ドナウ川の白い雲

ヨーロッパの旅の思い出、国内旅行で感じたこと、読んだ本の感想、日々の所感や意見など。

フェリーに乗ってコス島へ … わがエーゲ海の旅(11)

2019年08月11日 | 西欧旅行 … エーゲ海の旅

  ( コス島の聖ヨハネ騎士団の城壁 )

塩野七生『ロードス島攻防記』から

 「コスはレロスよりよほど大きな島だが、この島の守りもロードス島同様、島の端にある港に接した城塞に集中している。

 このコス島の港から対岸に迫る小アジアの西端までは、わずか10キロの距離しかない。だが、この10キロの間に横たわる海こそ、コンスタンティノープルからエジプトやシリアへ向かう船が、よほどの大船でもないかぎり、絶対に通らざるを得ない海峡なのだった」。

 ロードス島とその出先のコス島は、「イスラム教徒にとっては、蛇のねぐらであった。この『蛇たち』を、つまり海賊化した騎士たちを、古代からの伝統であった航海術によって助けたのが、ロードス原住のギリシャ人である」。

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ドデカニサ諸島のこと >

 時代は下って18世紀以後 …… オスマン帝国下のギリシャに、新市場を求めてヨーロッパの商人たちがやってくるようになる。交易をすれば大きな富を蓄えるギリシャ人も出てくる。古代からギリシャの国民性は海上交易を得意とした。富を蓄え豊かになったギリシャの貿易商たちは、やがて「反オスマン帝国」で立ち上がっていった。

 海上貿易で巨万の富を得たサロニコス諸島のイドラの商人たちも、自分たちの持ち船を武装させて、1821年に始まったギリシャ独立戦争に参戦した。(「エーゲ海1日クルーズ」の項参照)。

 1830年、オスマン帝国の弱体化をねらう列強国の介入もあって、ギリシャは建国する。

 しかし、オスマン帝国の支配下に取り残された地域も多く、しかも、弱体化していくオスマン帝国の領土をねらうロシア、イギリス、フランスなど列強の思惑もあって、ギリシャの内政は混乱し続けた。

 1908年には、小アジアからわずか10キロ少々の距離で南北に連なる「ドデカニサ諸島」も、オスマン帝国に反旗を翻して立ち上がった。

 「ドデカニサ」とは、12の島という意味らしい。ドデカニサ諸島の一番南に位置する大きな島がロードス島である。島はもっとたくさんあるのだが、オスマン帝国に反旗を翻した島々が12島であったから、こう呼ばれるようになった。

 だが、オスマン帝国の支配の後も、列強の思惑もあってドデカニサ諸島はイタリアに支配された。

 ロードス島を含むドデカニサ諸島がギリシャに返還されたのは、12の島が立ち上がって約40年後の1947年のことである。

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聖ヨハネ騎士団のコス島へ >

 ドデカニサ諸島を巡る定期便は、1日1便、一番南に位置するロードス島から出ている。運営しているのは「Dodekanisos Seaways」という船会社である。

 ロードスのコマーシャル・ハーバーを朝8時30分に出航し、シミ島、コス島などを経て、パトモス島まで行く。パトモスで折り返した船は、同じ港に寄港しながら再びロードスまで帰ってくる。ロードスに帰り着くのは午後6時30分だ。

 折り返しのパトモス港を含め、それぞれの港での寄港時間はわずか5分。だから、どの港であろうと、一度船を降りたら、戻ってくる船を待つしかない。

 パトモス島は昨年の「トルコ紀行」にも書いたが、12使徒のうちイエスの最も若い弟子ヨハネが「黙示録」を書いたという島である。ちょっと心ひかれる島だが、観光するには1泊しなければ無理である。

 それで、今回の旅の本来のテーマに戻って、聖ヨハネ騎士団の出先の城塞があるコス島へ行ってみることにした。

 ロードスを8時30分に出て、シミ島を経てコス島には10時55分に着く。

 帰りの船がコス島に着くのは、午後4時だから、その間の5時間をコス島で過ごすことになる。

 「Dodekanisos Seaways」には、ネットで予約した。

 一昔前なら大手の旅行業者に頼んでも断られたかもしれないエーゲ海のローカルな島の船会社に、個人で簡単に予約できてしまうのだから、世界のグローバル化の勢いはすさまじい。 

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フェリーに乗る >

 今日は、5月17日(金)。

 8時30分出航だから、昨日より早い。しかも、北のマンドラキ港ではなく、南のコマーシャル・ハーバーからだから、少し早起きしてホテルを出た。

 今日も朝からいいお天気だ。   

   コマーシャル・ハーバーの船会社のオフィスで予約を確認してもらい、繋留していた船に乗船する。

 船はフェリーで、車もすでに2、3台載っていた。

 昨日のリンドス行の船は、ロードス島の海岸に沿って東海岸のリンドスまで行くツアーボートだったが、今日は島から島へと言わば外洋を行く定期便だから、昨日の船よりかなり大きい。

 船室も広々としていた。

 とりあえず船室に坐って、出航を待った。

 フェリーは動き出した途端、上下に激しく揺れた。こんな調子でコス島まで行くのかと驚いたが、すぐに静かに進みだし、ロードスの街を離れていく。

 

 船室の座席数と比べて、乗客はかなり少なかった。5月はエーゲ海の島々にとって、やっとシーズンインしたばかりなのだ。

 観光客だけでなく、ロードス島に働きに来て、1週間ぶりに故郷の島に帰るといった感じのジャンパーを着た体格のいいおじさんたちも乗っていた。

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美しいパステルカラーのシミ島 > 

 ロードスから北へ約24キロ。1時間足らずでシミ島に着いた。 

 船上から眺めるシミ・タウンは、パステルカラーの美しい街だった。

 一昨日、マンドラキ港を歩いていたとき、リンドス行のツアーボートの予約を受付るテーブルを見つけたが、同じようにシミ島行きのツアーボートの予約をとっているテーブルもあった。

 こんなに美しい街なら、ツアーボートが出ていても不思議でない。

 ただ、シミ島は、リンドスのアクロポリスのような観光すべき遺跡があるわけではなく、この小さな港町を出ると、あとは透明度の高い入り江や素朴な漁村しかないらしい。

 フェリーの観光客は、みんなデッキに出て、夢中になってこの美しい街を撮影していた。

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聖ヨハネ騎士団の城塞 >

 ロードスから2時間半。コス島の埠頭に着いた。

 10数人ばかりの観光客と、労働者風の地元の人も降りた。

 エーゲ海の中でも、ローカルなロードス島よりさらに田舎のコス島にやってくるのは、何が目的??

   訪れる人々の多くは、西欧系のリゾート客だ。今はまだ訪れる人は少ないが、夏のシーズンに入れば、船の着くコス・タウンと各ビーチの間を頻繁にバスが行き来するらしい。自然のままのエーゲ海が魅力なのだ。

 ただ、コス島にも規模はごく小さいが、古代ギリシャ時代の遺跡も残っている。

 コス・タウンのすぐそばに、「古代アゴラ」の跡がある。古代のコスの町の中心街の跡だ。

 また、この島は、「西洋医学の父」と呼ばれるヒポクラテスが生まれた島だ。お医者さんなら誰でもその名は知っているのだろうが、BC5~4世紀ごろの人である。

 今回行くつもりはないが、コス・タウンから4キロほど奥に入ると、「アスクレピオンの遺跡」がある。そこはヒポクラテスが創建した病院兼医学校があった所とされ、また、医療の神アスクレピオスを祀った神殿や柱廊の遺跡がわずかだが残っているそうだ。アスクレピオスを祀った神殿は、昨年訪ねたトルコのベルガモにもあった。

 そして、コス島の3つ目の魅力が、聖ヨハネ騎士団の城塞である。

 フェリーが着いた埠頭のすぐ目の前に、城壁が続いていた。

 この島に城塞が築かれたのはビザンティン帝国時代で、オスマン帝国への脅威からだった。

 しかし、オスマン帝国は、1453年にビザンティン帝国の首都コンスタンティノープルを陥落させ、さらにビザンティン帝国を構成していた諸国を制圧していった。

 1480年にはロードス島にも、10万の大軍が遠征してきたが、聖ヨハネ騎士団は3か月に渡る攻防戦の末に撃退した。

 オスマン帝国がこのまま引き下がるとは思えず、騎士団はロードスの城塞を大砲の時代にふさわしく近代化し、また、コス島の城壁の外側に、より頑丈な外壁をめぐらせて二重の城壁にした。

 1517年には、オスマン帝国はエジプトを征服し、その結果、イスタンブールとエジプトを結ぶ商航路がつくられる。それは、オスマン帝国が東地中海をわが内海にすることでもあった。

 この商航路に立ちふさがったのが、ロードスとその出先のコスに根城を置くいわば海賊化した聖ヨハネ騎士団だった。 

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 城壁の中に入れば、少し高い所から海や街を望むことができるらしい。まずは、城壁の中に入りたいと思って、城壁に沿っててくてくと歩くが、入場口が見つからない。

 コス・タウンの観光案内所に行って尋ねてみようと思ったが、案内所もまだオフシーズンで、閉鎖されているようだ。

 歩き疲れ、どうしたものかと思っていると、にぎやかなコス・タウンの道路わきから観光トレインが発車しようとしていた。

 とりあえず、これに乗って、町の主な見どころを一巡りしてみよう。

 何か興味をひくものがあれば、あとでもう一度見学にきたらよいと思ったのだが …… 観光トレインから見るコスの町の景色は、ローカルな商店街や住宅街ばかり。住宅街の一角に小さな遺跡があったりするが、いずれも雑草の中に礎石や大きな石がごろごろと置かれているだけで、よほどのマニアでない限りわざわざ見学に来るような所ではなかった。

 30分ほどかけて町をトコトコ走り、コス・タウンに戻ったとき、車掌の女性に騎士団の城塞の入口はどこかと聞いてみた。

 すると、2017年の地震で崩れて、危険なのでクローズになっている、という答え。

 ギリシャもトルコも地震の多い国なのだ。ロードスのあの巨像も地震で倒れた。

 日本で見たネットでも、ローカルなエーゲ海の小島の情報は少なく、こういう状況になっていようとは全く知らなかった。

   さっきフェリーが着いた埠頭から、入り江になってコス・タウンの港があるが、繋留されている船はあっても、出入りしている船は全くない。この港もクローズ状態なのかもしれない。

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 やむをえず、観光客で賑わっているコス・タウンのタベルナに入って、おそい昼食をとった。

 ウエイターの若者との会話。

 どこから来たの?? ── 日本から。

 日本はすごいね。ドイツと並んで、世界のトップクラスの技術立国だ ── いや、今では中国や韓国に追いつかれているよ。

 そんなことはない。日本の自動車や電気製品は素晴らしい。まだ追いつかれていないよ。料理はこの店が一番だけどね。(笑い)

 華やかなサントリーニ島などと違って、ローカルなロードス島や、さらにローカルなコス島には、中国人観光客も押し寄せて来ない。

 しかし、ギリシャが世界に誇ったアテネのピレウス港は、既に中国の国有企業に買い取られている。ヨーロッパを席巻しているサムスンの製品は、この若者も知っているだろう。

 日本びいきなのかもしれない???

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コス島散策 >

 昼食後、コス・タウンの周辺を散策してみることにした。 

  歩いていると、「ヒポクラテスの木」があった。

 プラタナスの年老いた巨木だが、昔、この木の下で「西洋医学の父」と言われるヒポクラテスが人々に医学を説いたのだという。

 ちなみにヒポクラテスはBC460年ごろに生まれたとされるから、そうなると、この木の樹齢は2500年以上になる!!??

 その真偽はともかく、日本の著名な大学の医学部や大学病院などにも、この木の子孫が植えられているそうだ。医学の世界では、伝説上の木なのだろう。

 ヒポクラテスという人は、初めて医術を迷信や呪術から切り離して、臨床と観察を重んじた人らしい。また、弟子たちに「ヒポクラテスの誓い」をさせた。そこには、医療に当たって自由人と奴隷とを差別してはいけないとか、往診した家で知った秘密を他に漏らしてはいけないなどという医師の倫理が書かれている。

 しかし、ヒポクラテスの前にヒポクラテスはないのだが、ヒポクラテスの後にもヒポクラテスはなかったらしい。つまり、中世を過ぎ、ルネッサンスに至らなければ、ヨーロッパにヒポクラテスの医学を継承する者は出なかった。

 ただし、それはヨーロッパ世界のことで、ヒポクラテスの医学を含め、古代ギリシャ・ローマ文明を継承したのは、イスラム圏であった。

木村尚三郎『西欧文明の現像』(講談社学術文庫)から

 「ギリシャ・ローマ文化と西欧世界との間には、本来きわめて深い断絶があった」。

 「西ヨーロッパがプラトンやアリストテレスの著作を知ったのは、12世紀のことであり、それもイスラム教徒を介してのことだった。

 すなわち、8世紀のはじめから10世紀はじめまで、ヨーロッパで最も高い文化をきずきあげていたのは、イスラム教徒によるスペインの後ウマイヤ朝であった」。

 「… 首都コルドバは人口50万から80万、…… 図書館数70にのぼったといわれる。そしてカリフ図書館の蔵書数40万~60万巻、蔵書目録だけでも44巻もあった。

 当時のコルドバは、もちろんヨーロッパ一の大都会であり、道路は舗装され、夜は街灯がともっていたという」。

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 ヒポクラテスの木から、「古代アゴラ」と呼ばれる遺跡のある一角へ入った。

 『歩き方』には、ヘラクレスの神殿の跡とかアフロディテの祭壇の跡があると書いてある。

 

 しかし、見る人が見れば面白いのだろうが、素人にはいささか殺風景な遺跡だった。英語の説明版もあったが、ちょっと読めない。

 「古代アゴラ」の一角を抜けると、ピンクのドームと白い壁のギリシャ正教の教会があった。説明版があったから、何か由緒のある教会なのだろう。

 ギリシャに来て思うのは、イタリアやフランスの聖堂と比べると、こちらの方がずっと小さいことである。

 オスマン帝国の支配の下、キリスト教信仰は許されてはいても、西欧圏のカソリックのような巨大な権力・財力を持つことは到底許されなかったのだろう。

 だが、オスマン帝国からの独立戦争を戦うアイデンティティの一つとなったのはギリシャ正教である。今、ギリシャ正教は国教で、国民の98%が信者である。

 カソリックやプロテスタントと違って、教義に「原罪」はないらしい。人はみな善なる存在として生まれてくるのだそうだ。オスマン帝国の圧政に加えて、教会からも「お前たちは罪びとだ」などと責められたら、人々は救われようがない。

 教会の先は、道路を隔てて、海。

 たいして見学する所もないので、エーゲ海のほとりでのんびり時間を過ごした。

 海岸で遊んでいる家族がいた。子どもはよく日焼けしていた。 

 ドデカニサ諸島の中でも、ここはトルコとの距離が最も近い島の1つである。向こうに見えるのは、トルコかもしれない。

 見るべき何もない島で、半日、のんびり過ごした。ツアーの場合は言うまでもないのだが、個人の旅でも、私も日本人だから、対象はしぼりつつも結構、見学して歩く。

 海外旅行に来てこんなにのんびりしたことはないが、これはこれで楽しかった。── ここはエーゲ海なのだから。

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 マンドラキ港と月 >

 午後6時半、コマーシャル・ハーバーの岸壁に着いた。

 海沿いの道を歩いて、マンドラキ港の北の端まで帰る。

 黄昏時のマンドラキ港の景観は印象的だった。

 鹿の像とセント・ニコラス要塞、海の色、空の色、すべてが絵のようだ。 

 風車の上空に、今日も月がかかっている。今日が満月なのかもしれない。或いは、十六夜の月だろうか。

 

 やがて太陽も完全に沈み、セント・ニコラス要塞の灯台が明かりを灯した。

 いつまでも去りがたい景色だった。

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 今日は、コス島の中を散策したから14000歩。

 明日は、ロードス島最後の1日だ。1日かけて、ロードス・タウンの旧市街と聖ヨハネ騎士団の要塞を見学する。

 時間があれば、ロードスのアクロポリスにも行ってみたい。そこも、コスの遺跡と同じように、寂れて、ほとんど顧みられなくなった遺跡なのだが、中世の前には、古代があった。古代はロードス・タウンの外である。 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


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