( セブンホテルの屋上レストランから )
建築家シナンは、カッパドキアの村のキリスト教徒の家に生まれた。考えることが好きで、しばしば大人を困らせる質問をする子だったらしい。噂を聞いた神父のヨーゼフが、その子を一度連れてきなさいと父親に言う。以下、神父とシナン少年の会話である。
「『神は、この世界に遍在し、預言者の肉に降り、広大なる大地や天の裡(ウチ)にも住まわれている。しかし、稀に、神は、人がその手によって造り上げたものの裡にも降りてくることがある … 』。神父は言った。
『人が造ったもの?』 『ああ──』
『神父さまは、それをごらんになったことがあるのですか?』 『ある。一度だけな』
『どこで?』 『イスタンブールだ』
『イスタンブール?』 『そこに建つ、聖ソフィアだ』。
うっとりと、夢見るような口調で、ヨーゼフは言った。『今でこそ、イスラムのジャーミーになっているが、もともとは、あれは我らキリスト教徒が1000年の昔に建てたものなのだ』
『1000年……』。それは、なんと遥かな時間であったろうか。
『聖ソフィアこそ、人が造り出した、最も神がよく見える場所なのだよ』
『本当に?』 『見れば、その瞬間に、それがわかる』
『見れば?』 『ああ』。
しかし、アウルナスから、イスタンブールまでは、遥かな距離があった」。
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< 聖ソフィアを、シナンとともに >
その日の午後、この旅のハイライトと言っていい聖(アヤ)ソフィアにやってきた。
だが …… 。
長くあこがれを抱き、遥々とここまでやってきたにもかかわらず、見学しながら、あまり感銘を受けていない自分を感じていた。こんなものなのか … 。
その印象を一言でいえば、ガランとしているのである。聖堂内には人種も民族も異なる観光客が多数いるにもかかわらず、その聖なる建物の中はあっけらかんとしていた。
やがて、それは仕方のないことなのだと思えてきた。感動しないのは、私の感性のせいではない。
その理由の一つは、あまりに古くなり、しかもトルコは地震大国で、さすがの聖ソフィアも自ら立つことが難しくなってきているのだ。自立できなくなったこの貴重な人類の文化遺産を、巨大な鉄骨の骨組みが、床から高い天井まで、大きな面積を占めて支えている。堂宇全体の写真は撮れないぐらいに、殺風景に。
…… しかし、それは仕方がないことだ。実はこれまで、この聖堂は、オスマン時代は言うまでもなく、すでにビザンチン時代から何度も修復工事がなされ、あのシナンもその工事に参加したことがあり、そういう努力によって何とか今に伝えられているのである。研究が進んで、いつかもっとスマートな維持の方法が見つかるかもしれないが、今は、こうして支えるしかないのだ。
もう一つ、ガランとていると感じる、もっと大きな理由がある。
この建造物の現在の正式名称は、「アヤソフィア博物館」である。
聖(アヤ)ソフィアは、2度焼失し、2度目の焼失の後のAD537年、ユスティニアヌス大帝の命により、今まで誰も目にしたことがない奇跡のような大聖堂が建立された。そして、その後1000年の間、ビザンチン帝国のキリスト教の中心となった。
AD1453年、コンスタンチノープル陥落のその日に、コンスタンチノープルに入城したメフメット2世は、略奪・破壊しようとする兵士たちの前で、聖ソフィアをイスラム教のモスクに改修すると宣言した。彼は聖ソフィアを破壊から守ったのである。以後、アヤソフィア・ジャーミーとして、オスマン帝国における最も格式の高いモスクの一つとされ、500年近くが過ぎていった。
AD1935年、トルコ共和国の初代大統領ケマル・アタチュルクは、アヤソフィア・ジャーミーを、キリスト教の聖堂でもなく、イスラム教のモスクでもない、無宗教の「アヤソフィア博物館」として公開した。
イスラム時代に伽藍の中に設置されたメッカの方向を示すミフラーブも、聖堂を囲むイスラム式の4本のミナレット(尖塔)も、文化遺産としてそのまま残されたが、イスラム教徒の祈りのために敷かれていた床のカーペットは取り除かれ、また、壁の漆喰が除去されてキリスト教のモザイク画が姿を現した。
アタチュルクが、トルコ共和国を非宗教化(世俗化)し、近代化する一環として、「アヤソフィア・ジャーミー」を「アヤソフィア博物館」にしたのは、偉大な政治的改革の必然であったろう。
だが、それはそれとして ……
西欧でも、今は博物館となり、学芸員が管理する元「聖堂」は幾らでもある。そういう博物館となった「聖堂」に入場料を払って見学しても、生きて呼吸していない施設は、ただ無機質で、ガランとしているのである。
例えば、春日大社にしろ清水寺にしろ、国内や世界からやってきた観光客でどんなにあふれていようと、そういう日常性の世界とは別の世界で、神官や僧侶による生きた宗教活動や修行が日々行われ、また、訪れた以上はきちんと手を合わせる名もなき日本人の多くの姿があるから、今も日本の文化として生きているのである。だからこそ、それぞれの社寺において、見よう見まねで作法どおりに参拝する西洋人も多い。それは、「人々」への敬意からである。
文化というものの「幹」は、そこで生きてきた「人々」や、或いは今も生きている「人々」の日々の暮らしと願いと祈りである。その幹から、枝が出て、花が咲く。「幹」が死んで、今は枯れて押し花にした花を見せられても、感銘は薄い。
「アヤソフィア博物館」がガランとしている理由は、そういうことである。
だから、ここでは相当の想像力をもって見学することが求められる。
そこで、生きた祈りの場であった15~16世紀の「アヤソフィア・ジャーミー」の時代にまで遡り、夢枕獏の『シナン』とともに、或いは、初めて胸ときめかせてアヤソフィアを訪れた若き日のシナンとともに、この聖なる宗教施設を見学することとしたい。
以下、引用は全て夢枕獏の『シナン』からである。
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< 聖(アヤ)ソフィアの建造 >
夢枕獏は『シナン』のなかで、聖(アヤ)ソフィアについてこのように説明している。
「イスタンブールに、聖(アヤ)ソフィアと呼ばれる巨大な石の建造物がある。
西暦537年、つまりシナンの時代よりも1000年以上も昔、イスタンブールがコンスタンチノープルと呼ばれていた頃、ビザンチン帝国の皇帝ユスティニアヌス1世によって造営された、ギリシア正教会の最も重要な聖堂である。
建物の上部に、半球状のドームが被(カブ)さり、その直径は、およそ31~32m。およそ、というのは、余りにも長い歴史の中で、建物に歪みが生じ、一部の方向に直径が広がってしまったからだ。
ドームの内側の頂点にあたるところまで、床からの高さが56m。
奇跡のような巨大建造物である」。
「この古い、偉大なる建築物は、1999年におこったトルコ地震で、近代的な建物が多く倒壊したにもかかわらず、壊れずに残った」。
「この聖(アヤ)ソフィア建設にたずさわった建築家はふたりいる。
トラレスのアンテミウス。
ミレトスのイシドロス。
この2名が、聖(アヤ)ソフィア建設の責任者として、ユスティニアヌスより任命されたのである」。
「聖(アヤ)ソフィアは、このふたりが心血を注いだ傑作であった。
ユスティニアヌスが命じた、『方形の建物の上に、ドームを載せよ』という難題を、英知(ソフィア)によって解決したのである。
それまで、…… 聖堂は長方形 ── 横より縦が長いバシリカが一般的で、後部(※奥の祭壇部分)が円形に張り出していた。
この方形の教会の上に、ローマ神殿パンテオンの円形のドームを載せて、まったく新しい権力の象徴を大地の上に組み上げようとしたのである」。
「当時、最大のドームは、その直径だけで言うのなら、ハドリアヌス皇帝が2世紀に建てさせたパンテオンが一番であった。ドームの内径、およそ43m。
しかし、これは、方形の建物の上に、柱によって支えられている球ではない。地面から直接たちあげられた壁によって支えられているのである。柱によって、宙に持ち上げられた半球 ── そういうイメージではない。
そうでないと、それだけ巨大なドームは支えられないのである。壁の厚さだけでも、およそ6m。これだけのものによって、ドームを支えないと、ドームは崩れてしまう。
ユスティニアヌスが命じた、方形の建物の上に半円球のドームを載せるというのは、それまでとはまったく違う発想と技術が必要であったのである」。
「天才数学者が選ばれたのである。アンテミウスと、イシドロスは、これを解決した」。
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以下は、今から500年以上も前、まだ建築家の卵に過ぎなかったシナンが、初めてイスタンブールにやってきて、アヤソフィア・ジャーミーを訪問した時のことである。
< シナン、聖(アヤ)ソフィアの前に立つ >
( 聖ソフィア )
「この積み上げられた石の量感は、まさしく山であった。その山の量感が、そこに立った瞬間、シナンに襲いかかってきたのである」。
「シナンは、感嘆の声を心の中で洩らしている。
これほど圧倒的な量感を持った巨大なものを、千年も前に、人間が作ったということが信じられなかった。いったいどのような力がこれを作るのか。どのような精神と技が、このようなことを可能にするのか」。
( 羊の浮彫 )
聖ソフィアの庭先に無造作に置かれている石も、ビザンチン時代のものであろう。キリスト教徒を表す羊の群れが浮き彫りにされている。
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< シナン、聖(アヤ)ソフィアの中に入る >
「ゆっくりと、分厚く重い木製の扉を押し開けて中に入ってゆく。
中は、薄暗かった。ひんやりとした空気が、シナンを包んだ。石の床。石の壁。石の柱。そういうものに囲まれた回廊であった。
天井はアーチ状になっていて、その半球は聖母マリアや、キリストの絵がモザイクで描かれていた。シナンにとっては、おなじみのイコンである。色彩が美しい」。
「不思議な感覚をシナンは味わっている。シナンは、ひんやりした大気を呼吸しながら、石畳の床を踏んで歩いていった。
回廊の内側が、ドームの空間である」。
( 聖ソフィアの伽藍 )
「外からこの建物を眺めた時、確かに大きく感じたが、それは、これほどの大きさであったか。
この内部の空間の方が、数倍、数十倍も巨大なように思えた。
まるで、宇宙そのものの内部にいるような気が、シナンはしていた。何もない空間 ──
たとえば真上の天を見上げている時、その天の大きさはわからない。しかし、このようにして囲うことによって、初めて空間の巨大さというものは見えてくるのか。
とてつもない肉体的な衝撃をシナンは味わっていた。
自分は今、神の中にいる。シナンはそれを実感した」。
( 聖ソフィアのドーム )
「しかし、どうしてドームであったのか。
どうして、巨大な丸天井を聖堂の上部にかぶせねばならなかったのか。
ただ収容人員を多くするだけの建物であれば、形を方形にして、柱を多く使用すれば、いくらでも巨大なものができたはずである。
どうして、支えのない半球を、人々の頭の上に戴こうとしたのか。
ドームの屋根は、古代ローマの時代から神殿や教会の屋根に使用されてきている。
その半球の意味するものは、神である。
人々は、神の象徴的意味、表現として神殿の天井に半球を使用してきたのである」。
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< 聖ソフィア内のモザイク画のこと >
再び『シナン』から。
「1453年に、オスマントルコによってコンスタンチノープルが陥落した時、このキリスト教の聖堂は、イスラムのモスクに改修されている。
本来であれば、聖母マリアやキリストの肖像は消されるところなのだが、オスマントルコはそれをしなかった。
ただ、多くの絵の上から漆喰を塗って、イコンをその下に封じ込めた。しかし、漆喰を塗りきれなかった場所や、塗ってもそれが剥がれ落ちて、下の絵が見える壁や天井もあったのである。
もともと、イスラムのモスクの壁や天井に描かれる絵は、幾何学模様か、植物や文字をデザインしたものばかりである。人間や動物などの姿が描かれることはない」。
「それが、この聖ソフィアの天井や壁には、神の子の姿が残っている。
モザイク画のあまりのみごとさに、これを消すのをためらったのではないかと言われている」。
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下の絵は、10世紀初頭の作と推定されているモザイク画。皇帝専用の入口の上に描かれている。
キリストを礼拝しているのは皇帝。キリストの両横には聖母と大天使ミカエルが配されている。
( キリストと皇帝 )
次の絵は、10世紀後半の作とされる。南入り口の扉の上のモザイク画。
AD330年、コンスタンチヌス大帝はビザンチウムと呼ばれていた町をローマに代わる首都に造り替え、名をコンスタンティノープルと改めた。絵の右の人物はコンスタンチヌス大帝で、聖母子に、都コンスタンチノープルを贈っている。
左側の人物はユスティニアヌス大帝。聖(アヤ)ソフィアを献上している。
(聖母子、ユスティニアヌス1世とコンスタンティヌス1世)
( デイシス)
上の絵は、1260年ごろの作で、2階の廊下にある。絵の3分の2は失われているが、ビザンチン美術の最高傑作とされる。
デイシス(請願図)は、聖母マリアと洗礼者ヨハネが、人間の罪の許しを請うて、玉座に座るキリストに請願するという、東方教会でよく見られる様式。
この絵の失われた箇所について、オスマン帝国或いはイスラム教徒が削ぎ取ったと想像する人は多いかもしれない。私も実はそうであった。しかし、欠落の要因はよくわからないが、少なくともオスマン帝国(イスラム教徒)の意図的な行為ではない。1543年、メフメット2世はここをモスクとすると決めたが、キリスト教のモザイク画が存在するのは困る。それでも、彼らはそれらを削り取ることはせず、上から漆喰を塗ることによって、絵を残したのである。
問題は、今、残っているモザイク画が10世紀以後のものであることだ。
ユスティニアヌス大帝が聖(アヤ)ソフィアを造ったのはAD537年、6世紀である。今まで誰も目にしたことがない奇跡のような大聖堂が建立されたとき、その壁に美しい壁画が描かれなかったはずはない。ユスティニアヌス大帝の時代は、ビザンチン時代の最盛期だったから、ビザンチン美術を代表するような絵画や彫刻があったはずである。それらは、どうなったのか??
実は、それらを破壊したのは、ほかならぬキリスト教の側であった。
私は昨年から、NHK文化センターで、「バチカン物語」というヨーロッパ宗教文化史の講義を聴きに行っている。その時々に、例えば「ローマからゲルマンへの旅」といった副題が付く。
タイミングがたいへん良かった。開講された時期がもっと早かったら、夜空に遠く輝く知識の星たちを見上げながら、消化不良で目を回していただろう。多くの旅をし、また、断片的にいろんな本を読み、それらが積みあがった時にこの講座にめぐり合って、本を読んでなお腑に落ちなかった知識が「腑に落ちる」という経験をしている。「知る」ことは「わかる」ことだ。「わかる」ということは楽しい。その道一筋の大学の先生の研究の深さはやはりすごい。まれには、それは違うでしょう??と思うこともあるが、いつも静かに聴いている。
以下は、先日、その講座で聴いた内容である。
610年ごろ、預言者ムハンマドがおこしたイスラム教は、わずか100年の間にアラビア半島を出て、ササン朝ペルシャを滅ぼし、エジプト、北アフリカを征服。さらにジブラルタル海峡を渡ってイベリア半島の西ゴード王国を滅ぼした。西方でこれに対峙したのはフランク王国であり、東方で国境を接したのは、ユスティニアヌス大帝没後、弱体化していくビザンチン帝国だった。
ビザンチン帝国は、イスラム勢力の軍事的圧迫に加えて、宗教的挑戦も受けた。「イスラム教徒とキリスト教徒はともに旧約聖書を経典として、同じ神を崇めている。神は預言者モーゼを通して、神を象って偶像を造ったり、拝んだりしてはならないと戒めた。にもかかわらず、おまえたちキリスト教徒は、人間の描いた神の像を拝んでいる。十戒の第二条に背いているではないか?!!」。
726年、ビザンチン帝国皇帝レオ3世は、全ての聖像を破壊する法令を出した。以後、東方教会に「聖像破壊運動(イコノクラスム)」の嵐が吹き荒れる。それより以前のイエスやマリアの彫像は破壊され、絵は削ぎ落とされた。この運動は8世紀を通じて行われ、9世紀の中ほどになって、平面的なイコンのみは許されるようになった。
宗教(イデオロギー)の純化(原理主義)運動はおそろしい。
ゆえに、今、6~9世紀のビザンチン美術は、ビザンチン帝国内には残っていない。
唯一残っているのは、西方・カソリック圏であるイタリアのラヴェンナという小さな町だけである。
ラヴェンナは、イタリア半島の北部、長靴の付け根近くにある町で、西ローマ帝国がその晩期に、都をローマからラヴェンナに移した。やがて西ローマ帝国が滅びて、イタリア半島に東ゴード王国(宗教はキリスト教)ができてからも、都であり続けた。
6世紀、ユスティニアヌス大帝は東ローマ帝国から遠征し、破竹の勢いで、かつての西ローマ帝国領の相当部分を回復した。イタリア半島では東ゴード王国を倒し、西方の管理のためにラヴェンナに総督府を置いた。こうして、ラヴェンナにビザンチン様式の美術が登場するのである。
ユスティニアヌスの没後、ビザンチン帝国の支配力は再び衰え、イタリア半島の中心も再びローマに戻ると、ラヴェンナは歴史からすっかり取り残された。
歴史から取り残されたラヴェンナには、カソリックの本拠地ローマでさえもう見ることができない初期キリスト教時代の聖堂建築が残り、さらに6世紀のビザンチン美術が残ったのである。
ポンペイは死んだ化石だが、ラヴェンナは生きた化石と言われる。
例えば、ラヴェンナのサン・ヴィターレ聖堂の内陣の壁には、左側に「皇帝ユスティニアヌスとその廷臣たち」、右側に「皇后テオドラと女官たちと廷臣たち」のモザイク画が色鮮やかに残っている。
もう15年近く前だが、ここを訪れたことがある。初めてこのモザイク画を目にした時、聖堂の内陣という聖なる場所に、イエスやマリアの絵とともに皇帝と廷臣の絵や、さらに皇后と女官たちの絵があることに驚いた。あの世は神が、この世は自分が治める、という皇帝ユスティニアヌスの自信・自負心の表れだろうか。
「皇后テオドラと女官たちと廷臣たち」の中で、きつい顔の皇后テオドラの隣の隣の女性がとても美しいと思って印象に残った。
今回、講義で、テオドラのすぐ横はユスティニアヌス皇帝のナンバーワンの武官の奥方、さらにその隣の、私が美しいと感動した女性は、その奥方の娘であると教えられた。指が隣の女性に触れているのは、母と娘であることを表しているのだそうだ。
(「皇妃テオドーラと女官たち廷臣たち」部分 )
こういうことは、旅行のガイドブックには書いてないし、生半可な本を読んでも書いてない。
それにしても、全員、正面を向いた素朴な感じの絵だが、黄金色をはじめ色彩が美しく、装飾的で、かえって現代の絵画に近いと思った。
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< シナンの神 >
初めて聖(アヤ)ソフィアを訪れたとき、若きシナンは大きな感銘を受けながらも、なぜか物足りなかった。歳月を経る中で、その理由がシナンの中で次第に鮮明になってくる。キリスト教徒の聖堂がもつ限界 ── 聖堂の中は、人間である芸術家たちが技を競った偶像で満たされている。このような聖堂の中に、神がいるはずがない ……。ここでは、神を感じることはできない。
「キリスト教の神であろうと、イスラムの神であろうと、シナンにはもうどちらでもよかった。
その神を、どのような名で呼んでもよい ──
シナンは、すでに、その認識に達している」。
「神に固有の名を与えるのは、ある意味ではそれは、神を偶像化することではないかとシナンは思っている。
神を、この世に現すには、偶像化はふさわしくない。
どのような姿に似ていてもいけない。それが、人の姿であろうと、動物の姿であろうと、植物の姿であろうと」。
「神を何かに似せるとしたら、それは、宇宙に似せなければならない。…… その宇宙の形状は ── 球である。…… そして、その神に意志があるのなら、それは ── 光である」。
★
「シナンが80歳の時に、工事は始められ、それから7年後、シナンが87歳の時に、セリミエ・ジャーミーは完成した。
ドームの直径は、32m。聖ソフィアのドームの、大きい方の直径と同じ大きさであった。もともとの直径31mよりは大きい」。
「人の気配は、その建物にはなかった。あるのは、空間と、そこに溢れる光。
そして、数学。
そして、美。
そして ── 日中、どの方向からも、ドームの内部には陽光が差し込み、その光が内部を満たした。
イスラム世界における、ドーム形式のモスクは、その巨大さにおいても、芸術性においても、ここにその頂点を得たのである」。
★ ★ ★
< 聖(アヤ)ソフィアを見学して >
「神を何かに似せるとしたら、それは、宇宙に似せなければならない」…… というシナンの、或いは夢枕獏の想像するシナンの宗教観は、一神教というより、汎神論に近い。日本人の神に近づいている。
そこまで考えを進めるなら、もう一歩進めて。
本当は巨大な大聖堂も、大モスクも、大寺院も必要ないのではないか。それは所詮、人間のつくったもの。神はそこにはいらっしゃらぬ。
山、霧、風、岩、滝、樹木、そして岬 …… そこに神の存在を感じる人に、神はこたえる。
日本の神道は建物の中に入って礼拝しない。本来、社は必要とせず、聖なる空間の杜(森)の気に包まれて、神々を感じる。
神社の杜(森)は、神々の気配。杜は宇宙につながっている。
四畳半の茶室に空いた小さな窓に映る樹木の影から、日本人は天地宇宙を想像する。
★
ただし、世界には、いろんな暮らし・文化・宗教があって、そこが面白い。
だから旅もするし、本も読む。
困るのは、唯我独尊の思想。自己を絶対視する宗教。いろいろあっていい。