大分県立歴史博物館を出発して、車を南へ走らせ、山香(ヤマカ)という分岐で10号線と別れて、いよいよ国東半島の山中に入って行く。
しばらくは山また山の谷筋を用心しながら運転し、ほどなく熊野磨崖仏のある胎蔵寺の駐車場に着いた。
小さなお寺の入り口で入山料を払う。
杖を持って行った方が良いと勧めらて拝借した。
寺の公式サイトによると、この寺の創建は718年ということになっている。国東半島の六郷の多くの寺と同じように、領主である宇佐神宮が造った寺である。
寺の脇から入る薄暗い山道をたどる。
早く磨崖仏を見たいと心急く気持ちを抑えて、一歩一歩足を踏みしめながら登って行く。
紅葉がはじまっていた。大阪や奈良より早い。
( 胎蔵寺の紅葉 )
300mほど登ると、突然、目の前に蒼古とした石の鳥居と、その先に、天にまで続いているかのような急峻な石段が現れた。あたりは樹木が鬱蒼として、人けはなく、不気味である。
( 石の鳥居と石段 )
石段は、鬼が一夜にして積み上げたという伝説がある。自然石を乱積みしただけのものだから、歩幅も一定せず、足の置き場に気を取られ、おそろしく急峻で、足腰に負担がかかった。
それでも、一歩一歩登っていると、突然、左手に視界が開け、大きな岩壁に彫られた2体の磨崖仏が現れた。
( 岩壁に刻まれた磨崖仏 )
左は不動明王。高さ約8m。不動明王は憤怒の形相の怖い仏様だが、この不動様は柔和で、ユーモラスでさえある。
( 不動明王 )
右は大日如来。高さ約6.7m。きりっとした男らしいお顔は若々しい。
( 大日如来 )
伝説によると、寺を開いたとき(718年)に、宇佐八幡の化身である仁聞菩薩が彫ったという。だが、寺の公式サイトでも、その他の説明でも、平安時代の末期の作としている。
あとから2人づれが登ってきて、仏様の下に立つと、人間と比べてなるほど大きい。日本で最古、最大の磨崖仏だと言う。こんな山中の岩壁に、このような巨大な仏を彫ろうと思い、彫り続けた人の思いを想像する。
乱積みの石段は、さらに上へ向かって延びていた。この先に何があるのだろう?? ここまで登って来た以上は見極めたいと思って、元気を出して登って行く。すると、やがて鳥居があって、そこで石段は尽き、鳥居の先に粗末な古びた社があった。…… 熊野神社とある。
( 熊野神社 )
これも寺のホームページによるが、熊野詣が盛んだった平安時代の末期、当時の住職もまた遥々と紀伊半島の山奥まで参詣に行って、当寺に熊野権現を勧請し、寺の名も「今熊野胎蔵寺」に改名した。今も、これがこの寺の正式名称だそうだ。
それで、この磨崖仏に「熊野」が付いて、「熊野磨崖仏」と呼ばれるのだと、改めて得心した。日本人の心は融通無碍で、和をもって尊しとし、神と仏も習合する。
さらに、ホームページには、この磨崖仏を彫ったのは、その住職だとする。鎌倉初期の記録には、この磨崖仏は登場するそうで、よって平安末期には造られていたことは確からしい。
★
713年、朝廷は律令支配を辺境にまで及ぼすため、日向の国から大隅の国を分離し、新たに国司を派遣した。
720年、大隅の国司が殺され、大規模な反乱が起きる。隼人の乱である。
このとき、万葉歌人として有名な大伴旅人を司令官とする征討軍が派遣され、2年に渡る激しい戦闘の末、多くの血が流されて、乱は鎮圧された。
この乱のとき、朝廷軍の側に立って、乱鎮圧に貢献したのが、豊の国の一大勢力であった宇佐八幡宮の軍勢であった。
乱のあと、宇佐一帯に流行り病や凶作が続き、人々は戦さで多くの人を殺した祟り(タタリ)ではないかと畏れた。そして、ちょうどそのころに伝来した新しい教えである仏教に、殺生からの救済を求めた。
隼人の慰霊と自らの減罪のため、殺生を戒める仏教の儀式である放生会が神道にとり入れられたのも、このころである。
宇佐八幡宮の中には、立派な神宮寺が造られた。国東半島の所領地にも次々と寺が建立された。
聖武天皇が大仏造立の詔を出したとき、いち早く神託をもって帝を励ましたのも、こういう事情があった。
神仏習合は、国東半島から始まった。
この列島に生きてきた人々の心は、神と仏の両方を必要としたのである。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます