( 「古園石仏」の建物を望む )
臼杵(ウスキ) 石仏は、昨夜泊まった温泉宿から車で10分足らずの所にある。
観光客はいない。本日、最初の拝観者だ。
清浄の気。
ボランティアのおじさん一人、それとは別に、おばさんたち数人が、4か所の石仏群を巡って、小道や石仏を蔽う建物の中を掃除し、清めていた。
山の中腹に、4群、60余躯の石仏がある。
長年、土地の人々から「臼杵石仏」と呼ばれてきたが、「臼杵磨崖仏」の名称で国宝に指定された。石仏、或いは、磨崖仏の国宝は初めてである。
石仏か、磨崖仏か? 昨日、拝観した「熊野磨崖仏」のような、大きな岩壁に彫り出された巨大なお姿ではない。しかし、建物に蔽われてわかりにくいが、自然のままの岩盤に掘られたみ仏であることも確かだ。
駐車場から、整備された細い山道を登っ行くと、「ホキ石仏第二群」から「ホキ石仏第一群」を見学し、さらに谷を跨ぐように隣の山腹に分け登って「山王山石仏」、さらに、石仏公園の方へ下って「古園石仏」と歩くことになる。この順に拝観して回れるように山道がついているのだ。
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< ホキ石仏第二群 >
ホキは崖(ガケ)の意。
ホキ石仏第二群の第一龕には阿弥陀三尊像がある。龕(ガン)は厨子。仏像を安置する堂の形をした仏具。
毅然とした表情の阿弥陀如来像は、臼杵石仏群の秀作の一つとされる。
( 阿弥陀三尊像 )
第二龕には9体の比較的小さな阿弥陀如来像がある。中央の一尊に彩色が残っていることから、ここにある石仏群はすべて、もともと彩色されていたことがわかる。
( 彩色の残る阿弥陀像 )
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< ホキ石仏第一群 >
第二群から少し登ったホキ石仏第一群には、4つの龕がある。
第一龕と第二龕はともに如来坐像3躯。
第一龕の阿弥陀如来は、墨で目や眉が描かれ、第一群の中の中心的存在である。
( 第一龕の如来坐像 )
第三龕は大日如来を中心に、第四龕は左脚を立てて坐す地蔵菩薩を中心に、仏たちが並ぶ。
( 第四龕の左脚を立てた地蔵菩薩 )
これらの石仏群は、いったいいつ頃、誰が、どんな事情で、どのような彫刻師たちに造らせたのか?
その時期や事情を証する資料は何も残っていないそうだ。ただ、その様式などから、大部分は平安時代後期の作とされる。
そのなかで、この第一群の第三龕と第四龕の石仏は、鎌倉時代に付け加えられたものらしい。確かにリアリティがあり、力強い。
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< 山王山石仏群 >
ちょっとした山越えをするように登ると、一番高所にあるのが、山王山石仏群。
3躯の中心にある丈六の如来像は、その童顔に人気があって、「隠れ地蔵」とも呼ばれているそうだ。
( 柔和な如来のお顔 )
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< 古園石仏群 >
そこから山道をやや下って、眺望のよい所に古園石仏群がある。
( 眺望の良い古園石仏の建物 )
金剛界曼荼羅を表して13躯が並び、その中心には大日如来像が座す。
( 曼荼羅を表すという仏たち )
端正で気品があり、傑作の評価が高い。切手の絵柄にもなった。かすかに彩色が残っているかのように見えるのも、ゆかしい。
( 大日如来像のお顔 )
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< 真名野長者伝説 >
この石仏群の由来を証する記録はないが、伝説はある。その伝説にちなんだ「うすき竹宵」という雅びなお祭も臼杵市に残り、毎年、営まれているそうだ。
伝説は題も定まったものはないのだが、一応、「真名野(マナノ)長者伝説」ということにして、紹介する。
大和にあった都に玉津姫という姫君がいた。顔に醜いあざがあり、縁談がなかった。それで三輪さんに願をかけた。すると、夢に三輪明神が現れ、豊後の国の深田の炭焼き、小五郎という者の妻になれ、とお告げがあった。
途中、難に遭うのだが省略して、やっとのことで豊後の深田に着き、貧しい炭焼の小五郎に遇った。
不思議なことが起こった。夢のお告げにあった近くの淵で姫が顔を洗うと、顔のあざは消え、輝くばかりに美しい姫になった。また、小五郎の炭焼き小屋の周囲にはたくさんの金があり、小五郎は金というものの価値を知らなかったのだが、お陰で二人は豊かになった。
もちろん二人は夫婦となり、真名野原(マナノハラ)という所に長者屋敷を建てて、幸せに暮らした。
娘が生まれたので、般若姫と名付けた。成長するにつれて、光り輝くばかりの美女となり、評判は都にまで伝わった。それで、多くの貴族が結婚を申し込んできたが、長者夫婦は「大事な跡取り娘だから」と断った。
ところで、時の帝に二人の皇子がいた。弟皇子は兄に命を狙われ、「評判の般若姫を見に行く」ということを口実に都を脱出した。そして、宇佐八幡宮に参詣したあと、名前を「山路」と変えて、長者の家の下働きになった。
あるとき、般若姫が重病になった。祈願したところ、「三重の笠掛を射よ」とのお告げがあった。しかし、長者夫婦には意味が分からない。当惑していると、「山路」が三重まで馬を入らせ、笠掛を弓で射て、山王権現の錫杖を受けて、戻ってきた。すると、姫の病気は治った。長者夫婦は喜んで、二人を結婚させた。
ある日、兄の天皇が亡くなったので戻るようとの勅使が来た。「山路」は長者夫婦に本当の身分を明かし、都へ帰ることにした。そのとき姫は身ごもっていた。皇子は、男の子が生まれたら一緒に都にくるように、女の子なら長者夫婦の跡継ぎとして残し、姫は一人で上京するようにと言い残して旅立った。大和に帰った皇子は、用明天皇と呼ばれるようになる帝となった。
般若姫は女の子を生んで、玉絵姫と名付け、その子を長者夫婦に預けて、自らは千人余りの従者を引き連れて船出した。
ところが、周防灘で暴風雨に遭い、漁村に漂着して、土地の村人に数日間介抱されたが、亡くなった。まだ19歳だった。
長者は姫の死を悲しみ、菩提を弔うためあちこちの寺に寄進し、遠く中国の寺にも寄進した。すると、中国から蓮城法師という人がやってきた。長者はこの法師のために満月寺を建て、石仏の製作を頼んだ。そこで、法師は、数年の歳月をかけて深田の里一帯に石仏を彫った。
これが臼杵石仏群の由来だとさ。
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伝説は伝説。用明天皇は聖徳太子の父で、蘇我馬子などが活躍していた時代の天皇である。臼杵石仏群の様式はそれより500年以上も後のもの。だから、この伝説はそもそも時代が合わない。
ただ、この伝説も室町時代には既に存在していたことがわかっているから、伝説の成り立ちもそれなりに古い。
いつのころのことか、土地の長者(豪族)の愛娘が亡くなり、その深い悲哀の心が、どうしても菩提を弔いたいという思いとなって、都の仏師を呼び寄せ、次々と石仏が彫られて数年を経た … というような出来事はあったのかもしれない。そういう深く強い思いがなければ、これだけの石の仏を、このような場所に彫り込んでいくという作業はできないように思われる。
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< 石仏公園で >
臼杵摩崖仏4群のある山から石仏公園の方へ降りていく。この公園も高台で、しかも、ひろびろとしていて、空が広いと感じる。
小さな流れの先に、長者が蓮城法師のために建てたちいう満月寺があり、その前にはユーモラスな2躯の仁王の石仏があった。
( 仁王像 )
また、その一角に、石仏を彫った蓮城法師の像、それを依頼した真名野の長者夫妻のかなり風化した像がある。
室町時代の作だそうだが、磨崖仏がプロフェショナルであるのに対して、こちらはいずれも稚拙で、しかも、風化し、愛嬌があって、むしろ21世紀の感性に合っている。
( 真名野の長者夫婦像 )
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公園の一角に、土地の中学校の卒業記念かと思われる石碑がいくつも設置されていた。その中の一つが目に留まった。
「世間は生きている。理屈は死んでいる」(勝海舟)
勝海舟らしい、味のある、いい言葉だ。これが本当にわかるようになるには、相当の勉強と、経験が必要である。
それにしても、この言葉を選んだのは … まさか中学生の多数決とは思えない。
一人の読書好き、物識り、勝海舟ファンの、ませた男子がいて、この言葉を提案し、回りの男子たちが「オー、かっこええ! 」と、まあ言わば付和雷同したのか …? それとも、先生たちの言動に少々うんざりしていた校長先生がいて、そこへ生徒会代表が「碑文に書く何か良い言葉はありませんか?」と相談に来たとか……?
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