高天彦(タカマヒコ)神社の社殿は、いかにも山懐深くに建つ神社の風韻がある。
主神は高皇産霊神 (タカミ ムスビノ カミ)である。
『古事記』の神様で、天地が初めてあらわれた時に、高天原に最初に成った三神のうちの一神。「ムス」は生成すること。万物生成の神である。
しかし、ここに元から祀られていたのは、「高天彦」というこの地の地主神であるという説がある。8世紀初めにできた『古事記』に登場する神様をムリにあてはめなくても、もっと古くからこの地に伝わってきた伝承に従ったほうがよいと、私も思う。
『この国のかたち五』の「神道」 から
「神道に、教祖も教義もない。
たとえばこの島々にいた古代人たちは、地面に顔を出した岩の露頭ひとつにも底つ磐根の大きさをおもい、奇異を感じた。
畏れを覚えればすぐ、そのまわりを清め、みだりに足を踏み入れてけがさぬようにした。それが、神道だった。
むろん、社殿は必要としない。社殿は、はるかな後世、仏教が伝わってくると、それを見習ってできた風である」。
「古神道というのは、真水のようにすっきりとして平明である。
教義などはなく、ただその一角を清らかにしておけば、すでにそこに神が在す(オワス)」。
「(伊勢神宮には) 平安末期に世を過ごした西行も 参拝した。
『何事のおはしますをば知らねども辱さ(カタジケナサ)の涙こぼるる』
というかれの歌は、いかにも古神道の風韻をつたえている。その空間が清浄にされ、よく斎かれていれば、すでに神がおわすということである。神名を問うなど、余計なことであった」。
★
『古事記』の記す神々もそうであるが、およそ日本の神様は、天地宇宙から、自然に、或いは、自ずから、「成りし」神である。
私の知るクリスチャンは、キリスト教のGotは天地を創造した絶対神であるから、天地宇宙から生まれ出た日本の神々より格が上である、などと形式論を言う。だが、「天地を創造し、自分に似せて人を作った絶対神」という存在自体が、いかにもウソくさく、不自然である。キリスト教的世界観では、天体も、動物や植物も、「神に似せて作られた人間」より下位の存在になる。
日本人は、「自然に」「自ずから」という言葉を大切にする。「Nature」の意ではない。神々は、天地宇宙、万物、森羅万象の中から自ずから「成った」のである。人は、森羅万象の中に神を感じる。そして、人もまた、森羅万象に包まれ、森羅万象を構成しているのである。そう考える方が、自然である。
高天彦神社の祭神である「高天彦」の「高天(タカマ)」も、『古事記』のいう高天原のことではない。ちなみに、『日本書紀』には、高天原という概念は基本的に出てこない。
『万葉集』に次の歌がある。
葛城の 高間(タカマ)の草野 はや領(シ)りて
標指(シメサ)さましを 今ぞ悔しき (雑歌1337)
武田祐吉博士の『萬葉集全講』によると、「葛城の高間」は、葛城山中の地名。一首の意は、葛城の高間の草の野は、早く知って、私のものというしるしをつけたらよかった。人に手を付けられてしまって残念だ、という意味らしい。それ以上の説明はないが、前後に並ぶ歌から考えると、「草野」は乙女のことかもしれないと思う。
いずれにしろ、「たかま」はもともとこの辺りの地名のことであり、高天原ではない。その「たかま」という地に住む人々の中に古くから言い伝えられた神様が「タカマヒコ」である。
この地に社殿ができる以前は、背後の円錐形の山・白雲岳(694m)を神体山として祀っていたそうだ。神体山即ちカンナビである。カンナビ信仰は、遠く縄文時代にさかのぼる可能性がある。8世紀初めの『古事記』などより十数世紀以上も古いのである。
★
『古事記』で、「高天原」は、天照大御神をはじめとする神々の住む世界をいう。一方、人間の住む世界は葦原中つ国で、高天原の乱暴者だったスサノオは、葦原中つ国に追放された。
江戸時代の偉大な古典研究者である本居宣長は、高天原の所在を天の上だと信じていたそうだ。『古事記』の実証的研究の道を切り開いた学者が、一方でそのような考え方をしたところが、面白い。
これに対して、幕府の政治顧問を務めた優れた儒学者新井白石は、「高天原」は架空の存在だが、モデルになった地が実際にあったはずだと考え、候補地を挙げた。
だが、その地として、今、人気なのは宮崎県北部の高千穂町だろう。
宮崎県の南部の高原町は、背後に高千穂の峰があり、天孫降臨の地ではないかと言われる。
しかし、朝廷では、中古の時代からずっと高天原は金剛山の山麓、葛城の地であると信じられてきたそうだ。だから、平安時代、高天彦神社は名神大社に列せられ、格式の高い神社として崇敬された。
★
この日の最後に訪ねたのは高鴨神社。
金剛・葛城の山懐の奥の奥にある一言主神社や高天彦神社からは、国道24号線の方へ下った地にある。それでも、人里から離れた森のなかだ。
鳥居の横に神社の綺麗な境内図があった。
鳥居を入ってまっすぐ進めば拝殿があり、左手には池がある。池の前には、浄らかな手水舎。
池に張り出して、奉納用の舞台が設えられている。ここで白装束の巫女が舞う舞の奉納を見てみたいと思う。
拝殿・本殿は新しく、白木のあとも初々しい。
鳥居のそばに掲示されていた当社の説明文に、「当地は少なくとも縄文晩期より集落が形成され祭祀が行われていたことが、近年の考古学調査で明らかとなっています」。
「高鴨神社は全国鴨(加茂)系の神社の元宮で、古代より祭祀を行う日本最古の神社の一つです」。
「迦毛(カモ)之大御神(オオミカミ)は、北は青森県から南は鹿児島県に至るまでの約300社でお祀りされており、妹神の下照姫命は全国約150社でお祀りされております」。
「(県内には) … 名神大社はわずか12社しかありません。そのうちの5社がここ葛城地方にかたまっております」とあった。
※5社とは、高鴨神社、高天彦神社、一言主神社、鴨都波神社、葛木坐火雷神社
葛城氏と並んで、この地には鴨氏がいたという。鴨氏の氏神を祀ったのが高鴨神社である。
鴨氏については、よくわからない。葛城氏との関係も、よくわからない。
イハレビコ(神武)を導いた八咫烏(ヤタガラス)の子孫だという伝説もある。イハレビコを大和まで導いて、その後、山城国(京都)に進出したのだという。一方、山城国の上賀茂神社、下鴨神社とは別系統だともいう。
大和国の葛城の鴨一族はある種の霊的集団で、天文観測や薬学、製鉄、農耕の技術に長けていたのだという。役行者や陰陽道の賀茂忠行(安倍晴明の師)もその子孫とか。
★
このあたりから北を見れば、遠い昔、政治の中心であった大和平野が一望でき、背後には、我が家からは遠くに見える秀峰・金剛山、葛城山が、驚くほど間近に、迫力をもって聳えている。
遠い昔 … この地に蟠踞した葛城氏は、朝鮮半島まで兵を出し、朝廷に大臣も出し、妃も出した。
しかし、今は … 少し謎めいた、しかし、簡素・素朴で、清冽な草深い山里である。
(「かつらぎ山麓」散歩の項 終わり)