( 唐古鍵遺跡史跡公園の「弥生の楼閣」 )
奈良県田原本町の「唐古鍵(カラコ・カギ)考古学ミュージアム」の近くに、遺跡の発掘現場が整備されて、「史跡公園」としてオープンしたと新聞に載った。
10月のある日、車で、「唐古鍵考古学ミュージアム」を訪ねた。ミュージアムなどとハイカラだが、要するに出土品を展示する博物館である。
唐古鍵遺跡は、弥生時代の前期から中期を経て後期まで、数百年間に渡って存在した日本列島を代表する大きな環濠集落の跡である。
そこから少し南の桜井市には、卑弥呼の墓とされる箸墓古墳があり、箸墓を含む纏向遺跡が発掘調査中である。唐古鍵の集落は、纏向が突如誕生すると、消滅してしまった。集団移住したのだろうか??
今は、邪馬台国やヤマト王権につながる纏向遺跡の発掘調査が考古学上の大きな関心事である。
「唐古鍵考古学ミュージアム」では、ボランティアガイドの方の説明がよくわかり、面白かった。
その後、近くの「史跡公園」に行ってみた。江戸時代に造られた池のほとりに、発掘された弥生土器に描かれていた絵に基づいて、楼閣が復元されていた。空がやや夕焼けの色を帯びて、いい雰囲気だった。
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また、別の日、電車に乗って「県立橿原考古学研究所附属博物館」に行った。近鉄橿原線の「畝傍御陵前駅」から歩いてすぐだ。県立橿原考古学研究所は、纏向遺跡の発掘調査のただ中にある。
この博物館には、大和地方で発掘された旧石器時代から平安時代までの発掘品が展示されており、やはりボランティアガイドの説明があった。だが、肝心の古墳時代に差し掛かったところで、お昼の時間になってしまった。とにかく一回の訪問では無理である。
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11月初めには、葛城・金剛の山ふところ ── そこは日本の原風景のような山里だが、その山里にある3つの神社を車で巡った。前回訪ねたのは、もう30年以上も前だろうか。その頃から少し古代史の知識も増え、新鮮な目で見て回ることができた。
まず最初は、一番北にある葛城一言主(ヒトコトヌシ)神社。神社の名が、素朴で、面白い。
『古事記』にも『日本書紀』にも、葛城山を訪ねた雄略天皇と一言主神とのやりとりの話が登場する。高天原の神々の話ではない。人間の大王と土地の神とのやりとりは、まるでギリシャ神話のようだ。
田畑の中に石の鳥居があり、ここから参道が始まる。
車を置いて、鳥居をくぐるとすぐ、木陰に「蜘蛛塚」の立札があった。
以前なら、気にも留めず通り過ぎただろう。今は若干の知識があり、以前は見過ごしていたものにも目が留まる。
土蜘蛛は、『古事記』の神武東征の話の中にも登場する。王権に服従しない異形のものたち。稲作文明を拒み続ける「未開の人々」 … のことであろうか??
『古事記』の一節 ── 「そこよりいでまして、忍坂(オシサカ)の大室に至りし時に、尾生ひたる土蜘蛛の八十建(ヤソタケル)、その室に在りて、待ちいなる」。
「室(ムロ)」は窓のない家屋のこと。── イハレビコ(神武)の一行は、宇陀よりさらに進んで、桜井市忍阪の大きな室に着いたとき、室には尾の生えた土蜘蛛という勇猛な者たちが多数、一行を待ち構えて、うなり声を上げていた。
イハレビコに従う久米の兵士たちによって、土蜘蛛たちは成敗される。
土蜘蛛は能にも登場する。能は文楽や歌舞伎の派手派手しさがなく、清澄な緊迫感が好きだ。場面が異界に入るときの舞台を切り裂くような笛の音。動き少なく舞うシテの能舞台を独り占めする存在感。謡や澄んだ小鼓の音に交じって打たれる大鼓(ツツミ)の甲高い音は見る者の感情を揺さぶり、物語は悲劇性を帯びつつ展開して、やがて一筋の救いとともに現実世界に戻る。
『土蜘蛛』という演目がある。
源頼光は、王都を守って大江山の酒呑童子を退治した源氏の頭領であるが、数日来、病に臥せっていた。深夜、土蜘蛛の精霊が頼光の命を取ろうと寝所に入り込む。気配を察した頼光は危うく刀を抜きはなって斬る。駆けつけた家来たちに、直ちに血の跡を追わせた。それは、かつて頼光によって退治された土蜘蛛の生き残りで、仇を討たんと王都に入り込んだのだ。
血痕は葛城山まで続いていた。武者たちは山腹に怪しい塚を見つける。塚を崩すと、土蜘蛛が鬼神の姿となって現れた。
土蜘蛛は幾筋もの蜘蛛の糸を吐き、襲いかかる武者たちをさんざんに苦しめるが、ついに討ち取られる。その間、土蜘蛛の投げる無数の糸(紐)が舞台の上に散乱して、塚も地面も白くおおい、一番前の席にいた私の所にまでとんできた。
ワキ役者の安田登氏は『異界を旅する能』(ちくま文庫)の中で、演目『土蜘蛛』について次のように語っている。
「確かに土蜘蛛は最後に退治される。しかし、1時間強の演能時間のほとんどは土蜘蛛の活躍に終始する。活躍して、活躍して、また活躍する」。「目立つだけ目立っておいて、朝廷軍を翻弄するだけ翻弄しておいて、最後に『負けました』と言われても、その活躍は消えない」。「その隠喩は単なる修辞法ではなかった。自分たちの理解者には伝わらなければ意味をなさず、しかし為政者にその意志を見破られれば一族の絶滅に直結するという、生死を賭けたギリギリの修辞『術』だった」。
能は、人の心の深淵、愛や哀しみや我執を描いて、悲しくも美しい。だが、能をそのような高い境地の芸能に仕上げた室町時代の能楽師たちは、将軍や権力者の前で能を作り演じながら、一方で、自分たち能楽師を「土蜘蛛と同類の者」と意識していたのかもしれない。
現代の能楽師・安田登氏は、この作品をそのように理解しているのであろう。
参道を歩き、最後に石段を上がると、手水舎があった。葛城山から流れてくる水はいかにも浄らかである。
小高い所にたつ社は鄙びていて、その拝殿の前で参拝する。
祭神の一言主神は、凶事も吉事も一言で言い放つ「託宣の神」であったらしい。だが、今は、託宣というより、一言で願いをかなえてくれる神さまとして信仰されている。ただし、「ひとこと」は「一事」でもあるから、願いは一つだけ。あれもこれもと欲張ってはいけないことになっている。そこが良い。
境内に、銀杏の古木。そして、歌碑もある。
歌の中の「其津彦(ソツヒコ)」は、碑に説明されているように葛城氏の祖。4世紀後半から5世紀初頭の、多分、実在の人で、朝鮮半島に出征した武将である。そのころまだヤマトの国には鉄素材が出ず、半島南部の伽耶(カヤ)から手に入れていた。その伽耶が周辺国から侵攻されそうになったとき、ヤマト政権はこれを援けて出兵した。神功皇后伝説もこの時代のことを伝え、また、歴史的資料としては広開土王碑が残る。
ソツヒコの娘は磐之媛(イワノヒメ)で、仁徳天皇の妃である。
ソツヒコのあと、雄略天皇の時代まで、大和川の水運をおさえていた葛城氏は、大王家の外戚として強い政治力をもったようだ。大和川は、難波から瀬戸内海、北九州を経て、朝鮮半島に至る際の重要な河川だった。
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橋本院という寺院に向かって車を走らせたが、道路がどんどん細くなり、対向車が来ても行き交うことができない道になった。自動車教習所のS字カーブのような所もある。地元の人に迷惑をかけてはいけないから、どこかでUターンして引き返そうと思っていたら、後ろから宅急便のライトバンが迫ってきて、それもできなくなった。
やっとパーキング用の原っぱに出る。原っぱの先の田んぼの向こうが橋本院だ。
表に「真言宗高野山 橋本院」とある。今は檀家も少なくなり、普通の住宅のように住みなしていらっしゃるのであろうか??
宅急便の若い女性が何度も呼ぶが、寺院から人は出てこない。留守である。あきらめきれないのか、なかなか立ち去ろうとしない。遥々とこんな人里離れた所まで届けにやってきて、気の毒である。
付近を少し散策して、パーキングに戻ると、宅急便のバンの運転席には、さっきの女性。できたら先に行ってもらって後ろを走りたいと思ったが、彼女もそう思っているのか、発進しない。やむを得ず走り出すと、ちゃっかり付いてきた。宅急便といっても、この道にはめったに来ないのだろう。
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高天彦(タカマヒコ)神社に向かって下りの道路を走っていると、車道から山道に入る入口に、神社の結界を示す注連縄が掛けられていた。ここから高天彦神社の参道が始まるのだろう。そう思って、道路の角に駐車して、山の中に入った。
失敗だった。山道を延々と登ることになった。
汗をかき、幾曲がりも回って、山道がやっと平坦になり、林と草やぶの向こうに神社のこんもりした杜が見えたときは、ほっとした。
神社の鳥居まで来てみると、車道があり、神社のパーキングもあった。折しも小型バスが到着して、10人ほどの古代史好きのおじさん、おばさんたちが、ガイド役らしき土地のおじさん(もしかしたら神主さん)と一緒に降りてきた。
だが、なにしろここは高天原。汗をかいて登ってきた者に、ご利益も大きいに違いない。(続く)