ドナウ川の白い雲

ヨーロッパの旅の思い出、国内旅行で感じたこと、読んだ本の感想、日々の所感や意見など。

湖東 = 長命寺から彦根城… 琵琶湖周遊の旅(6/7)

2021年01月24日 | 国内旅行…琵琶湖周遊の旅

     (彦根城)

<近江国一の宮の建部大社>

 3日目は、湖東を走って、長命寺に寄り、彦根城まで。

 今朝も、きれいな秋の空だ。

 近江国の一の宮には敬意を表さねばならないと、石山の宿を出て、最初に建部(タケベ)大社へ向かった。

 地図を見ると瀬田橋のそばで、宿からも近い。ただ、県庁所在地の街の中だから、ナビを見ながら、用心して走った。

 ところが、目的地付近に来ているはずなのに、境内らしきものがない

 どうしたものかと住宅街の中をそろそろと運転していたら、バックミラーに、こちらを見る中年の女性の姿 … ??。車を停め窓を開けるとすぐ追いついて、「建部大社をお探し?? 皆さん、ナビを見て来られて、この辺りで迷われるんですよ」。「」。

 奥さんに教えられたとおりに走って、大通りに面する大社に着いた。親切な方がいて助かったが、ナビにもこんな間違いがあるんだ

   (建部大社神門)

  ウイークデイだが、境内には七五三の親子がちらほらいて、華やぎがあった。

 近江国の一の宮。ヤマトタケルを祀る。

 社伝では、ヤマトタケルの妃のフタジヒメがヤマトタケルをしのんで創建したとされる。

  (拝殿と本殿)

      ★

 参拝を終え、湖岸の「さざなみ街道」を北へ北へと走った

 湖北のような神秘的な静寂感はないが、道路マップには「快走・湖岸ロード」と書かれている。左手には湖がひらけ、湖岸の自然もみずみずしく、秋の午前の空気が爽やかだ。

 「矢橋の帰帆」には、以前、立ち寄ったことがある。近江八景の一つ。

 近江八景と言えば、意識しなかったが、昨夕、車を走らせながら、「瀬田の夕照」を見たような気がする。

 だが、石山に泊まりながら、「石山の秋月」は見に行かなかった。昨夜が月夜だったのかどうかわからないが、宿の主人に石山寺のライトアップを見に行くよう勧められた。しかし、風呂のあと晩酌をすれば、もう寺まで歩く気力はない。

  (のどかな湖東の風景)

 湖岸の所々に自然の公園が設けられ、デートの若い男女や親子で遊ぶ姿がある。

 草津市、守山市を通り、琵琶湖大橋にさしかかった。

 大橋のたもとの佐川美術館は鄙には惜しいほどの立派な美術館で、平山郁夫のシルクロードの絵を幾枚か見たことがある。もっともこういう美術館は、鄙にこそふさわしいのかもしれない。

       ★

<祈りと暮らしの水遺産>

 「近江の中でどこが一番美しいかと聞かれたら、私は長命寺のあたりと答えるであろう」と、白洲正子は『近江山河抄』の中で書いている。

 長命寺は、近江八幡の水郷のはずれ。琵琶湖に臨む山の上に建つ。

 「最近は干拓がすすんで、当時の趣はいく分失われたが、それでも水郷の気分は残っており、近江だけでなく、日本の中でもこんなにきめ細かい景色は珍しいと思う」(同)。

 だが、その10年後、司馬遼太郎は『街道をゆく24 近江散歩』で、「湖の側の道路わきには、錆びたトタンぶきの倉庫、物置のたぐいのものが点々とし、地面にビニールの切れっばしや朽ちた無用の柵、コンクリートの電柱といったものが立ちならんでいて、日本という国の汚れを象徴していた」。「近江の湖畔は、かつて代表的なほどに美しい田園だった。日本は重要なものを、あるいは失ってしまったのかもしれない」と、嘆いている。

 高度経済成長の時代からバブルの時代、かつては郭公の声が聞かれた高原の湖畔に土産物屋や喫茶店が並び、あろうことか大音量で演歌を流すようになった。温泉街の大旅館には観光バスが何台も停まって、社員旅行や農協のツアーが大宴会を開いた。日本人は土地への投機や株に走り、傲慢になり、脂ぎっていた。晩年の司馬さんが一番心配していたのは、土地への投機と高騰、その結果としての日本の風景の破壊である。「私権」も大切。だが、そこはもともと日本の「国土」。…… そういう思いを残して、司馬さんは逝った。

 司馬さんが逝って20数年。この間、日本の風景は少しは綺麗になり、品も良くなってきたと感じる。

 近江国もこうして旅をすると、もう白洲正子が書いているほどには美しくないが、司馬さんが書いた頃よりは品位をとり戻している。

 文化庁は平成27年から「日本遺産」の認定制度をスタートさせ、令和元年までに全国で83の日本遺産が認定された。

 その制度がスタートした年に、「琵琶湖とその水辺景観 ── 祈りと暮らしの水遺産 ──」も認定された。

 表題が良い。滋賀県が目指しているものが良くわかる。近江の文化・歴史・自然・景観を大切に守り、その姿を観光客に見てもらおうという姿勢が良い。

 最近、地球の気象変動の問題が、エコロジーからエコノミックに変質してきているようで心配である。エコロジーもヨーロッパ発だが、エコロジーに「終末観」を結合させ、急げ、急げと煽るのも、昔の教皇様と同じである。「悔い改めよ。終わりの日は近い!!」。

 まさかとは思うが、琵琶湖の周りに太陽光パネルを一面に張り巡らせたり、巨大な風力発電用風車を湖水に林立させたりすることがないよう、日本の神仏に祈りたい。

 太陽光パネルの土地利用効率は悪い。各自の家の屋根やビルの屋上を利用する分には問題ないが、それで生み出される電力量では、問題はほとんど解決しない。そもそも太陽光は、不安定。さらに、30年もすれば太陽光パネルも寿命がきて、廃品となる。

 自然環境を守りながら、より効率的で、安定的で、より強力な温室効果ガス対策をやっていく必要がある。

 白洲正子は「日本人の信仰は、自然を離れて成り立ちはしない」(『近江山河抄)と書いているが、信仰だけでなく、日本の文化そのものが日本の自然とともにあり、日本の自然の中で育まれてきた。第2の日本列島改造論や廃棄物の山はご免である。放棄田ならやがて山や森にかえる。

       ★

<西国31番札所の長命寺>

 さて、話はわが旅に戻る。

 近江の水郷めぐりは、のどかな春景色の時季にまたいつか。

 今回は長命寺という寺だけ訪ねる。

 「琵琶湖周航の歌」の6番。

 「西国十番長命寺/汚れの現世(ウツシヨ)遠く去りて/黄金(コガネ)の波にいざ漕がん/語れ我が友熱き心」。

 もともと西国巡礼者は、30番札所の竹生島宝厳寺から31番の長命寺へ、船で向かったそうだ。(琵琶湖周航の歌の「西国10番」はちょっと ??)。

 長命寺の位置は山の中腹で、標高240mのあたり。船で着いたら808段の長い階段を登る。808段ですぞ

 50代の白洲正子はここを登ったが、今の私はその頃の彼女よりずっと年上だから、歩いての参詣はしない。

 実は9合目付近までくねくねと曲がる自動車道があることを知って、計画に入れた。横着な参詣であるが、巡礼の旅ではないのでお許しを。

   (長命寺の手水舎)

 車を降りて、それでもそれなりに石段を上がった。

   「寺には参詣人が多かった。長命の名が示すとおり、ここは不老不死を祈願する寺だからであろう」(『西国巡礼』)。

 私は、不老不死は願わない。

  「寺伝によると、長命寺は、景行天皇の御代に、武内宿禰がここに来て、柳の古木に長寿を祈ったのがはじまりである」(『近江山河抄』)。

 景行天皇は第12代の天皇で、ヤマトタケルの父。

 武内宿禰は、景行、成務、仲哀(神功皇后)、応神、仁徳の5代に仕え、葛城氏や蘇我氏の祖となったといわれる伝説上の人物。長寿の人としても知られる。

      

  (本堂と三重塔)

 「その後、聖徳太子が諸国巡遊の途上この山に立ち寄り、…… 寺を造って十一面観音を祀り、武内宿禰に因んで『長命寺』と名づけた。

 歴代の天皇の信仰が厚く、近江の佐々木氏の庇護のもとに発展し、西国31番の札所として栄えた。景色がいいのと、名前がよかったことも繁栄をもたらす原因となったであろう」(『近江山河抄』)。

 全国どこへ旅しても弘法大師は活躍しておられ、ため池を作ったり、温泉を掘り当てたりしているが、聖徳太子もあちこちにお寺を建立されている …… ようだ

     (木蔭の磐座)

 「山内には大きな磐座がいくつもあり、…… 仏教以前からの霊地であったことを語っている」(同)。 

       ★

 近江八幡の先で愛知川を越えた。鎌倉時代から戦国時代にかけて、この川より南は佐々木六角氏が守護、ここより北は佐々木京極氏。

 佐々木京極家は、戦国時代、小豪族だった浅井氏に北近江を乗っ取られた。佐々木六角氏は、足利義昭を擁して上洛する織田信長、浅井長政軍に蹴散らされた。

 もっとも、佐々木京極家は、後に京極高次が、浅井長政とお市との間に生まれた浅井3姉妹の次女のはつと結婚。関が原の戦いの折には家康側に付き、近江大津の城で毛利の大軍を引き受けて関が原に行かせず、関ヶ原の戦いのあと、家康から感謝された。大名家として幕末まで続く。

       ★

<国宝の天守の彦根城>

 琵琶湖周遊の旅の最後の夜は、彦根の料亭旅館に泊まった。小さな宿だが、料亭というだけに庭が美しい。

 チェックインしたあと、早速彦根城へ。

 天守が国宝として残っているのは、世界遺産の姫路城、そして犬山城、松本城、松江城と彦根城の5城のみ。

   明治初期の廃城令で各地の城は破壊・売却された。今にして思えば惜しい話である。

 私は高校卒業まで池田藩のあった岡山市で育ったが、その頃でも町に城下町の気風と第6高等学校の余韻が残っていた。だが、烏城と呼ばれた天守はなかった。

   彦根城も売却・解体されるところだった。たまたま明治天皇の巡行があり、この城の典雅さに感じた天皇が保存を求められて残されたと伝えられている。

  (中堀と城壁)

 堀と城壁の景観は、ヨーロッパの城とは違う美しさがある。特に、日本の城は水をたたえたお堀が美しい。

 橋を渡り、城内へ入ると、制服の高校生たちが三々五々歩いていた。校門があり、彦根東高等学校とある。青春の一時期をお城の中の高校で過ごすことができるのは幸せだ。日々、知らず知らずのうちに、地域の歴史と文化・伝統を感じ取って成長することだろう。

 奈良県にも、郡山城趾に名門の郡山高校がある。

 「不来方(コズカタ)のお城の草に寝ころびて/空に吸はれし/十五のこころ」 (石川啄木)

   (天秤櫓)

   天秤櫓は時代劇に出てきそうな風景。カッコいい。

 徳川家康に、徳川四天王と称された武将たちがいた。

 そのうち、三河以来の家臣である酒井忠次は、家康より15、6歳も年上。想像するに、家康にとっては叔父さんみたいな存在で、相当に遠慮があったに違いない。

 本田忠勝、榊原康政は5歳の年下。ちょうど良い年齢差だが、関ヶ原の戦い(1600年)のときには、家康はすでに57歳だった。大阪夏の陣(1615年)で豊臣家を滅ぼした時には72歳。この時代に、こんなに長生きする主人について行くのはしんどいだろう。

 関ヶ原の戦いでいよいよ天下を取ろうという命運を決める時、18歳年下の井伊直政は働き盛りの年齢。使い勝手が良かったに違いない。井伊直政の軍団は赤ぞなえで、徳川軍の中央部からキリのように敵中に突っ込んだ。ここが崩れたら、徳川軍は負ける。

 18歳も年下だから、井伊直政は偉大な家康に心服し、無条件で従った。武将として勇猛果敢であっただけでなく、人の心を解する心根と賢さも備えていた。例えば捕らえられた敗将の石田三成に対しても礼をもって遇している。家康がまちがいをすると、人のいない所で注意し、意見したという。18歳も年下の部下の直言に、家康は素直に耳を傾けた。そのあたりが人間関係の機微である。年下でも、息子(秀忠)では、互いにこうはいかない。

 関ヶ原のあと、井伊直政は近江国の北東部を与えられ(15万石)、佐和山城に入った。その2年後、関ヶ原の戦いの傷がもとで死ぬ。

 彦根城は、井伊の2代目のときに築城された。

司馬遼太郎『街道をゆく24』から

 「直政は、彦根城を築くことなく死んだ。つぎの直継の代に築かれるのだが、築城は幕命によるものだった」。

 「家康は築城を公儀普請とし、江戸から普請奉行3人を派遣しただけでなく、伊賀、伊勢、尾張、美濃、飛騨、若狭、越前の7カ国12大名に手伝わせた」。

 3代目は2代目の異母兄弟だが、直政を思わせる有能な武将だった。大坂冬の陣、夏の陣で活躍し、家康の死後は三代将軍の家光の後見役も務め、譜代大名筆頭の35万石の大名となった。井伊家は以後、幕末までに何回か大老を出す。

  (天守へ向かう)

 城中の城壁に沿って、曲がりながら上がる石段の向こうに、ちらと天守が見える。この瞬間がいい。

  (時報鐘)

 時報鐘は「日本音風景百選」。傾いた秋の日差しの中、城下町をバックにちょっとした日本の風景だ。

 天守は、3層になっている。

  (天守)

 ここまで登ってきた以上は、天守に立たねばならない。

 彦根城は戦さのための城だから、天守の階段も、攻め上がってくる敵を上から突き落とせるように急勾配で、なんと62度だという。歳月がつるつるに磨いた階段を何とか這い上がった。 

  (天守から琵琶湖を望む)

  「矢の根は深く埋もれて/夏草繁き堀の跡/古城にひとり佇(タタズ)めば/比良も伊吹も夢のごと」。

 この5番の歌詞の石碑は彦根の港にあるらしい。だが、この歌の「古城」は、浅井長政の小谷城址か、信長の安土城址か、石田三成の佐和山城址がふさわしい。彦根城ではない。

 徳川幕府の西の備えとして建てられた彦根城は、250年の平和の世に、天守や櫓は倉庫として使われていたという。麒麟は来たのだ。

 城の北側には、玄宮楽々園という庭園がある。 

  (玄宮楽々園)

 ここからも天守を望んで、趣深い。

      ★

 「彦根城は、西国30余カ国に対して武威を誇る象徴というよりも、むしろ湖畔にあって雅びを感じされるやさしさを持っている」(『街道をゆく24』)。

 城下町の小さな宿は、わが旅の宿としてはちょっと高級な宿だった。「やす井」の「井」は、井伊からいただいたそうだ。

 

   

 

 

 

 

 

 

  


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