11月の終わりに奈良散歩に出かけた。
奈良公園は紅葉の名所というほどではないが、今年の紅葉をまだ見ていないので、手向山八幡宮の紅葉を見に行こうと思い立った。
もう一つある。興福寺の中金堂が300年ぶりに再建され、10月初めに落慶法要があった。享保2年(1717年)に焼失して以来の復元である。遠くに住んでいるのならともかく、JR奈良駅まで電車で30分足らず、これは拝観に行くべきである。
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JR奈良駅から市内循環バスに乗り、大仏殿の辺りは内外の観光客と鹿センベイを求める鹿でごった返しているであろうと、一つ手前の「氷室神社」で降りた。
司馬遼太郎『街道をゆく24』から
「 東大寺の境内には、ゆたかな自然がある。
中央に、華厳思想の象徴である毘盧遮那仏(大仏)がしずまっている。その大仏殿をなかにすえて、境内は華厳世界のように広大である。一辺約1キロのほぼ正方形の土地に、二月堂、三月堂、三昧堂などの堂宇や多くの子院その他の諸施設が点在しており、地形は東方が丘陵になっている。ゆるやかに傾斜してゆき、大路や小径が通じるなかは、自然林、小川、池があり、ふとした芝生のなかに古い礎石ものこされている。日本でこれほど保存のいい境内もすくなく、それらを残しつづけたというところに、この寺の栄光があるといっていい」。
大仏殿の正面から一本西の小径をスタートし、戒壇院で北へ向きを変え、突き当りの二月堂からは若草山に沿って東辺の小径を歩き、春日大社を南下する … このように大仏様を囲うように歩くのが、私のお気に入りのコースの一つである。
まずは大仏殿の西側の静かな小径を進む。今は奈良学園所有になっている閑静な和風大邸宅の前を通って、依水園の前に出る。
依水園は若草山や御蓋山を借景にした池泉回遊式の名庭だ。だが、今日は先を急いで、土塀の残る小径を北へと歩いていく。
ほどなく写真家・故入江泰吉さんの旧居の前を通る。昔、この辺りが気に入ってよく散策に来ていたころ、入江さんはまだご健在だったから、いつもご自宅の前をちょっと気にしながら通ったものだ。奈良公園で写真撮影しているところを拝見したこともある。その頃に買った『入江泰吉大和路巡礼』という6巻の写真集が本箱にある。
その旧居に付属している公衆トイレを使わせてもらって、もう少し北へ進むと、戒壇堂に出る。この辺りは、私の特に好きな一隅である。ここまで来る観光客はちらほらしかいない。
唐の戒律の第一人者とされる鑑真が、波濤を超えて日本にやって来たのは754年(天平勝宝6年)。翌年、鑑真のために、大仏殿の北西の地に戒壇院が建立された。入口で拝観料を払ってもらったパンフレットの「東大寺戒壇院伽藍絵図」を見ると、創建当時は回廊がめぐらされ、金堂、講堂、僧房など多くの建造物が並ぶ堂々たる一角であったことがわかる。だが、その後の三度の大火で全て焼失してしまった。今、残る唯一のお堂・戒壇堂は江戸時代に再建されたものだ。
小さなお堂の中には、天平彫刻の最高傑作とされる四天王が四隅を固めている。
「私は、奈良の仏たちのなかでは、興福寺の阿修羅と、東大寺戒壇院の広目天が、つねに懐かしい」(司馬遼太郎『街道をゆく24』から)。
この辺りの東大寺、興福寺にゆかりのあるお堂や博物館をめぐると、四天王像にはあちこちでお目にかかる。いずれも国宝或いは国宝級の傑作であるが、戒壇堂の四天王像は、その中でも最高傑作である。
特に、広目天。戒壇堂の広目天は、剣や鉾などの武器を持たぬ。周りの三体の激しい「動」に比し、形相も体の動きも相対的に「静」。だが、それだけに、うちに秘めた迫力を感じる。眉を顰めて遠くの敵を凝視するその手には、左手に巻物、右手に筆。私は、阿修羅像よりも、こちらのファンである。
戒壇堂は布で覆われて工事中。どこもそうだが、堂内の像は撮影禁止。従って、写真はない。
ヨーロッパでは、美術館内のミロのビーナスでもダ・ヴィンチやミケランジェロの作品でも、或いは大聖堂内のイエスやマリアの絵や彫刻でも、フラッシュをたかなければ撮影できる。
寺院の側からすれば、仮に仏への信仰心はなくても、せめてはその前に静かに座り、長い歴史の中でこの仏を拝んできた多くの人々のあったことに思いを馳せ、これを造った仏師の力量に思いを致してほしい。ガヤガヤしゃべり、先を争うようにコンパクトカメラで写し、さっさと次の観光先へ去っていく内外の観光客に対して、腹立たしいと感じるのは理解できる。
対象に対する敬意や愛情がなければ、いい写真は撮れない。写真撮影は祈りの心に近いと思う。
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戒壇堂からさらに北へ進めば正倉院に出る。だが、そちらへは行かず、東へ向かう。若草山の方へとゆるい上り坂となり、少しばかり石段もあって、風情のある径である。
突き当りに二月堂が見えるこのカーブした坂道は、私の好きな径である。私だけでなく、絵の会のメンバーの方々が、よくこの辺りで画架を広げて写生をしている。
司馬遼太郎『街道をゆく24』から
「私は(東大寺の)この境域のどの一角も好きである。
とくに一カ所をあげよといわれれば、二月堂のあたりほどいい界隈はない。立ちどまってながめるというより、そこを通りすぎてゆくときの気分がいい。東域の傾斜に建てられた二月堂は、懸崖造りの桁や柱にささえられつつ、西方の天にむかって大きく開口している。西風を喰らい、日没の茜色を見、夜は西天の星を見つめている」。
( 西方の天にむかって大きく開口している )
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二月堂からまた方向を変え、若草山の山沿いの道を、南へと歩く。
二月堂の隣は三月堂(法華堂)で、ここの日光・月光菩薩を拝顔したくて、中に入った。
人っ気はなく、小さなお堂に不空羂索観音像をはじめ、四天王像や金剛力士像が立っている。いずれも国宝である。
日光・月光菩薩像はなかった。尋ねると、東大寺ミュージアムの方にあるとのこと。
以前、ここで日光・月光菩薩を拝顔したのはいつだったのだろう。記憶が茫々として、もしかしたら、遠い学生時代だったかもしれない。ただ、いいお顔、懐かしい佇まいだった印象だけが記憶の底に残っている。
お堂を出て、振り返って見ると、改めて、麗しい建築物だと思った。
懸崖造りの二月堂はお水取りの行事で有名だが、三月堂は旧暦三月に法華会が開かれる。
パンフレットによると、このお堂は、聖武天皇が皇太子であった息子の菩提をとむらうために建てたのだそうだ。後継者として期待していた皇子に先立たれて、無念であったに違いない。皇女が皇位を継いで、孝謙天皇になった。東大寺に残る最古の建物だとか。建物も国宝である。
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私ごとで恐縮だが、この頃、かなり認知症である。初めは人の名や歴史上の人物名などが出にくかったが、今では普通名詞まで出てこなかったりする。ブログを書くときも、パソコンに向かいつつ、そばに辞書・事典代わりのスマホを置いて、しばしば言葉を確認しながら書いている。
本筋(文脈)は、覚えているのだ。筋は、例えば、「八幡さん」なら、こうなる。
最初は宇佐八幡という地方の古代豪族の神様としてスタートした。その地方神が、大仏造営の大事業を支持する託宣を出したから、聖武天皇は大いに喜び、この神様を奈良にお呼びして、東大寺境内に手向山八幡宮を創建した。この時から八幡さんは全国区の神様になった。
都が京都に遷都すると、清和天皇が京都に勧請して石清水八幡宮を創建した。
清和源氏の頭領・源義家は、石清水八幡宮で元服して、自ら「八幡太郎義家」を名乗った。以後、八幡様の祭神が武神の応神天皇だったから、武士の頭領である源氏の氏神のようになった。義家は前九年の役で東国武将を率いて活躍し、鎌倉に鶴岡八幡宮を勧請した。
小さな神社だったが、後に、頼朝が鎌倉幕府を開くと、源氏の氏神として立派な社殿を創建した。
… という筋はわかっているのである。だが、アンダーラインのたった4つの神社名がなかなか出てこない。スマホを見ながら何度も覚えなおしているうちに、ふと、久しぶりに手向山八幡宮を訪ねたくなった … とまあ、こういうわけで、今回の奈良散歩になったわけである。
三月堂のそばの茶店で昼飯の親子丼を食べ、ビールも飲んで、そのあと、手向山八幡宮に参拝した。
こうして奈良の寺社をめぐっていると、仏教寺院や仏像は、たとえて言えば漢字の世界であると思う。仏教にも仏像にも、もちろんお経にも、深淵な理屈があり、哲学があって、なかなか難しく、取っつきにくい。
それに対して、神社はひらがなの世界である。小うるさい理屈はなく、やさしくて、簡素で、時に、艶(アデ)やかでさえある。神社には、舞楽殿で舞う巫女たちの舞や鈴の音がよく似合う。
予想どおり、紅葉が彩りを添えていた。
このたびは ぬさもとりあへず 手向山
もみぢのにしき 神のまにまに
百人一首に採られている菅原道真の歌である。碑を置くとしたら、ここしかない。
幣(ヌサ)は、神にささげる絹や布の供え物だが、当時、旅に出る時の風習があった。錦や絹、麻、或いは色紙などを細かく切って、幣袋に入れて携行する。そして、行く先々の峠などに祀られている道祖神の前で、その美しい切片をまき散らして、旅の安全を祈るのである。
一首の意は、今回はあわただしく京の都を出立したため、幣も携行しませんでした。幣の代わりに、この手向山の美しい紅葉を、御心のままにお受け取りください。
全山が錦で織られているような紅葉が、風に吹かれてはらはらと散る美しさを、神前にてまく幣にたとえて歌っている。
漢学者の道真としては、美しい歌である。
手向山八幡宮を抜け、春日大社の手前から、観光客の多い奈良公園を通って、興福寺へ向かった。
(次回、「興福寺界隈」へ続く)