( 再建された興福寺の中金堂 )
司馬遼太郎『街道をゆく24』から
「興福寺という寺は、よく知られているように藤原氏の氏寺として発足し …… 規模は東大寺よりも大きかった。寺領にいたっては、中世、大和盆地一円を領し、国持大名というべき存在だった。
私どもが、奈良公園とか奈良のまちといっている広大な空間は、あらかた興福寺境内だったといっていい。たとえば、私はこの期間、奈良ホテルにとまった。明治42年創立のこの古いホテルは、興福寺のなかの代表的な塔頭だった大乗院の庭園のなかに建っているのである」。
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藤原鎌足の夫人が夫の病気平癒を祈願して、現在の京都市山科に建立した寺を起源とする。山科は中臣氏の本拠地。
その後、藤原遷都のときに藤原京に移転し、寺名も変えた。
さらに、710年の平城京遷都とともに、鎌足の子・不比等によって現在地に移転され、名も「興福寺」と改められた。
藤原氏の私寺だったが、不比等の死後、興福寺の造営は国家の手で進められるようになる。
鎌倉幕府も室町幕府も、興福寺の武力・権勢をはばかって、大和国に守護職を置くことができず、信長、秀吉が登場するまで興福寺は大和国の実質的な守護であった。
寺領は広大で、多くの塔頭が甍を競ったが、その中心は猿沢の池の北側、今も五重塔が残る一角である。やや小高くなったこの一角も、兵火に遭ったり、再三の火災に遭って、今、残っている建築物はいずれも創建当時のものではない。
その五重塔の一角は、全盛期の奈良時代には、南から北へ、建造物が三列に整然と並んでいた。
中央には、南から北へ、(南大門)、中金堂(今回、再建された)、(講堂)が並んでいた。
その東側(若草山側)には、五重塔、東金堂、(食堂 ジキドウ)が建っていた。
西側には、南円堂、(西金堂)、北円堂である。
( )は、焼失して、今は存在しない。
( 東の列の五重塔と東金堂 )
東の列の南にある五重塔は、東大寺の大仏様とともに、奈良を代表する建造物である。
不比等の娘で聖武天皇の妃である光明皇后の発願で創建された。現在の塔は1426年頃の再建。高さは50mで、京都の東寺に次ぐ。
このように屋根が三重或いは五重にリズミカルに重なる塔のスタイルは、韓国にも中国にも存在しない。日本独特の様式美である。
東金堂は、聖武天皇が伯母の病気平癒を祈願して創建した。1415年に再建され、国宝になっている。
食堂(ジキドウ)は今はなく、興福寺の国宝館がある。この博物館に収納・展示されている木造、塑像などの諸像は、有名な阿修羅像をはじめ、日本文化を代表する超一級品である。その一つ一つが、個性的で、見ていて飽きない。
阿修羅像について、「どう生きたらよいか自己のアイデンティティを求めて悩む天平の青春像」と、昔、読んだ何かに書いてあったように思う。「阿修羅」の仏教的意味はあるだろうが、それだけのものであったなら、普遍性をもって、こんなに現代人を魅了することはないだろう。
宗教は観念或いは理想から出発し、芸術は生身の人間から出発する。
真に優れた仏師は、パトロンである宗教を超えて(脱して、ではない)、ついに芸術家となる。
宗教は神仏に似せて人間を改造せんとし、芸術はありのままの人間に美を見出す。
古神道の良さは、神々が人を裁かず、人とともにあり、人を支える点にある。
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話を元に戻して、
興福寺の中央のラインには、もともと南大門、中金堂、講堂があったが、いずれも焼失した。そのため、興福寺といえば五重塔だけの、何となく草の茫々とした広場という印象があった。
一番重要な中金堂は、藤原不比等の創建以来、7回も焼失・再建を繰り返し、享保2年(1717年)の焼失後は、仮再建はされたが、本格的な再建はされなかった。それが平城遷都1300年(西暦2010年)を迎えるに当たって、国、県、そして学者らが集まり、再建チームがつくられた。再建に要する費用が集められ、発掘調査や文献調査も行われて、可能な限り当時のままの工法で、2018年に再建された。落慶法要が挙行されたのは、つい先日、10月8日である。
( 中金堂 )
話は遡り、2、3年前のお天気のいい日。今日のように春日大社からJR奈良駅へ向けてぶらぶらと興福寺のこの一角へ歩いてきたとき、「中金堂再建のための勧進のお願い」という看板が目にとまった。一番お手軽は、丸瓦、平瓦が1枚1000円。上は、棟木材1口10万円など。「勧進いただいた方には芳名帳に記載し、後世に伝えさせていただきます」とあった。
後世に名を伝えたいとは全く思わないが、日本の文化を後世に残す一助になるならと、貧者の一灯をさせていただいた。もちろん、お手軽な瓦を何枚か。
ところが、思いがけずもこの秋、「この度、落慶法要を行うことになったので、ご出席いただきたい」というご招待をいただいた。
もちろん、でき上った東金堂を見たいという気持ちはあったが、あの程度の貧者の一灯に畏れ多いという思いもあり、もしかして服装もそれなりに整えなければならないだろうかとか、延々と長時間の読経に付き合わねばならないかもしれないなどと、あれこれ慮って、後日、気軽に見学に行かせていただくことにした。
それが今日である。
晩秋の青空の下、藤原不比等による創建当時のお堂が、壮麗に再建されていた。東西36.6m、南北23m、最高高21.2m。
こうして、この一角が、往時の姿に次第に復元されていくのは、うれしい。
正面の釈迦如来像は5代目だそうだ。堂内も拝観した。
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興福寺中金堂の再建に心ばかりでも協力をしようと思ったのは、少し伏線がある。
10年ほども前だが、一生に一度くらい吉野の桜を見ておきたいものと、吉野山の中の民宿に宿をとった。
早朝、上の千本の桜を見ながら、そぞろ歩いていたら、小さな神社に出会った。吉野水分(ミクマリ)神社である。
ミクマリがミコモリとなり、「子守の神様」となった。子授けの神様で、豊臣秀吉も参拝して秀頼を授かったそうだ。事実、現在の社殿は秀頼による再建である。
もともと、「水分」即ち水を配る神様だった。古くはさらに上流にあったとされるが、雨乞いの神様として、奈良の朝廷からも崇敬された。
山の中ゆえ、敷地は広くない。そこに、ロの字型に、本殿、楼門と回廊、拝殿、幣殿が囲うように建っている。拝殿で拝むと、背後に本殿があり、神様にお尻を向けて拝んで願い事が届くのかと落ち着かなかった。
参拝者は少なく、こんもりして、古色蒼然。ひっそりした雰囲気のある神社であった。
掲示があった。建物が古くなり、雨漏りがひどくなっている。檜皮(ヒワダ)を葺き替えないと建物が持たないが、檜皮は高価ゆえ葺き替えも難しい。ゆえに、ご寄進をいただきたいという趣旨で、檜皮1枚につき〇〇円と書いてあった。豊臣秀頼の創建であるから、すでに相当の年月を経ている。
朝廷の援助はとっくになく、この山奥では氏子もおらず、このまま世界遺産を朽ちさせてはいけない。この程度では何の役にも立たないかもしれないと思ったが、財布から持ち合わせのお金を出し、檜皮何枚か分を寄付した。
何年か経ち、すっかり忘れていたある日、お陰様で葺き替え作業が終わりましたという、丁寧な礼状が届き、恐縮した。
新しい檜皮の良い香りがするような礼状だった。
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南円堂は、西国三十三所第9番の札所である。
そのゆえ、この興福寺の一角で、いつも参拝者で賑わっているお堂である。
現在の建物は、1789年に再建された。フランス革命の年だ。何のつながりもないが、認知症気味の私でも、覚えていやすい年数だ。
( 南円堂 )
白洲正子『西国巡礼』(講談社文芸文庫) に南円堂について、次のようにある。
「弘仁4年(813)藤原冬嗣の創建で、本尊の不空羂索観音は、鎌倉時代の康慶の作である。何度も火災にあったので、現在のお堂は徳川期の建築だが、がっしりとした建築で、興福寺の五重塔が正面に望める」。
「そういえば、この南円堂にしても、興福寺という、甚だ貴族的な大寺の一部であるとはいえ、藤原冬嗣は、弘法大師の勧めにより、一族の守り本尊だった観音を、一般民衆に開放するため、新たに造ったお堂であるという。当時の貴族としては、ずい分思い切ったやり方だが、冬嗣という人は、そんな風に心の温かい大人物であったらしい」。
「南円堂は、今は小さなお堂に過ぎないが、嬉々として群れつどう人達を見て、私は『気宇温裕』と呼ばれた藤原の大臣の精神が、いまだにそこに生きつづけていることを知った。そして、この尊敬すべき人物が、弘法大師にまみえた時の、感動の深さを描いてみずにはいられなかった」。
私の義弟は、四国八十八カ所も、西国三十三カ所もお参りした。
そのご利益だろうか、大阪のアマ囲碁界の大御所の一人で、今でも、時にプロに勝ち(もちろんハンディを付けてもらってだが)、「自分は年を取ってなお進化している」と喜んでいる。
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南円堂の北の西金堂は今はなく、その北に北円堂がある。
( 北円堂 )
こちらは年2回しか開帳せず、訪れる人もなく、青空を背景にひっそりと建っている。
かつて、たまたま開帳の日に行き会わせ、お堂の中に入ったら、ここもまた、素晴らしい仏像が並んでいた。
現在の建物は1208年の再建で、興福寺に現存している建物のなかでは最も古く、国宝である。
ここから地面がやや低くなった所に回り込むことができる。すると、かわいい三重塔が、誰からも忘れられたかのようにひっそりと建っている。立地する地面が低いから、よけいに目立たない。
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この一角は全体にやや高台にあり、石段をとんとんと降りると、下に猿沢の池がある。
その手前の三条通りを歩いてJR奈良駅に向かうのが、いつものコースである。
遠い昔、小学校の修学旅行で来て、この三条通りのどこかの旅館に宿泊した。その宿ももうない。
司馬遼太郎『街道をゆく24』から
「奈良が大いなるまちであるのは、草木から建造物にいたるまで、それらが保たれているということである。世界中の国々で、千年、五百年単位の古さの木造建築が、奈良ほど密集して保存されているところはないのである」。
京都も良いが、私には、京都はちょっとよそよそしく感じる。「お邪魔します」という感じだ。
その点、奈良は、私だけでなく、誰が訪れても、なつかしい感じがするのではなかろうか。
京都のお寺は、表からはうかがえないが、奥に瀟洒なお庭などがあって、洗練されている。しかし、京都の文化は応仁の乱以後であり、奈良のお寺はずっと古い。
ヤマトタケルの望郷の歌に出てくる「大和は国のまほろば」の「大和」はここではないのだろうが、「国のまほろば」という感じがするところがいい。
唐の長安を見たければ、西安よりも奈良に行け、とも言われる。
まだ観光客の歩いていない、朝、6時とか、7時の奈良が良い。年を経た樹木や石灯篭の間から朝の光が斜めに入り、町の人が打ち水をしたり、店開きの用意をしたりしている。
そういえば、入江泰吉さんの写真にも、そのような景色があつたような気がする。(了)