南木佳士のエッセイはいい。
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南木佳士『急な青空』所収「山林はどこだ」から
ボヤ取りの山は急な坂を登り、神社の鳥居の前を通って行くのだった。子供の足で片道一時間近くかかった。
「下を向いて、足元の一歩一歩を見てりゃ自然に山につくだ。先ばっかり見てるから遠く思えるだ」
まだかよお、とべそをかく私に祖母はやさしく言って聞かせてくれた。
こんな、実践に裏打ちされた彼女の言葉が私の脳を創ってきた。でも、人生の峠を越えたいま、
「おばあさん、もう足元ばっかり見るのは飽きたから、ゆっくり景色を眺めながら坂を下るよ」
と、天国の彼女に力なく笑いかけたい。
「いいさ。もとからおめえはそればかりの器だったんだから」
祖母は哀れみながら許してくれそうな気がする。
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社会に出たときから、仕事を通して世に尽くそうと、40年以上心身を燃焼させてきた。それなりに楽しかったし、充実感も感じて生きてきた。
もういいだろうと、完全リタイアして5年。
熱い日々が遠ざかっていくにつれ、年々、何も世の中に役立っていなかったような気がしてくる。
心ならずも、人を傷つけ、人に迷惑をかけたことも思い出される。「もとからおめえはそればかりの器だったんだから」。…… 本当にそのとおりである。
年を取ってなお恋々と 「宮仕え」 して一生を終えることはない。
それに、組織という大樹に寄らず、独り、自らの生そのものを楽しんで日々を過ごす。── これはこれで、なかなか本当の人間力がないと、できないことである。
今は、残りの人生、景色をゆっくり楽しみながら、山を下っていきたいと思っている。
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昨年行った「ドナウ川の旅」は、気候も良く、のどかで、心たのしく、印象的な旅だった。滔々と流れるドナウ川に沿って、列車を乗り継ぎ、古代ローマが造ったいくつかの町を訪ねたのである。
( ブタペストを流れるドナウ川 )
西欧に心引かれ、ヨーロッパの文明・文化・歴史を自分なりに極めたくて、ヨーロッパ旅行に出かけること10数回。そろそろ終わりにしても良いかなと思い出した。自分なりに見るべきものは見たという充足感もある。「飢え」がなくなってきたのだ。あと少し、行きたくて、行きそびれている国に行くため、自力で計画し、自分の足で歩いて回れるよう、健康と体力と、ぼけない頭を維持し続けること。
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一方、国内旅行には、新たなテーマが生まれた。神々の杜と社をたずねる旅である。
西洋を旅しながら、西洋とは何かを考え続けてきたが、一方で、日本とは何か、と考えることも多くなってきた。
巨大なカテドラルの中の薄暗い空間に、おどろおどろしい磔刑のキリスト像や、無表情なマドンナ像。天井には、これまた人間を威嚇する最後の審判図。すべて大いなる「虚構」。その虚構を2千年も信じ続けてきた西洋人。
イスラム教寺院は簡素だが、どこにいようと日に3回も床にはいつくばって礼拝することを求める絶対神。
文明の大きさを感じ、西欧では時に人々の民度の高さや人間の優しさに感心することもあったが、一神教と、そこから生まれた、ものの見方・考え方・感じ方は、到底、日本人にはなじめないように思う。
それに引き換え、日本の神社には、あのおどろおどろしさは、ない。簡素かつ晴朗である。
手と口を清め、外気の中で、拍手を打って静かに目を閉じれば、耳にせせらぎの音を聞き、顔に風のそよぎを感じる。虫の声、木の葉の揺れる音。拝殿を囲む杜の自然林からは、弥生の息吹きや、時に縄文の気配を感じる。そこここに、人間に寄り添っても、決して人間を支配したりしない、物言わぬ (理屈をこねない) 神々の気配がある。
ユーラシア大陸の東の果ての列島に生まれ、命をつないできた幾百千万の人々が、縄文の時代から変わることなくつないできた心は、杜と社で手を合わせる心である。
(近所の八幡神社)
大社や一の宮など有名な神社だけでも全国に多い。名を知られていないその土地土地の杜なら行く先々にある。日本の自然、日本の景観は、聖なる杜に残る。
日傾きて、暮るるに未だ遠し。まずは健康に注意し、体力の維持を。
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