレムが有名だが、江戸城が大奥だけでないのと同様、ここは行政府でもあり、のちには帝国議会もあった。行政官養成の学校や、病院や、兵器庫や、貨幣鋳造所などもあり、常時、4、5千人の人々が暮らしていたという。

 宮殿の入口は、聖(アヤ)ソフィアのすぐ横である。

 下の写真の左側は聖ソフィアのミナレット、写真中央に「アフメット3世の泉」があり、右側の城壁と城門がトプカピ宮殿である。

   ( 宮殿の城門の前 )

 第一の門は、「皇帝の門」と呼ばれる。

    ( 「皇帝の門」 )

 「皇帝の門」を入ると、「第一の庭園」。ここには病院や兵器庫、それに、スルタンも食したパンの製造所などもあった。

 

   ( 第一庭園 )

 中門は、「儀礼の門」と呼ばれる。とんがり帽子の二つの塔の間に城門がある。スルタン以外は、ここで下馬した。

 さすがに観光客が多い。

 

    ( 儀礼の門 )

 中門を入ると、第二の庭園。「帝国議会の庭」とも呼ばれた。

 通常でも護衛の兵士は5000人にいた。特別の儀式のときには1万人が庭に整列したという。

 庭園の南側に長々と続く建物は厨房。

 反対側の北東の角には「正義の塔」が建つ。塔のそばにハーレムの入口があるから、「ハーレムの塔」とも呼ばれた。ボスポラス海峡クルーズの船上からも見えたが、イスタンブールのどこからでも見える。

   その下に、帝国議会の建物。その横に「宝物庫」の建物がある。

 

  ( 正義の塔 )

   ( 元宝物庫 )

 メフメット2世(在位1451~81)が、この丘に宮殿を造ったときには、宮殿内にハーレムはつくらず、妻妾たちはそれ以前に使っていた宮殿に残した。

 3代後のスレイマン大帝(1520~66)が初めて寵姫ロクセラーナをトプカピ宮殿に住まわせた。

 さらに2代後のムラト3世(在位1574~95)の時にハーレムができ上った。

 およそ300人くらいの若い美女たちがいたという。スレイマンの寵姫ロクセラーナもそうだが、奴隷として売られていた女性も多い。専制君主の意を受けてハーレムを取り仕切ったのは黒人宦官長と黒人宦官たち。女たちの中で権勢があったのはスルタンの母親だった。

 スルタンが即位したとき、スルタンになれなかった兄弟たちはみな殺された。のちに改善されて、それぞれ、生涯、一室に閉じ込められた。その「鳥かご」と呼ばれた部屋も残っている。子を産まなかった女たちはもちろん、「鳥かご」の母親たちも、新スルタンが即位すれば完全に用なしである。

 つまり、ここに集められた美女たちは一種の奴隷状態で、江戸城大奥のように、身分高く、多くの女性にかしずかれる奥方などではない。

 司馬遼太郎は、中国にあって日本になかったものは、宦官と科挙の試験制度だと言い、なくて良かったと書いている。その二つは、つまりはアジア的専制君主制の支えである。

 この旅行に出る前、BS放送で、トルコテレビ制作のドラマ『オスマン帝国外伝 ─ 愛と欲望のハレム』が放映されていた。1回見て、辟易となり、撤退した。一種の「大奥もの」である。ガイドのDさんによると、トルコでは放送の時間になると町が静かになったという。世界でも8億人が熱狂したそうだ。日本でいえば、ラジオ時代なら「君の名は」、テレビ時代に入ってなら「おしん」だろうか。Dさんが、「日本でも放映されましたが、ご覧になりましたか?」と聞くと、おばさんたちが多数手を挙げた。日本でも、世界でも、おばさんたちは「大奥もの」が大好きなのだ。

 そのドラマの主人公は、ロクセラーナ。スレイマン大帝がロクセラーナをトプカビ宮殿に入れたのは、ロクセラーナの要求もあったろうが、西欧式の一夫一婦制を考えたからである。スレイマンには、そういう啓蒙君主的一面もあった。

 だが、少年時代から兄弟のようにスレイマンを愛し仕えてくれた名宰相イブラヒムを暗殺したのも、イブラヒムをはじめ多くの人々から次期皇帝として嘱望されていた王子(ロクセラーナの子ではない)を殺害したのも、ロクセラーナがスレイマン大帝を口説いて、そうさせたのだ。

 このあたりの経緯は夢枕獏の『シナン』にも出てくる。宰相イブラヒムに従っていたシナンの親友も、この時、殺された。 

 バカな息子であっても、息子がスルタンにならなければ、息子も自分も未来がないのだから、賢いロクセラーナとしては悪女になるしかない。スレイマン死後は、スルタンとなった息子を助けて、密室から宰相たちの会議を盗聴し、陰から政治を動かした。いずれにしろ、どろどろした陰湿な話で、こういうドラマを毎週見ていたら、私は鬱になる。

 さて、宮殿内もハーレムの中もいろいろ見て回ったが、どの部屋も観光客でいっぱいで、写真を撮ろうと思っても、天井ばかり写る。説明にも興味がわかない。

 それでも、スルタンがくつろいだ一番豪華な「皇帝の間」は、ばっちり写真に収めた。シャッターチャンスを待っていたら、置いて行かれそうになった。ここは初めてきた者にとってかなり迷路なのだ。

  

   ( 皇帝の間 )

 「寵姫たちの居住区」は、アパートメントという感じである。

 

  ( 寵姫たちの居住区 )

 観光客の女性たちが庭のベンチに座って談笑しているのを見て、寵姫たちもこのようにしてひと時を過ごしていたかもしれないと、つい想像してしまい、あわててその想念を振り払った。失礼しました。

 宮殿の一番北の端は、ボスポラス海峡やマルマラ海が見下ろせるテラスになっていて、当時も、美しい景色を見ながら食事をしたらしい。トプカピ宮殿で最も明るく、美しい場所だった。

 

  ( 宮殿のテラスから )

        ★

 旅の終わりに >

 旅の終わりに、旧市街のスルタンアフメット地区を見下ろせるセブンホテルの屋上レストランに連れていってもらった。ワインを飲みながら、すぐ間近に、聖ソフィア、ブルーモスク、そしてボスポラス海峡、マルマラ海の景色を楽しんだ。

   ( 聖ソフィア )

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 その夜、21時20分発の大韓航空でソウルへ向かった。

 飛行機が飛び立つと同時に、突然、風邪の症状が一気に出た。そういえば、旅の途中、ガイドのDさんも、一行の中のご主人も、体調を崩して辛そうだった。1人のご主人は、イスタンブールの1日、観光をせず、ホテルの1室で静養された。多分、一行の中には、風邪の潜伏期間という人がもっといるに違いない。

 機内では、葛根湯を飲み、テレビも見ず、本も開かず、ひたすら目を閉じて一夜を明かした。

 翌13時25分にソウル着。15時20分にソウル発。関空着は17時10分。なかなか便利な便である。

  

 

 

 

 

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